プロローグ2
現場からは少し離れた場所。襲われた店の裏通りを数十メートル程進んだその場所は既に非常線からは外れた場所であり、注目の的が集中している今この通りには彼と、彼の嗚咽が響くのみであった。
粘性の強い涎とそれに混じった胃液。喉には痛みが走り、まるで血を吐いているかのような感覚に陥った。鼻からも口からも液体が垂れては地面に落ちていく。その光景を滲んだ視界と響く頭痛の中で彼の意識だけはハッキリしていた。
「はぁ......はぁ........」
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彼の”気まぐれ”は2日前まで遡る。
その晩、ピーターは夕飯に近所のファースト点で買って来たモノをテレビを見ながら適当に頬張っていた。ここまではいつも通り。しかし、たまたまテレビでは昔見たスパイ映画を放送していた。次の日出勤の場合彼はこの後すぐにシャワーを浴びて眠る筈だったのだが、これが意外にも彼を椅子から立ち上がる事が出来なかったのだ。小さい頃から何度も見ていた筈であり、展開や結末を知っていたのにも関わらず、彼は熱中し視聴を続けた。気が付けば23時を回っていた。
「.......そろそろ寝ないと」
シャワーを浴びて寝支度を整える。いつもならとっくに寝ている時間だった。そこで彼は幾つかの映画を思い出した。それは子供の頃に見たモノがほとんどだったが、何故だが猛烈にそれらの記憶が蘇った。思い立ったら即行動というその場限りの信条を掲げた彼は、ネットショッピングサイトを開いては幾つかの作品を注文していく。それが4つ目だったか、5つ目だったか、彼に襲った猛烈な眠気のせいでデスクに突っ伏すとそのまま眠ってしまった。
「........ん........ん?.........やべッ」
日差しで目が覚めた時には、既に遅刻していた。彼は急いで支度をして車を走らせる。上司の小言と言い訳の内容を思い浮かべながら、信号に苛立ちを感じた。
「........すんません」
今まで幾つかのミスは犯しているし、真面目な仕事振りでも無い。そんな彼が遅刻をしたものだから大層怒られるものだと覚悟していたのだが、意外にも叱責は少なかった。代わりに彼に送られた言葉はそれらよりも遥かに堪えるものだったのだが。
「..........はぁ......ん?」
意気消沈と、僅かに燻る心の火を抑えつけながらも苦手な書類仕事を片付けていると、同僚からある一つの誘いが掛かる。
「今晩空いてるか?」
どうやら数人で集まって飲みに行くらしい。普段の彼なら誘いにはほとんど乗らずに真っすぐ家に帰るのだが、今日は違った。昨夜見た映画の1シーンがふと頭に浮かんだのだ。それは、主人公のスパイがバーで危険な香りのする美女と酒を酌み交わすシーンである。この時強くフォーカスしたのは主人公が飲んでいたウィスキーだった。想像すると漂う甘い香り、店の暗めな照明に当てられたグラスは鮮やかに光り輝き、つまみで出て来るチーズやナッツは適度に喉を渇かせ、その渇きをまたウィスキーで癒す。そんな情景を思い浮かべたのだ。何よりも上司との関係や、色々な事もあり、彼は少し溜まっていたのだ。
「............」
よくよく考えてみれば、そんなお高いバーに仕事終わりに行くはずも無く、気が付けば男数人でのバカ騒ぎをビールを飲みながら見守るだけ、ムードも無ければジャズミュージックも無い。そんな一人で背を向けてビールを流し込んでいた時、肩を叩かれ声を掛けられた。
「せっかく来たのに、それじゃつまんねえだろ」
覚えているのはここまでだ。端的に言えば楽しんでしまったらしい。久しぶりの酒とバカ騒ぎに当てられ、気が付けば自宅のトイレで便器に顔を突っ込んでいた。
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もう飲み会なんていかない。
「.......き、気持ち悪ッ........」
幾つかの気まぐれと偶然が重なった結果。彼はこの場所で胃液をまき散らしていた。出て来るものと言えば脱水症状対策で飲んだスポーツドリンクのみで、胃の中はもう空っぽだと思える。それでもまだ頭痛と吐き気は収まってくれないようだ。
遠くで聞こえるサイレンの音が、余計に頭に響いた。汚れる事も気にせずに地面へと座り込むと、煙草に火を点ける。具合は最悪だったが、吸いたいと思ってしまったらもう手遅れ、自分は思ったよりもヘビースモーカーのようだ。
吐いた煙を見上げていると、近くで足跡が聞こえた。同僚に見つかれば何を言われるか分からないので、指示を出してはわざわざ現場から離れたというのに。一般人か?
