six
「優、すごいじゃない!やっとやる気になったのね!」
チャールズとクリスが帰った後、愛に嬉しそうにそう言われて、優はキョトンとする。
「? なんのこと?」
「なんのことって、英検のこと!受けるってことは、英語を勉強する気になったってことでしょ?」
優は一瞬愛が何を言っているのか分からずポカンとした後、はっとしてソファから立ち上がった。
「そうだった!私、英検を受けることにしたんだった!」
今思い出したかのような優に「忘れてたの?」と愛が驚く。
怒りに任せて言ったものだから、優はよくその時のことを覚えていなかった。覚えているのは『クリスは嫌な奴』ということだけだ。
(紳士じゃない英国人もいるのね!)
優は愛との会話を早めに切り上げると二階にある自室に向かった。
椅子に勢いよく腰かけて、腕を組む。
(さて、ああは言ったものの……)
優は首をひねる。
(英語ってどうやったら上手くなるんだ?英文を読めばいいのかな?でもそのためには英単語が必要だよな。いや、文法も必要か……。うーん、どっちからやればいいんだろ?……あーもう、とりあえず英単語覚えよ!)
考えているうちによく分からなくなってしまったので、優はとりあえず単語を覚えることにした。
勉強机の棚から今まで手をつけていなかった単語帳を取り出す。次にシャーペンやマーカーペンを取り出そうと引き出しをあけた。
そこで目に入ったのは、青色の折り鶴。
昔はよくポケットに入れて持ち歩いていたので、青色が少しはげて、紙もあちこちぼろぼろになってしまっている。
優はそれを見て自分の頬が緩むのを感じた。心の中にわだかまっていた怒りや悩みがすーっと消えていく。
『この折り鶴を、また会ったときに見せ合おう』
それが、"折り鶴の約束"。優がまだ小学校低学年だった頃に、京都で会った外国人の男の子と交わした約束だ。
彼の名前さえ知らない。どこの国の子かも全く分からない。
それだというのに大変無茶な約束をしたものだ、と優は子供の頃の自分に苦笑する。
しかし、子供の頃は本気でまた会えるものだと思っていた。それにこんな広い世界で、一度二人が会うことが出来たのだから、この折り鶴を持っていれば必ず神様がまた二人を結びつけてくれるだろうと思ったのだ。だから高校生になった今も、優は心のどこかで彼とまた会えることを信じているのだった。
優は相手の男の子のことを考える。
(昔のことだからあんまり顔は覚えてないけど、どんな風に成長したのかな)
色々と想像を膨らませた優の頭にある考えが浮かぶ。
(……待てよ、もしあの男の子があいつみたいな嫌な奴になってたら……)
ふと頭に浮かんだ考えを打ち消すように優は首を振る。
「いやいや、そんなことないわ!……多分」
今はそんなことを考えていたって仕方ない、と優は自分に言い聞かせる。今すべきことは英検のための勉強をすることだけだ。
「よし!勉強、勉強!今に見てなさいよ、クリス!」
憎きクリスの顔を思い出して優はやる気を振り起こした。
単語帳を開くとぱっとloveの字が目に入ってくる。
「loveか……」
そう呟く優の頭にまたクリスの顔が浮かぶ。今度は愛に頭を撫でられて顔を真っ赤にしたクリスの顔だ。
「あいつ、お姉ちゃんに惚れてるな?」
そう呟いて優はニヤニヤ笑う。
「明日聞いてみてやろうっと」と優は上機嫌で単語帳に目を落とす。もしかしたらクリスの弱味を握れるかもしれない、と期待して。
「あんた、お姉ちゃんのことが好きなんでしょ」
翌朝。学校でクリスを見つけた優は素早く近づいていくと、にやにやしながらクリスにそう言った。
「……」
クリスが読んでいた本から目を離し、優を見上げる。
「違えよ」
「嘘だー!」と優は叫ぶ。
「私の目はごまかされないよ!だって、昨日お姉ちゃんに頭を撫でられてたとき、顔真っ赤だったもん!」
少しだけクリスの瞳が揺れたのを優は見逃さなかった。仕返しと言わんばかりにここぞとばかりに攻め立てる。
「でも、お姉ちゃんはチャールズ先生のことが好きなんだよ。知ってた?」
そう意地悪そうに言うと、クリスの視線が優とかちあった。
「……」
黙ってクリスは優の顔を見つめる。自分に向けられるまっすぐな空色の瞳に、優は内心どきりとした。
「……知ってるよ。そんなことくらい」
ぽつりとクリスが言った言葉を優は「え?」と聞き返す。
「知ってんだよ、昔から。兄貴と愛が両思いなことなんて」
ふてくされる訳でもなく、悲しそうなわけでもなく、クリスは真面目な顔をして優を見て言った。
「だから、もういいんだ」
クリスはそう言って再び目を手元の本に落とした。
優は何も言うことができなかった。してやったりといった満足感もなかったし、「残念でした」とからかう気持ちも既に失せていた。
何を言おうか、いや、何か言わなければならない、と思った優は必死に言葉を探していた。しかし、謝るのはなんだかしゃくだったから、話を別の方向へ持っていこうとした。
優の泳いでいた視線がクリスの持っていた本にとまる。
それには『外国人必携!日本でよく見かける漢字集』と書いてあった。
その本には、漢字ドリルのように沢山漢字が並んでおり、あちこちに赤く書き込みがしてあった。
「漢字の勉強してるの?」
優が尋ねると、「今度はなんだ」と言いたいようにクリスが鬱陶しそうに顔をあげる。優が本を指差すと、
「ああ、そうだよ」と本に視線を戻しながら答えた。
「漢字は難しい」とクリスが顔をしかめて呟く。
「そうだよねー。日本人でも難しいもんねえ」
うんうん、と優は頷く。小学生のとき、なかなか漢字が覚えられなくて、テスト直しで何回も漢字を書かされた覚えがある。
クリスはじっと優を眺めたあと、
「さすがのあんたでも漢字は分かるのか?」と尋ねた。
「当たり前でしょ、私は日本人なんだから!」
(小学生の時は出来なかったけど……)と心の中で付け加えつつも、優はそう言って胸を張る。
それを聞いて「ふうん」とクリスが呟いた。
ふと、優の頭に"いい考え"が浮かぶ。
(そうだ、いいこと思いついた!)
優はにんまりと笑うとクリスを見た。
「……なんだよ、その顔」
優の笑顔になんだか嫌なものを感じ取ったのだろう。クリスが椅子に座ったまま少し後ずさる。
「あんたの漢字の勉強、手伝ってあげてもいいわよ」
その言葉に何を言い出したのか、とクリスが目を見張る。
「そのかわり、私の英検の勉強を手伝ってちょうだい!」
そう言って、優は両手をクリスの机につき、身を乗り出す。
「どう?」
両手を勢いよく机についたため、大きな音が教室中に響く。周りにいたクラスメイトが何が始まったんだろう、と不思議そうに優とクリスを見た。
クリスは優の瞳を見つめると、はあ、とため息をついた。
「いいよ。その交換条件認めてやるよ」
それを聞いて「よっし!」と優がガッツポーズをする。その周りでは状況が読めないクラスメイト達が不思議そうな顔で二人のことを眺めていた。
(C)2019-シュレディンガーのうさぎ