four
「ただいまー」
玄関を開けて優はそう言ってみたものの、いつも通り返事はない。
と思ったのだが。
「おかえり、優」
そう言ってリビングから現れたのは、姉の愛だった。
「お姉ちゃん!帰ってたの?」
優は鞄を肩から下ろしながら愛に尋ねる。
「うん。今日は私が受け持ってる生徒さんが欠席して授業がなくなっちゃったし、家にお客さんも来るしで早めに帰って来たの」
愛が優の鞄を受け取りながら笑う。
優の姉、愛は英語塾の講師をやっている。
愛の英語はネイティブ並みに上手で、優は愛の流暢な英語を聞くのが大好きだった。
(それに比べて私は……)と優はため息をつく。
「お姉ちゃんはいいよなあ」
優はそう言いながらソファに勢いよく座りこんだ。
「いいって、何が?」
愛が不思議そうに首をかしげる。
「英語が得意で。私、お姉ちゃんの妹なのに全然出来ないもん」
そう言って優は唇を尖らせる。
(姉妹なのにこんなにも得意不得意が分かれるなんて、神様は意地悪だ!)と優は心の中で文句を言う。
愛は優の言葉を聞いて困ったように首を傾けた。
「あのね、優。私だって最初から英語が得意だったわけじゃないのよ?」
「え?」と目を丸くして優は愛の顔を見る。
愛は優の視線を受けて恥ずかしそうに笑うと話し始めた。
「私ね、高校生のとき、英語は赤点をとるギリギリだったの。だから、これじゃまずいと思って英語塾に通い始めたの」
そこまで聞いて(そういえばそうだったような)と優は思い出す。
愛が高校生のとき、優はまだ小学生だったためあまりはっきりとは覚えていないが、愛は毎晩遅くまで英語塾に行って、帰ってきてからも暇さえあれば英単語を覚えて、英文を読んでいたような覚えがある。
「そっか。そういえばそうだったね。英語の勉強のためにチャールズ先生の実家にホームステイとかしてたもんね」
優の言葉に愛が微笑んで頷く。
チャールズというのは、愛が通っていた英語塾の先生だ。イギリス出身の、まさに紳士といえる男性だった。優も一度会ったことがあるが、その柔らかい物腰とやさしい声音、豊富な知識、巧みな話術にすぐに惹き付けられ、一時期彼に対して淡い恋心を抱いていたことがある。
昔はよく会って話をしたものだが、愛が英語塾に通わなくなったのもあり、優がチャールズと会う機会は段々なくなっていった。彼とメールアドレスを交換している愛によれば、どうやら彼は今本国にいるらしい。
優がソファの背もたれにもたれ掛かる。そして、冷やかすように愛を見た。
「そりゃあ、あんなに格好よくて素敵なイギリス人の彼氏がいたら、英語を勉強する気になるよねえ」
優の言葉を聞いて、「ちょっと、優」と愛が叱るように言う。
「私とチャールズ先生はそんな関係じゃないわ、ただの講師と生徒の関係よ」
そう言う愛の顔は真っ赤になってしまっている。全くもって説得力がない。
「はいはい」と優は適当に返事をする。そして、ふとさっきの愛の言葉に疑問を覚えて尋ねた。
「そういえば、今日お客さんが来るんだよね?誰?」
「あ、そうだ。えっとね……」と愛が話し出そうとした途端にインターホンがなった。
「はーい」と愛が返事をする。それと同時にお茶が沸騰したようで、台所でやかんが悲鳴をあげた。
「あ!しまった、やかんを火にかけてたんだった!お願い、優。私の代わりにお客さんを出迎えてくれない?」
「分かった」と優が頷いて玄関のほうに向かう。
「はーい」
そう言って扉を開けた優の瞳に絹のような白髪が映った。はっとして優が目を見開く。
「Hello, Yu.(やあ、優)How are you?(ごきげんいかが?)」
そう言ってにっこりと微笑んだのは……
「チ、チャールズ先生!?」
優はびっくりして思わず叫んでしまった。
チャールズはニコニコ笑ったまま優の返事を待っている。
(あ、そうだ!答えなきゃ……)
「あ、えーっと。あいむ、ふぁいん、せんきゅー。あんでゅ?」
どぎまぎしながら片言の英語で答えると、チャールズが「I'm good thank you.(元気だよ、どうもありがとう)」と返した。
「久しぶりに日本に帰ってきたからね、君と愛に挨拶をしておこうと思って。愛はいる?」
「はい」と優は返事をする。そしてはっとしたように、
「あ、上がっていってください。お姉ちゃんがお茶を用意してると思うので」と門に近づき鍵を開けた。
「ありがとう」とチャールズが答えた。そして足を一歩踏み出して「そうだ」と思い出したように言った。
「今日は君に会わせたい人がいてね」
「まあ、恐らくもう会っていると思うけど」とチャールズが小さな声で付け足す。優が首を捻ると同時に、「Come on!(おいで)」とチャールズが誰かに声をかけた。
背の高いチャールズの後ろから現れたのは艶のある黒髪。そして、空を閉じ込めたような水色の瞳。
「げっ」
そう言ったのははたして優か、それとも黒髪の彼か。
「優。紹介するね。私の弟、クリスだよ」
チャールズの言葉に優がひきつった顔で頷き、クリスは苦い顔をしてそっぽを向いた。
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