「........」
横目で見ると、その様子に思わず眉を顰めた。
身長180cm程の男性。黒を基調をしたラフな格好。額には大量の汗に呼吸は荒く、それに何よりもその強く見開かれた瞳は、ピーターを睨み付けるように見ていたのだ。ともかく通常の状態でない人間。
ピーターは重い体を引っ張り上げて立ち上がると、懐からバッジを取り出す。
「警察だ。どうかしたか? 何か困ってんなら力になるぞ」
まさかこんな場所で吐瀉物をまき散らしているのが警察だと思わなかったのか、男は消沈した様子でピーターが提示したバッジを仕舞うまで目で追っていた。それから絞り出したような声で、小さく彼は一言呟いた。
「......ツイてねえ.....」
「ツイてない、とはね。どうやら込み入った事情があり、そう......って」
言葉を続けられなかったのは、具合が悪かったからでは無い。男が腰から取り出したものを見たからだ。
「マジでツイてねえ........」
男の腰から取り出された銃。それを見た途端ピーターはすぐに、この男が強盗団の一味だという事に気が付いた。すぐに動けなかったのは震えた銃口から今にも弾が放たれそうだったからだ。絶妙に離れた距離と、重い体も動けない理由の一つだった。
両手を上げて抵抗の意思が無い事を示し、説得を試みる。何故男が未だここに居るのか、警察が到着してからも時間は経っているというのに。と様々疑問はあるが命が懸っている今のピーターにとっては些細な問題だった。重要なのはこの場をどう切り抜けるか。
「とりあえず落ち着け。な?」
「畜生っ.....なんで、こんな事に.......」
涙を流して銃を握り直す男の耳には、最早彼の言葉は届いていないようにも思えた。
なるべく刺激しないよう、優しい口調で語り掛ける。
「この場で起こった事は誰にも言わない。大人しく捕まった事にすれば........」
説得を続けながらも少しずつ、足を前へ動かし距離を詰めていく。慎重に、指先一つ分間隔で。
「黙れッ!! お前は何も分かってねえだろ!!! どっちにしろ殺される!!」
殺される?
詳しい事は分からない。だが、どうやらただの強盗事件という訳では無いらしい。目の前のこの男は逮捕される事よりも他に何かを恐れている。
「何の事かは分からないが、とりあえず話してみろよ。何か力になれるかもしれないだろ?」
もう少し、近寄れれば。
男は激しく動揺している。震える銃がその証拠だ。恐らく銃の扱いにもそれほど慣れていない。余裕さえ与えなければ咄嗟に引き金を引く事は出来ないだろうとピーターは当たりを付けた。
「っ.........いや、......でも」
男が一瞬俯いた。そして、その瞬間をピーターは見逃さなかった。
「っ......え」
同時に首筋に小さな痛みが走る。確かに力を入れた筈の両足から、力が抜けていくと崩れていった。遠かった地面が眼前に迫ると、ようやく自分は倒れているのだと理解する。徐々に暗くなっていく意識の中でピーターは顔を覗き込んでくる男の姿を最後に、目を閉じた。
その様子を、ビルの上から見守る少女が一人。彼女は男がピーターの体を引きずって、迎えに来た車に乗せたのを確認すると小さく笑い、呟いた。
「.......ごめんね」
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街の中心から少し外れた場所にある菓子工場。外観の錆や汚れを見ると改装には手間を掛けていない事が分かる。屋根にある無数の煙突から絶えず煙が溢れ出しており、夕方を通り越して夜を迎えつつある現在でも稼働を続けるようだ。
忙しなく動くそれらから発する稼働音は、ピーターの体を運んでいる台車の車輪の音さえ聞こえない程だった。ほとんど人の管理を必要としていないその工場では、機械のメンテナンスをする者が数人常駐しているだけである。最もこの甘たるい臭いを嗅ぎ続けたいと思う人間はそういない。
