第1話 路銀を管理する猫
こうして、ギョクハンとファルザードはようやくワルダとヒザーナの間にある街シャジャラに辿り着いたのであった。
「じゃーねー! また明日の朝迎えに来るからいい子にしてるんだよー!」
隊商宿の一角、旅人用の寝床がある部屋に二人を放り込み、ジーライルが手を振る。彼はシャジャラでも指折りの大きな商館の近くに定宿があってそちらに泊まるらしい。ギョクハンはほっとした。今夜こそ静かに眠れる。
部屋はさほど広くなかったが清潔そうだった。寝台が二つ左右の壁にくっつけるように置かれていて、寝台の上の布団はきれいだ。大きくとられた窓には薄い更紗の窓掛けが掛けられており、その隙間から窓の様子が見える。幾何学模様の透かし彫りが見事で、差し入る月光の影が星型に見えた。
ギョクハンは向かって左の寝台の上に身を投げた。ファルザードは右の寝台の上に静かに腰掛けた。
ジーライルが戸を閉めた。
遠くからまだ宴会騒ぎをしている声が聞こえる。楽の音もにぎやかだ。だが疲れ切っているギョクハンはこの騒音でも眠れる気がした。耳元で喋っているわけではないのだ。
夕飯は隊商宿の中の食堂でたらふく食べた。公衆浴場で体も洗った。そこそこいい部屋のそれなりにいい布団で横になれた。
やっとひと息つけた。ワルダ城を出て初めてだ。
ただ、このままジーライルにほだされないようにしなければならない。シャジャラに、また、いい隊商宿に連れてきてくれたからといって、安直に心を許してはならないのだ。ギョクハンはまだジーライルが信用できなかった。
それでも今はとにかく寝たい。
「ギョク」
ファルザードがささやくように呼んだ。首をひねり、顔だけをファルザードの方へ向ける。
ファルザードは穏やかに微笑んでいた。月光に照らされた頬は滑らかで、大きな瞳にも光が差し入って輝いている。髪をかけた耳まで形がいい。こうしておとなしくしていれば天使のようなのに――
とまで思ってから、ギョクハンは夕方のことを思い出した。盗賊がファルザードを売ればいい値になると言っていた。男の手がファルザードの胸を撫で、男の舌がファルザードの目元を舐めた。
「二百八十四金貨と八銀貨」
上半身を起こして「何の額だ?」と訊いた。
「路銀の今の残高。入浴代と夕飯のおかわり代を引いた額」
ほっとして布団に伏せた。
「お前、ザイナブ様がくださった金貨、ちゃんと管理してたのか」
「そりゃあねえ。それくらいしなかったら僕いよいよ存在意義がないので」
ファルザードが自分の腰に手をやった。見ると帯に小袋がくくりつけられていた。ずっと肌身離さず持っていたらしい。
「宿で寝る時くらいははずせよ。重いだろ」
言うと、「うん」と言って紐をほどき始めた。そのうち、自分の枕元、枕と壁の間に置いた。
金勘定もギョクハンの苦手分野だ。長期間旅行するとなればうまく計算してやっていかなければならない。その計算を誰かが代行してくれるというのはありがたいことだった。
「お金のことはちゃんとしておきたいでしょ。これからも使ったつど残高の額を共有できるようにするから」
「そうだな。お前、そこはしっかりしてるんだな。助かる」
そこで、ファルザードが急に笑い始めた。
「……なんだよ」
「初めてギョクにふつーに褒められた」
嬉しいのだろうか。
枕を抱く腕に力を込める。
顔が綺麗だろうが、口が生意気だろうが、ファルザードはギョクハンより年下の少年なのだ。
「ごめんな」
「えっ?」
「盗賊なんかに、お前を引き取ってくれたら助かる、とか言って。俺、あの時、ちょっと冷たかったな」
ファルザードは「ううん」と言った。
「いい加減ギョクも疲れてるでしょ。ずっと戦いっぱなしでさ、普段言わないようなことでも言っちゃう気分だったんだよね。僕、武術が何にもできないから、そういう時にはぜんぜん役に立たないし。ていうか人質に取られたりして本当に足引っ張ってるし」
否定も肯定もしなかった。彼の言うとおりで、ギョクハンは本当に疲れ切っているが、だからといって頷いてしまったらファルザードを傷つけると思った。
「――それにさ」
彼は「売っていいんだよ」と言った。
「もし、本当に、邪魔だったら。僕を売って、お金に換えなよ」
ギョクハンはふたたび跳ね起きた。
ファルザードは斜め下を見ていた。長い睫毛がその頬に影を落としていた。だが口元は穏やかに微笑んでいる。落ち着いて見えた。
「ザイナブ様はそのつもりで僕をギョクと一緒に出したのかもしれない。僕を守れとおっしゃったのは、僕に傷がついたら値が下がるからかもしれない」
そして「僕はハサン様の資産だから」と呟く。
「歩く百万金貨だから」
思わず「そんなこと言うな」と怒鳴ってしまった。けれど彼は黙らなかった。
「あのさ、もし、三百金貨使い切っちゃってお金がなくなったらだけど」
真剣な目で「僕が稼いでくるから」と言う。
「僕がからだを売ればひと晩で五百金貨くらいにはなるから。だから、お金の心配はしなくて大丈夫だよ」
立ち上がった。ファルザードの胸倉をつかんだ。
「お前、俺がお前にそういうことさせると思ってんのかよ」
彼は困惑した表情で「思ってないよ」と答える。
「僕が自主的にやるんだから気にしなくていいよ」
「お前は嫌じゃないのか」
「慣れたよ」
肌は白く、髪は黒く、唇は紅い。
「僕はね、ギョク。ずっと、そうやって生きてきたよ」
華奢で柔らかい手が、ギョクハンの大きく硬い手をつかむ。
「なんなら。今、これから、してもいいよ。ギョクにご奉仕する。すっきりするかも――」
突き放した。ファルザードの後頭部が壁に叩きつけられ、重い音を立てた。ファルザードが「いった」と顔をしかめた。
「気分悪い。寝る」
「ごめん。僕余計なこと言ったね。僕も寝るよ」
「俺はお前を売らないからな」
寝台に戻り、ファルザードの方に背を向け、横たわる。
「お前はザイナブ様からお預かりしたんだ。ザイナブ様にお返しするまで、絶対、手放さないからな」
小さな「うん」という声が聞こえてきた。
「ありがとう。……おやすみ」
それきり、ファルザードは何も言わなかった。
ギョクハンはしばらく悶々とあれこれ考えてしまったが、そのうち、いつの間にか深い眠りに落ちていた。柔らかい布団に沈んで、朝まで熟睡した。




