第3話 お友達になりましょう
その夜、ギョクハンは城の家畜部屋に呼ばれた。城の一階北側にある、ハサンとザイナブの馬を飼育している部屋だ。
ザイナブから言伝を預かってきた女官の言いつけどおり、ギョクハンは軍人奴隷部隊の厩舎から一番大事にしている馬を連れてきた。ギョクハンがこの世でザイナブの次に美しいと思っている大事な恋人――のつもりで世話をしている、真っ黒な毛並みの牝馬だ。名をカラという。トゥラン語で黒い色を意味する単語だ。背が高く四肢が長いカリーム馬と呼ばれる品種の馬だが、ギョクハンが奴隷軍人としてハサンに買われた時にハサンがギョクハンのために買ってくれた馬で、なんとなく故郷の草原から一緒に買い取られたように思ったのである。
なぜ呼ばれたのだろう。それも自分だけが、だ。しかも馬を連れて、とは、いったい何をさせられるのだろう。
ギョクハンの胸は期待で躍った。
ひょっとして、自分はこれから援軍を求めに行く務めを負うのではないか。
ワルダ城を、ひいてはザイナブを救う重要な役目だ。その大事な任務を自分に授けられる、と思うと嬉しかった。先輩たちとともに戦えなくなるのは惜しいが、ザイナブのために別の戦いに赴くのだと思えば名誉なことだ。ハサンにも顔向けできる。
しかしそれならどうして家畜部屋なのだろうか。
城の裏手から家畜部屋に入った。
時刻は夜、すでに月が傾く頃だ。しかも家畜部屋には動物がいるので夜はおおっぴらに灯りをつけないのが原則である。ほんのわずか地下にめり込む出入り口は真っ暗で、ギョクハンは月光を頼りに下りていくしかなかった。
家畜部屋に入ると、奥の方にぼんやりとした光がある。誰かが油灯に火をつけているらしい。きっとザイナブだろう。ギョクハンはその光を目指して歩いた。
「ギョク」
ギョクハンを呼ぶ優しい声はやはりザイナブのものだ。足元に油灯を置いた状態で、ザイナブがたたずんでいる。丈の長い真っ黒な服を着ているが、飾り気のないところが逆に彼女のすらりとした体躯を強調しているようだ。面紗をつけておらず、花のかんばせがあらわになっている。形のよい鼻、穏やかに微笑む唇――その様子だけ見ているととても昼間の鎖帷子を着た女傑と同一人物とは思えない。優美で優雅な二十三歳の姫君だ。
「よく来てくれました。やはりカラが一緒なのですね」
ギョクハンは、久しぶりに見るザイナブの美しい顔にどきまぎして、思わずカラに身を寄せた。カラは鼻面でギョクハンを押し戻した。
「カラがギョクの傍についていてくれるのならば安心です」
そう言いつつ、ザイナブはかがんで足元の油灯に手を伸ばした。
「まず、ギョクに紹介しなければならない者があります」
油灯をかざす。
ザイナブの一歩後ろ左側、馬たちが並んでいる中に、人間の姿があった。
ギョクハンは一瞬目を奪われた。
夜の闇を溶かしたかのような黒髪は、長く伸ばされて一本に束ねられており、その毛先は緩やかな弧を描いている。幅の狭い鼻は高い。少し厚めの唇は肉感的でほのかな官能を思わせた。肌は滑らかで傷もあばたもない。華奢な手足は細く長く糸杉のようにしなやかだ。何より、大きなあんず型の目、二重まぶたの中に納まる黒真珠のような瞳は、炎の光を吸い込んで輝いている。
美しい。まるで猫のようだ。アシュラフ地方が原産だという毛の長い猫を連想した。高貴な身分の人間にしか飼えない猫だ。
最初は少女だと思った。だが、膝丈で前釦式の服を着ており、その服の下に穿いている筒袴の裾は長靴にしまわれている。つまり、男の恰好をしている。男装の麗人だろうか。倒錯的で目眩がする。
「ファルザードです」
聞き慣れぬ甘美な響きの名は、おそらく、アシュラフ語だ。
「父の酒姫をしていた者の中で一番の美人、聡明で機転の利くアシュラフ人です。年はお前のひとつ下、十四歳です」
麗人――ファルザードが、にこりと微笑んだ。その笑みの妖艶なことは邪悪ですらあり、美男美女の名産地として知られるアシュラフ地方の何たるかをギョクハンの心に刻み込んだ。まるで悪い精霊だ。
「酒姫……」
酒汲みの小姓のことである。啓典で酌婦がみだらだといわれているので、代わりに少年を置くのだ。主人に酒を注ぎ、食事の世話をし、雑務をこなす。選ばれた美しい少年にしか務まらない仕事である。
つまり、男の子なのである。
ギョクハンはがっかりした。絶世の美少女だと思ったが、正しくは、絶世の美少年だ。
細められた目がアシュラフ猫を思わせる。
「初めまして。ファルザードです」
まだ声変わりを済ませていない少年の声は甘くまろやかだ。
「で、ザイナブ様?」
ファルザードが可愛らしく小首を傾げる。
「何ですか、この、小汚いトゥラン人。百万金貨の超高級奴隷の僕は野蛮な奴隷軍人のお相手なんかしませんよ」
前言撤回だ。可愛くも何ともない。生意気なクソガキだ。
「口が悪いですよ、ファル。百万金貨の超高級奴隷である自覚があるのならばもっとお上品にお澄まししていなさい」
ファルザードがつんと上を向く。
「嫌だなあ、僕、武力に物を言わせるような人と一緒にいるのは。ザイナブ様の身の回りのお世話をしてご奉仕したいです」
「ギョクは真面目ないい子ですよ。きっと仲良くなれます」
ギョクハンを指先で示して「紹介しますね」と言う。
「こちらはギョクハン。我が家の奴隷軍人の若手で一番の期待の星、とても勇敢な十五歳のトゥラン人です」
ギョクハンはぶっきらぼうに「どーも」と言った。ファルザードは返事をしなかった。
次の時ザイナブが想定外のことを言った。
「お友達になりましょう」
彼女は楽しそうに微笑んでいる。
「二人、仲良くね」
「げえっ」
ファルザードが言いながら柳眉を寄せた。合図したわけでもないのに、ギョクハンも、だった。二人の潰れたような声が重なった。
「ちょっと、ザイナブ様、何をおっしゃいますか! 俺だってこんな奴と一緒にいるのは嫌ですよ、俺は軟弱な奴が反吐が出るほど嫌いなんです、女みたいな顔をしやがって、へらへらなよなよして! だいたいアシュラフ人とかいう連中は自分たちが優秀な民族だと思い込んでいて他の民族に対して偉ぶるって相場で決まってるんですよ、そんなののお守りなんて無理です、むり!」
「僕も硬派を気取っている奴なんか嫌いです! トゥラン人というのはね、男同士でつるんで群れて悪ぶってそんな自分たちを強くてかっこいいと思ってるんですよ! それからなんていったって頭の中身まで筋肉なんです! きっと乱暴なことをしますよ! 無理です! むりむり!」
「あら、なんだかもう仲良しみたいですね。気が合うようです。見事に正反対のことを言って、まるで二人とも同じことを言っているかのようですね」
ザイナブは機嫌がよさそうだ。最近戦争が続いて緊迫していたところだ、ザイナブが緊張せず穏やかに笑っていられるのはいいことだ、とは思うが、だしにされているようで面白くない。
「仲良くしてちょうだいね」
嫌な予感がした。
「これから二人で協力して帝都ヒザーナまで行くのですから」