第4話 テメエが無駄って決めるな
両足を肩幅より少し広いくらいに開く。膝を曲げ、低い姿勢を取る。
ケレベクも同じだ。足を軽く開き、身をかがめた。
深い息を吐く。その音を聞く。
ケレベクはギョクハンよりひと回り背が高い。体重はひと回りどころか倍近く違うかもしれない。筋肉の鎧の上にうっすら脂肪の肉をまとっている。分厚い。鷹の足のように広げられた指も太くたくましくあれでつかまれたら終わりだと思った。どこにも隙がない。
だが、人間相手には負けない。
ケレベクが突進してきた。その勢いはけして速くはないが重い。
試しに受け止めてみることにした。ぶつかり合う。強い衝撃。ギョクハンは撥ね飛ばされて上体をのけぞらせた。
ケレベクが腕を伸ばす。ギョクハンの腰を抱えるように引き寄せる。
膝の裏に足をまわされた。膝が曲がる。
その場に背中から崩れ落ちる。床に背中を叩きつけた。
すぐさまケレベクはのしかかってきた。ギョクハンの腹の上に馬乗りになった。
右の拳が降ってくる。左の頬にめり込む。口の中に鉄の味が広がった。
すぐ左の拳も降ってきた。右の頬にめり込む。
ケレベクは笑っていた。
勝負は四角い空間から出ることで決着をつけると言っていた。ギョクハンはまだ空間から出ていない。この状態では自分の意思でも出ることはできない。
いたぶっている。
ケレベクの右手が、ギョクハンの頭をつかんだ。顔面と顔面が近づく。
「俺のものになれ、ギョクハン」
息と唾が顔にかかる。
「おうちに帰らなくていい。ここで愉快にやろう」
ギョクハンは顔をしかめた。
「さっきと言ってることが違うぞ。負けたら俺たちは黙って家に帰るんじゃないのか」
「もったいない。お前ほど強い若者は長生きすべきだ。どうせワルダはもう長くはもたない。無駄死にするな。すべて命があっての物種だぞ」
心外だった。
腹から声を出した。
「テメエが無駄って決めるな!」
右の拳を横から薙ぐように振った。ケレベクの潰れた左目を狙った。ケレベクはすぐに察して左腕を掲げギョクハンの右手首を受け止めた。
「そもそも俺は死なない! ザイナブ様と生きる!」
「それでいい」
余裕ぶっているところに腹が立つ。
身をよじったが重すぎてどうにもならない。
左腕を伸ばした。
体重で勝負したら負ける。
だがどんな巨体でも関節は関節だ。ケレベクの膝の裏に腕をめり込ませた。思い切り引き寄せた。
ケレベクが手を離した。
右腕をさらに振る。ケレベクの首の右側に拳を持ってくる。
手首で首を打った。ケレベクの首は太くたくましくそれだけでは何の衝撃にもならかったようだが――
首を右から押しながら膝を前に引き寄せた。右から左へ崩れるように体勢が崩れる。
右側に体をよじった。
脱出できた。
ケレベクの背後にまわる。ケレベクは当然すぐに後ろを向いた。しかし振り向き方が、上半身からなのだ。下半身が一拍分遅れている。
全身がこちらを向いた瞬間、腰にしがみついた。骨盤を押さえた。
前に突き飛ばす。
ケレベクの体が臍の辺りで折れる。巨体が床に倒れる。
今度はギョクハンがケレベクの上に馬乗りになった。
直後だ。
ケレベクが手の平をまっすぐ突き出した。胸を掌底で突かれた。一瞬呼吸が止まった。心臓も止まったかと思った。
弾き飛ばされそうになった。どうにか踏みとどまった。両足に力を込めて耐えた。そのまま後ろに倒れたら外に出てしまう。でも呼吸ができない。
ギョクハンはあえて膝を折った。前に倒れて、床に両手をついて息を吐いた。
「しぶといな」
ケレベクが立った状態でギョクハンを見下ろす。
「そういうの俺は好きだ」
「ナメんな!」
低い姿勢のまま膝のばねで突っ込んだ。ケレベクの膝を抱え込んだ。ケレベクが「おっ」と声を漏らした。
全身全霊、すべての力を出し切る。今日はこのまま力を出し尽くして倒れてもいい。
明日生きていれば構わない。明日ワルダに――ザイナブのもとに帰れるなら、何でもする。
ケレベクの体を、肩にのせ、抱え上げた。腿を腕にのせることさえできれば、あとはケレベク自身の重さで地面に落ちる。
重い音がした。ケレベクが頭から後ろの床に落ちた音だ。
振り返った。
ケレベクの頭がわずかに緞帳の外に出ていた。首を押さえながら、「やるな、小僧」と笑う。
「一本先取だ」
「……は?」
「二人分やるんだろう」
ゆっくり、立ち上がる。
「もう一本だ」
自分が言い出したことだ。ギョクハンは拳を握り締めて構えつつ、「ああ」と頷いた。
「もう一本。やってやる」
ケレベクが咆哮を上げながら突進してきた。
ギョクハンは右足を持ち上げた。
ケレベクの顔面、左の頬を足の親指の付け根で蹴った。
入った。
ケレベクの体が一瞬硬直した。
右の拳を振った。ケレベクの頬にめり込んだ。ケレベクがうめいた。
すかさず左膝を曲げてケレベクの顎の下にめり込ませた。
決まった。
胸を両手の掌底で突いた。ケレベクにされたことのお返しだ。
ケレベクが、あおむけに、後ろに倒れていった。ケレベクの頭が、緞帳の外についた。
ギョクハンはまっすぐ立ち、ケレベクを、見下ろした。
「二本。取ったぞ」
後頭部を打ったせいだろう、ケレベクの右目はしばらくおかしな動きをしていたが、一度まぶたを下ろし、しばらく待ってから開くと、ギョクハンをまっすぐ見た。
大きな声で笑った。
「答えが出たな、小僧」
ギョクハンは目を丸くした。
「一本軸の通った人間は――信じるものを信じられる人間は、強いだろう」
ケレベクが、ゆっくり、上半身を起こす。
「速い。なかなかのもんだ。それでいてよく吸収する。若いってことだな」
構成員たちが近寄ってきて、左右からケレベクの脇の下に腕を通し、抱えるように持ち上げて起こした。ケレベクが「よいしょ」と言いながら二本の足で立った。
「組長」
構成員の一人が短刀を抜く。
「始末しやしょうか」
ケレベクはすぐに「やめとけ」と言った。
「言い出したのは俺だ。約束は守る」
彼は「威勢のいい若者が好きでな」と言いながら構成員が差し出した上着に袖を通した。
「戦えギョクハン。最後まで。抗え。信じるもののために」
「……はい」
ギョクハンが答えると、ケレベクは「どれ」と呟いた。
「行くか。お前も服を着て支度しろ」
「どこへ?」
「宮廷で今一番の実力者。会いに行くんだろう」
右目を細める。
「会わせてやる。大宰相ウスマーンだ」