「ん........あー......くっさ........」
車輪がコードを踏みつけた衝撃が辛うじて彼に意識を取り戻させた。だが、2日酔いの酷い頭痛はまだ収まっていないようだ。
少しすると、徐々に自らに起きている事が理解出来た。まず、自分は拉致されたという事。ここは強盗団のアジトのような場所という事。
「っ..........はぁ......死にてえ」
そして、手は後ろで縛られている事。それも恐らく自分の手錠で。
進んだ先にあるドアが開かれると、中は工場とは全く雰囲気の異なる場所だった。木製のテーブルや黒皮のソファー、そして値打ちの分からぬ壺やら何やらが窓際に置かれ、部屋の所有者のこだわりが随所に感じられる場所だった。ドアのすぐ側にはまた別の男が二人。恐らく武装しているだろう。
部屋に入った途端、奥の机に備え付けられた如何にも悪者らしい男から声が掛かる。
「”それ”はなんだ?」
蓄えた髭に、禿げあがった頭。金のタイピンは趣味が悪かったが、スーツは高級品だった。
「け、警察です........顔を見られて........」
ピーターを誘拐した男が恐る恐る口を開くと、言い終わるよりも前に男は立ち上がって近づき拳を振るった。指にはめられたままの金の指輪はさぞ痛かっただろう。頬を切り裂き血を流させる。
「馬鹿が。どう始末を付けるつもりだったんだ? お前は」
倒れた男の顔面を容赦無く蹴り上げると、腹にも数発蹴りを入れた。鈍い音が幾度も響くが入り口の男達に動く様子は無い。つまりこれは日常茶飯事なのだろう。
囚われの身であり、かつほとんど助かる見込みの無いピーターだったがこのまま見過ごすわけにはいかなかった。
「その辺にしといたらどうだ? 死んじまうぞソイツ」
ピーターの声で止めたのか、それとも疲れただけなのか。男はそれ以上の暴力を止めると、深い溜息と共に再び椅子に座り込んだ。暴行されていた男は既に気絶しているようだ。
「.......全く、こんな馬鹿に強盗をさせろとは......私には理解出来んよ。そうは思わんかね?」
引き出しからウィスキーを取り出すと、グラスに注いでいく。淡い明かりがグラスを貫通し、反射する様を優雅に眺めながら言う。皮肉にも、それはまさにピーターが想像していたモノだ。
「.......アンタが命令したんじゃないのか?」
ピーターの問いかけには反応が無かったが、代わりにと言わんばかりにグラスを傾けて息を吐く。やがて一呼吸置いて語りだした男の口調は、緊迫した環境の中ではとても穏やかなものだった。
「自己紹介がまだだったな。私はレイゲン。この菓子工場の経営者だ」
「........俺をどうするつもりだ」
レイゲン。そう名乗った男はまたも答えず、視線をピーターとグラスの間で揺らめかせては一口酒を飲みゆっくりと机に置く。決して相手のペースに乗らず、圧倒的優位な場所から自分のペースを守り続ける。その余裕と間は相手に焦燥感と緊張感を与え、冷静な思考を奪った。
「取引をしよう」
それは時としてこのように相手に無茶な要求を持ち掛け納得させる事も可能とする。
「...........取引だと?」
焦らした後は、相手に要求を間髪入れずに伝える。
「君の命は保証しよう。その代り、私達に少し協力をして欲しい」
まず相手の利益を真っ先に提示し、その後に自分達の要求を示す。散々焦らされた人間には幾ら無理難題であっても、この提案が何よりも魅力的な交渉に見え、聞こえる。レイゲンの発言の流れは全てが教科書仕込みの交渉だった。
「......俺に犯罪の片棒を担げと」
「加えて報酬も支払う。ただ、少し手伝いをしてもらうだけだ。悪くない取引だろう」
この男について、悪者ということ以外で一つ分かった事がある。
「分かった」
