第1話 よく喋る男ジーライル
夜明けとともに出発した。涼しい朝のうちに移動して次の緑地に向かうつもりだった。
行けども行けども砂の海が続くばかりだ。
そのうち自分たちがどこにいるかも分からなくなってきた。ワルダを出てからは太陽を目当てに南下していればよかったが、途中わけの分からないところで東に行ってしまった分距離感を失ったのだ。まして目の前に広がるのは果てなき砂漠である。ギョクハンはだんだん自分が本当に無事次の街へ向かえているのか不安になってきた。
食料も底が見えてきた。ファルザードが河で自分の分を落としたのでギョクハンの分を分けなければならなくなったからだ。あと二日はもつはずだったのに今日で終わりそうだった。
いっそファルザードをここに置き去りにできたら、という思いが何度も何度も湧き上がった。本気で見捨ててしまえれば楽になれる気がした。
だが、ファルザードを見失うたびにザイナブの顔がちらつく。
ギョクハンはファルザードが遅れるたびに何度も立ち止まった。
ファルザードはあれ以来ギョクハンに話し掛けてこない。おとなしく黙々とギョクハンの後ろをついてきている。少しうつむき、時々白馬に声を掛ける。さすがにこたえたらしい。その様子を見ていると罪悪感が頭をもたげてくる。
ここで放置して飢えと渇きに苛まれたら可哀想だ。いっそ首を掻き切ってやればいいのではないか――慌てて首を横に振ってそんな考えを振り払った。
自分も疲れているのかもしれない。こんな砂漠の真ん中で食料もなくどこにいてどこに向かっているのかも分からないのでは不安なのかもしれない。強い男であらねば、と気を引き締めた。
顔を上げた。
その時だった。
前方遠くに白い点が動いているのが見えた。それも複数だ。何かが列をなして砂漠を歩いている。ギョクハンは黒馬に少し速足をさせて白い点に近づいた。
「人だ」
らくだに乗った人間が数名隊列を組んで歩いている。
「ファル!」
後ろを振り向いてファルザードの名前を呼んだ。ファルザードが顔を上げた。
「人がいる! 食べ物を分けてもらえるかもしれない!」
そう言い終わるや否やのところでギョクハンは駆け出した。ファルザードが「待って!」と言ったが聞かない。
「すみませーん!」
白い点に見えた人々は、砂漠のカリーム系遊牧民の衣装である白くて丈の長い服を着た男たちであった。頭にも白い布をかぶった上で黒い輪をのせている。砂漠のカリーム人特有の頭巾である。
人間は全部で十一名、らくだは全部で十九頭だ。
彼らはすぐに立ち止まって振り向いてくれた。
「隊商ですか」
「そうだよ。これから西の街シャジャラに行くんだ」
シャジャラはギョクハンの目的地でもあった。
「君たちは? 馬で旅行かい?」
「そうです、シャジャラを経由してヒザーナに行こうと思ってて」
男たちが顔を見合わせた。
「君たち二人だけで?」
「はい」
「それは、大変だ」
そして、微笑んだ。
「よかったら一緒に行かないか? 若者二人だけでは不安だろう」
「俺たちはもう何年もシャジャラと河沿いの港町を行き来していてこの辺に慣れている。案内してあげるよ」
急に目の前が明るくなった気がした。
「いいんですか!?」
「ああ。砂漠では助け合わないとね」
先頭にいた男がこちらを向いて近づいてきた。顔の下半分をひげで覆ったその男は、体格がよく、表情も笑顔で、ギョクハンの目には頼もしく映った。
「君、名前は?」
「ギョクハンです」
「僕はファルザード」
「どこから来たんだい?」
「ワルダです」
「へえ、ワルダか」
ファルザードがギョクハンに「ちょっと」と声を掛ける。ギョクハンは首だけを回してファルザードの方を向いた。
「何だ?」
