eight
「これはあってるでしょ!」
自信満々に答えを書いたノートを見せながら発した優の言葉を「違う」とクリスが一蹴する。
「うそ!」
「嘘じゃない。単語の順番が違う。なんだっけ、カンリ……カンリョ?……」
クリスがそう言って首を捻る。
「完了形?」と志織が助け船をだす。
「ああ、それだ。完了形の……えー……。……ああ、完了形の受動態はhave+been+過去分詞だ」
「え、ええええ……」
様々な文法を一気に脳内に叩き込まれ、頭がこんがらがってきた優は情けない声を出す。
先ほどからwarming upの答え合わせをしているのだが、面白いほど優の答えにマルがつかない。まるで解説書が優に対して意地悪でもしているかのようだ。
頭がパンク寸前になり、ノートを机の上に放り出す。
「難しいよ、クリス!」
そう駄々をこねるように言えば、クリスが面倒くさそうに顔をしかめる。
「俺に怒るな。覚えろ。そういうもんなんだ」
身も蓋もなく言われ、「うー……」と優がうめきながら赤ペンで答えを書き込む。
(やっぱり、合格するの無理かも……)
英検の勉強を本格的に始めてまだ一日もたっていないというのに、既にやる気をなくしかける優。クリスをギャフンと言わせようと意気込んでいた昨日の彼女はどこへやら、今はすっかり勢いをなくしてしょんぼりと赤ペンで答えを書いている。
「Excuse me, Chris.(クリス、ちょっといい?)May I ask you a question?(質問してもいいかな?)」
「ああ。なんだ?」
志織が英語で尋ね、クリスが日本語で返す。(普通逆なんじゃないかなあ)と優は心の中で呟く。
「ここなんだけど……」
志織が対策本に書かれた問題文を指さす。クリスが志織の方に回り込んで本を覗きこむ。
「あー、それは……」
それからクリスによる解説が始まった。何について話しているか優には全く分からないが、志織はクリスの言葉にふんふんと頷いてはノートに何かを書き込んでいる。
優は答えを全部赤ペンで書き終えるとシャープペンシルを放り出した。それと共に対策本とノートをぱたんと閉じる。
「よっし、ウォーミングアップ終わった!」
両手を上にあげ、うーんと伸びをする。そのついでに時計を見れば、勉強を始めてから既に四十五分が過ぎていた。
「クリス!交代!」
優の大きな声に「ちょっと待ってろ」とクリスが対策本から目を離さずに答えた。
「ごめんね、優。ちょっと待っててね」
申し訳なさそうな顔をする志織に「別にいいよー」と手をひらひらと振って見せる。
志織への説明が終わるまで、優はクリスの持っていた漢字の本を見て時間を潰すことにした。なんとなくぱらぱらとページをめくってみて、優は思わず目を見張った。
(すごい!本の説明文もクリスの書き込みも全部日本語だ……)
改めて考えてみるとクリスはすごいと思う。外国語を一日中絶えず聞いて見て読んで話しているのだ。優だったら英語を一日中使うなんて、考えただけでも卒倒しそうだ。
しかもなんだか砕けた日本語を使うし、日本語で意地悪も言えるし。
(一体どういう勉強の仕方をしたんだろ?)
そんなことを考えながらじっと本を見ていると、上から手がのびてきてひょいととられてしまった。
顔を上げればクリスが不安の残る顔で優を見下ろしているのが見えた。
「……ちゃんと教えてくれよ?」
「もっちろん!任せて!」
何の根拠もないが、優がそう言って胸を張る。
「志織、頼むぞ」
クリスが志織の方に顔を向けて言った。
「ちょっと!なんでしーちゃんだけ!?」
優がつっこみ、志織がそれを見て苦笑する。クリスはそれに対して何も返さずに、近くの机からガタガタと椅子を引っ張ってくると、優の机の上に本を置いた。
「なんでもいいけど、早く教えろよ」
そう言って椅子に腰掛け足を組む。
全くもって教える気が起こらない。こんなに態度が大きい生徒にも勉強を教えないといけないなんて、教師は大変だ。
優はそんなことを思いながらも、志織と共にクリスに漢字を教え始めた。
「クリスくん、すごく飲み込みが早いのね」
志織が驚きと感心が入り交じった声で言う。
「そうか?」
クリスに尋ねられ、「うん」と志織が大きく頷く。あまり認めたくないが確かにそうだと優も心の中で渋々頷く。
クリスは学んだことをどんどん吸収していった。それは漢字の読みと書きの両方に言えることだ。大抵一回見ただけで漢字を覚えてしまうし、一回目で数問間違えたとしても、二回目で全問正解してしまう。
また驚いたことに、クリスは漢字の部首と書き順まで覚えようとしていた。
「なんでそんなのいちいち覚えるの?」
優が尋ねると漢字を書いていたクリスが顔をあげた。
「せっかく覚えるんだから、細部までしっかり覚えたいだろ?」
クリスの言葉にふうん、と優は気のない返事をする。
(そんなことをするとすごく大変なのに、わざわざ自分を大変な方に追い込むなんて、クリスは変わってるなあ)
(私なんて漢字の読み書きくらいしか覚えてないのに)と思いながら、優は志織の隣に座ってクリスが問題を解くのを眺めていた。
下校時間を示す音楽がスピーカーから流れ出した。外はすっかり茜色に染まり、部活をしていた生徒達がぱらぱらと運動場から去って行く。
「よし、じゃあ今日はもう終わりにしようか」
志織が言うとクリスと優が同時に頷いた。
(なんだか久々に集中して勉強をした気がするなー)
優は机を元の位置に戻しながら、心地の良い達成感に浸っていた。
不意に白い物が視界の隅に入る。振り向けば、クリスが白い紙を優に向かってつきだしていた。
「なに?」
怪訝な顔をしてクリスを見れば、彼は至って真剣な顔をしている。
「ここに、あんたの名前をfull nameで書いてくれ」
見れば志織も紙をもらって書いている。優は首を傾げながらも、シャープペンシルを取り出して大きく自分の名前を書いた。
「これでいい?」
こくりとクリスが頷いて二人から紙を受け取った。それをまじまじと見つめる。
「?」
不思議に思って優と志織がクリスの行動を眺める。しばらくたってから自分に向けられる二人の視線に気づいたクリスが顔をあげた。
「それ、何に使うの?」
紙を指さして優が尋ねる。
「漢字の読みの勉強に使おうと思うんだ。他のclassmateにも明日書いてもらおうと思って」
クリスはそこまで言って、また手元の紙に目を落とす。それを見ながら口を開いた。
「よしかわ、しおり」
一瞬何を言い出したのか分からずポカンとした優と志織だったが、紙に書かれたことを読み上げたのだとようやく気づき、名前を呼ばれた志織が「うん」と頷く。
「やまもと、ゆう」
優も頷く。クリスはしばらく紙を眺めては何回も優と志織の名前を呼び上げた。
初めはなんとも思わなかった優と志織だが、段々恥ずかしくなってきて、音読するクリスの声を遮って話しかけた。
「ねえ、クリス。もう帰らない?そんなに何回も名前呼ばれるの、なんだか恥ずかしいし……」
優の言葉を聞いて、クリスは顔をあげる。それからゆっくりと瞬きをすると、
「ああ、そうだな」と頷いた。
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