それは傲慢だという事だ。一体どういう人生を送ればここまで人を見下し、驕る事が出来るのだろう。
ピーターは間を空けずに返答をする。それはレイゲンにとっては意外な事だったようで、先程まで余裕をひけらかしていた人間が、この間はどうやら余裕からもたらされたものでは無く、純粋な驚きかららしい。彼は目を見開き、グラスを持とうとしていた手が止まっていた。
「........ほう。話が早いな」
彼はは適当に返事して、一先ずこの場を切り抜ける事を最優先に行動した。後々面倒な事になりそうだが、他の事を考えている余裕は彼には無かった。
「あまり長い時間署に戻らないと怪しまれるんでな。結論は早い方が良い」
「..........」
こう言っておけば、向こうにも時間が限られている事を理解させる事が出来る。その証拠にレイゲンは目で合図を送ると、ドア付近に控えていた男達が即座にピーターのコートを探り、鍵を取り出して手錠を外した。
無理な体勢で拘束されていた体が解放され、立ち上がると関節が音を立てる。窮屈に縛られていた手首は血の循環を始め、感覚を取り戻した。
「はぁ.......で? 俺は何をすればいい?」
すると、レイゲンは引き出しを開けて中から銃を取り出す。
「......そいつを撃て」
それを静かに机の上に置いた彼は、窓の外を見つめるとまた酒を一口飲んだ。そいつ、というのは先程レイゲンが暴行し倒れている男の事だ。この男は自ら銃を取らせ、狙わせ、殺せ。そう言っているらしい。
「............」
これが契約書なのだろう。この場でピーターを犯罪者にする事で口止めと、今後この男に一生怯えて仕える未来を約束させられるのだ。
その銃を見つめると、やがてゆっくりと近づき手に取る。今まで銃など散々握ってきたものだが、この重さにここまで圧倒される事は無かった。呼吸は荒くなり、自分の心音さえこの部屋に響いているのではと錯覚する。
「.......ん.....ぐっ.......っ....」
ピーターが銃を見つめていると、男は目を覚まし苦悶の表情を浮かべている。何が起きているのかを正確に把握出来ず、ただ銃を持つピーターの目を見つめ、小さく震えるばかりだった。
彼は何かを呟いているようだったが、それは言葉にはなっておらず耳には届いていない。ただ何を言っているのか、その目を見ているピーターには痛い程伝わっていた。
「死にたくない」
そう彼は訴えていた。
引き金に掛けるべき人差し指が動かなかった。まるで自分の指では無いかのように。
通常とは訳が違う。いつも自分達が狙っている的は犯罪者達だ。それも武装し、こちらを殺そうと攻撃を仕掛けて来る人間。それから身を守る為に引き金を引き、殺す。
身を守る為、それは今この状況に於いても同じ事だが相手は丸腰で命乞いをしている人間だ。そんな人間に向ける銃口は、震えて当然だった。
「どうした? 早く撃て。時間が無いんだろう?」
それは、これ以上時間を掛ける事は許さないという警告。
しかし、その警告はピーターに正気を取り戻させるのに充分なものだった。
「やっぱ、こっちの方が楽だわ」
「.........馬鹿め」
倒れている男に向けた銃口を、ピーターは向き直ってレイゲンへと向ける。不思議と震えは止まり、その額に向けて正確に照準を絞れた。背後の男達が慌てて銃を取り出すが、レイゲンはそれを手で制す。
「良いのかい? 俺を殺すなら今のタイミングはチャンスだったってのに」
「刑事相手にほいほい銃を差し出す馬鹿に、私が見えるかね。それに弾は入っとらん」
ピーターは小さく笑うと引き金を引いた。言葉通り、撃鉄の渇いた音だけが響き渡り銃弾は発射されない。
「.........みたいだな」
レイゲンが部下を制していた手を下げる。同時にピーターは己の最後を悟った。