ファルザードは険しい表情をしていた。何か気に入らないことがあるらしい。だが何も言わない。言いにくいことだろうか。
ギョクハンは無視することにした。ファルザードのわがままは聞き飽きた。だいたい彼のせいでこんなに苦労をしているのだ、ギョクハンがしようとしていることに口を挟まないでもらいたかった。
「ワルダは今ナハルと揉めていて大変だろう。よく出てこられたね」
「はい、なかなか、いろいろありましたけど。ご主人様にヒザーナへ行って状況を連絡するようにと言われまして」
「えらいな。それもたった二人でか。よくやるなあ」
男はらくだの向きをもといた方へ戻してから、「ついでおいで」と言ってくれた。
「うちは一人や二人増えたところで特にこれといったことはないから安心しなさい。水も食べ物もある。シャジャラもあと一日二日でつくところだ。大丈夫だよ」
ギョクハンは素直に「はい」と答えた。
らくだたちがギョクハンとファルザードの周りを取り囲む。そしてゆっくり歩き出す。
「やあ、少年たち」
斜め後ろから声を掛けられた。振り向くと、そこに一人だけ遊牧民の白い衣装ではない青年がいた。
白い立て襟の襯衣、派手な濃緋色の刺繍の入った胴着を着た上で、臙脂色を基調としたやはり派手な帯を巻いている。下は青と黄の縦じまの筒袴だ。頭には、都市のカリーム人の巻布とも砂漠のカリーム人の頭巾とも違う臙脂色で幅広の帯状の布を巻いていて、癖の強い黒髪が見えていた。ギョクハンにとっては馴染みのない恰好だが、おそらく北方の山岳民族の衣装だ。
年の頃は二十歳すぎくらいだろうか。人懐こい笑顔を浮かべている。ひげを生やしていないので涼しそうにも見えるが、見慣れない恰好のせいかギョクハンはどことなく怪しげだと感じてしまった。
「おつかいえらいね! 君たちはよく頑張っているよ! あのワルダから脱出してきてここまで二人だけでなんて、よく来たねっ、よく頑張っているねっ!」
「はあ、どうも」
「えーっと、ギョクハンくんとファルザードちゃんだったかなっ?」
ファルザードが面白くなさそうな顔で「ファルザードくんです」と言った。どうやらこれでも男としての自覚のようなものはあるらしい。青年が明るく笑って「おっと!? ごめんごめーん!」と言う。
「僕はジーライル。よろしくねぇ!」
「ジーライル……」
何語だろう。聞き慣れない響きだ。やはり北方の山岳民族に違いない。
青年――ジーライルは一人で話し続けている。
「いやあ、僕はナハルから来たんだけどさ、ナハルは今ひどいんだよ! 兵隊さんのせいで物価が上がっちゃって何にも買えない! もともとはナハル近郊の遊牧民から羊毛を仕入れてアシュラフ高原方面に売ってアシュラフ絨毯になったものをまたカリーム砂漠方面に売る仕事をしていたんだけどさ、綿畑の奴隷まで軍隊に駆り出されたとかでぜんぜん種蒔きどころじゃないんだ。治安がヤバすぎ! こりゃあ商売あがったりだね! まあナハルを離れてやり取りすればいいんだけどさ! 僕ほど器用な人間ならその程度の転職大したことじゃないんだけど何となく顧客に悪いじゃないか! ワルダも荒れてるんじゃイディグナ河流域はもうだめかもね! 南方の海の真珠を仕入れるか東方の山の宝石を仕入れるか……、いやー、いずれにしてもちょっと貯金しなきゃだねー、そう思うとめんどくさいねー!」
とんでもなくよく喋る男だ。
ギョクハンは無視することに決めた。ファルザードは「はあ、そう、はあ……」と適当に相槌を打っているが、彼もたぶんジーライルを面倒臭く思っている。ジーライルは嫌がられていることに気づいていないのか気づいていても気にしないのか、一人でどんどん喋り続けている。ほとんど彼がどこでどんな商売をしてきたかの話だ。
「とにかくナハルはもうだめ! 撤退!」
どうでもよかった。