思えば短い人生だった。碌な思い出も無かったが、悪いものばかりでもない。とどのつまり彼が最後に思ったのは、「飲み会に行かなければ」というどうしようも無い後悔だった。
レイゲンの部下が銃を構え、ピーターの背中へと向けた。
その瞬間、突如部屋の電気が消え、暗闇に包まれる。
「な、なんだ!?」
窓が大きな音を立てて割れると、辛うじてそこから黒い影が侵入して来た事が分かった。咄嗟にそれに向かって部下二人が発砲を試みるが、銃を構えるよりも先に聞こえて来たのは男達の悲鳴。重いモノが倒れたような音は恐らく二人が襲われ倒された事によるものだろう。
それは刹那の出来事だった。明かりが消え、月明かりに目が慣れるよりも早く窓より侵入した影は、瞬く間に男二人を倒し、そして今それはピーターの目の前に立っている。
影が手を掲げると、指先を鳴らす。パチンという音と共に明かりは再び点灯しピーターの目の前には眩い赤が現れる。背後を振り返ると男達は二人とも気絶しており、一瞬の事に未だ理解が追い付かなかった。
そして、それはあれだけ余裕の表情を浮かべていたレイゲンを同じだった。
「なッ.......一体誰だ!!」
ピーターに見えたのは後ろ姿、その赤がロングコートの色だったという事に今気が付く。しかも彼にはその姿に見覚えがあった。
「私が何者かって? 見れば分かるでしょ? 正義の味方よ!!」
正義の味方? ああ......そうだ。コイツが........。
茫然とするピーターは見覚えを確信に変える。それから被害者の気持ちも理解出来るようになっていた。彼女が目の前に現れ、自分が救われた。安堵と興奮。ファンになるのも無理は無い。
対してレイゲンは部下二人の横たわっている様が見えている。当然安堵など無く、心中にあるのは危機感と目の前の相手に対しての敵意だけだった。
「くそッ........」
懐から銃を取り出すとすぐさまそれを向ける。
「そんなもの、お話しには必要無いわ」
彼女が右手を前に突き出すと、まるで強い力に引っ張られたかのように銃がレイゲンの手を離れ、突き出した掌に吸い込まれていた。何が起きたのか理解出来ぬまま、レイゲンはその少女に銃を敵意ごと奪い取られてしまったのだ。そして、吸い込まれ彼女の手に収まった銃はピキピキと音を立てると、バラバラに砕け散っていく。
ピーターにもレイゲンにも、今の状況に至る過程を正しく理解し答えられないだろう。
ただ一つ理解出来るのは今はレイゲンが危機的状況にあり、文字通りピーターが圧倒的に優位な場所に立っているという事だけだ。
「確かに、こりゃすげえや」
恐怖すら感じ始めているレイゲンに少女は詰め寄ると、ニコリと笑ってある質問をした。
「さっき面白い事話してたわね。今日の強盗、貴方がさせたわけじゃないって。どういうことなの?」
「い、一体なんの話を.......」
「とぼけても駄目よ。貴方の上にまだ誰か居るんでしょ? その人の事が聞きたいの」
育ちの良い口調、お嬢様風のそれは嫌味では無く朗らかさを強く感じさせるものだった。それよりもピーターが驚いている事がある。チラリと見えた横顔や声質は幼く、身長も考慮すると恐らくまだ10代それも16や17歳の高校生程のようにも思えた。
「し、知らん.........本当だ.......電話で声を聞いているだけで......」
「ふーん........そうなの」
少女は顎に手を当て、少しの間思考する素振りを見せたかと思えばすぐにそれを止めると、ピーターの方へと体を向かせその顔をじっと覗き込む。
「な、なにをっ...........」
振り向く過程でレイゲンを”何か”で気絶させているのが見えたが、今の状況では小さな事だった。
落ち着きのない少女。それが態度から見える彼女の印象。
向き合って確信する。まだ高校生かそこらだろう。赤のロングコート、先程銃を吸い込んで粉々にした手には黒い手袋を嵌めていた。頬が隠れる程のボリュームのある金のウェーブヘアーと、目深に被ったハンチングキャップと大きな丸い眼鏡は、その素顔をあまり出したくないのだろうという事が見て取れる。
「それで、どうする?」
「..........何がだ?」
「貴方達の法律とやらに照らし合わせれば、私は犯罪者よね? 逮捕しなくていいのかしら」
顔を覗き込んで、悪戯な笑みを浮かべると彼女はそう言った。確かに彼女は犯罪者だ。しかし、同時に街のヒーローでもある。
「.......命の恩人を、現行犯で逮捕出来る程真面目な刑事じゃ無い」
「.........フフッ、そのようね。ね、貴方私に協力しない?」
口元から察するに、恐らく満面の笑みで彼女は言っているのだろう。
「は、はぁ? ちょっと待ってくれ。さっきギャングのボスに勧誘されたばっかりで........今日は人気者だな俺........そもそも協力って、一体何を.....」
「いいえ。貴方は分かっている筈よ、ピーター」
「.............俺の名前をどこで.....」
そうだ。彼女が何者か、俺は良く知っている。正確には現場に残された監視カメラの映像や目撃情報だけだが、この目の前にいる少女こそが、最近警察の仕事を横取りしている張本人なのだ。
「名前なんて些細な事じゃない。重要なのは、私には協力者が必要で、貴方にそうなって欲しいと望んでいる。それだけよ。お願い!!」
突然侵入し、この場を収束させたかと思えばその少女が、今は自分に向かって頭を下げては必死に懇願している。その様子が何故だか可笑しくなってしまったピーターは、堪え切れずに思わず吹き出してしまった。
「..........プッ....ハハハハハハッ!!!」
「もう、何で笑うの!?」
「す、すまんすまん........プッ.....はぁ.......分かった。やってやるよ」
「ホントに!? やった! ありがと!」
そう言うと少女はすぐに踵を返して入って来た窓に足を掛けた。またどこかへと行くのだろう。悪者を捕まえに。その前にピーターにはどうしても聞いておきたい事があったのだ。
去ろうとする寸前で声を掛ける。
「待て!...........どうして、俺なんだ?」
少女はこちらを向いて口元に笑顔を浮かべると、こう告げて去って行った。
「正義の味方同士は分かるのよ。ちゃんとね」
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彼が拉致された工場。今は無数の警察とパトカーに囲まれ、犯罪者達の連行が始まっている。拉致の現場であり、実行犯である強盗団の一味がこの場所に逃げ込んだ事。部屋の至る所に隠してあった武器で無事、レイゲンらは身柄を拘束される事となった。他にも探せば様々なものが出て来るだろう。
ピーターは自らの身に起こった事を”ほとんど”正直に話した。自分は気絶しており、その間に何が起こったのかは知らない。真っ赤な少女が得体の知れない力で自らを救ったなどという事は夢だったという事にしておく。同僚達には散々苦い顔をされ、後の上司の叱責を待っているという事実は彼の心を重くしたが、それ以上に今日は思い知らされたのだ。
「.............」
俺は、あの時確かに天秤に掛けていた。自分の命とあの男の命を。
最終的に判断を間違えなかっただけで、過程は確かにそこにあったのだ。自分の身を案じ、銃を向けた事。それは一生忘れられないだろう。
「............ん?」
携帯がメールを届いた事を知らせるように、ポケットで振動する。
(またね。ピーター)
アドレスを教えた覚えは無いが、どうやら得体が知れないのは力だけでは無いらしい。
「.........正義の味方か」
あの少女は俺を勘違いしている。俺はそんな高尚なものでは無い。ただの薄汚い、人間なんだ。