プロローグ
ショーケースが割られ目の前で商品が次々と鞄に詰められていく様を、店員達は黙って見ている事しか出来なかった。突きつけられた銃口と威嚇の為に放たれた銃弾が貫通した壁を見てしまっては、それも無理のない事だ。震える体を必死に抑えつけて両手を上げる。撃たないでくれと祈り、ただ嵐が過ぎ去るのを待っている。防犯用に備え付けていた非情ベルまでは、あまりにも距離が遠すぎた。顔がすっぽりと隠れたマスクを被る男達はその表情を伺う事は叶わなかったが、見開かれた瞳だけはしっかりとこちらを見つめていた。
バーバリー貴金属店はガラス張りで通りに面しており、外からはその様子が見える。その証拠に異変に気が付いた通行人が切迫した表情で通報している様子まで見て取れる。つまりこの男達も長居はしないという事だ。ただ少し待てば良い、それだけが店員達の救いだった。
そんな彼らの希望を打ち砕く非情な一声。
「.........そこのお前、こっちに来い」
そう、こうして人質が取られさえしなければ。
声を上げる事も出来ず女性店員が腕を掴まれ連れて行かれる。彼女は必死に目で訴えていた。誰か助けてくれと。しかし、皆目を背けた。人質に取られた彼女もそうでない店員や客も、その目を忘れる事は出来ないだろう。裏口に用意した逃走車両へと向かう最後の瞬間まで、彼女は見ていた。何か信じられないモノでも見たような呆けた顔で。つい先程まで談笑し、共に働いていた仲間が今ではまるで他人のように振る舞っていたのだ。
そしてその悲痛な表情は、あるモノを目にした事で次の瞬間には歓喜のモノへと変わっていた。それは強盗達が解除していた筈のドアが再びロックされ、それに気が付いた彼らの背後から掛けられた声で一斉に振り返るまでの間の出来事だった。
「やっほー! ご機嫌いかがかしら?」
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警察による非常線が張られる中、群衆の何人かはその光景についてSNSに投稿するので忙しいらしいが、ほとんどの人々はその光景を物珍しさに足を止め首を伸ばしていた。夕暮れが訪れ始めた都会の中心部はビル群の明かりとパトカーのランプなどの様々な光源に彩られ、非日常の様相を見せる。
視線の中心に立つ人間達は、それらに慣れた者だったが居心地が良いものでも無かった。
散らばったガラス片、晒された数多くの宝飾品と銃火器。そして、その場に倒れている男達の腕に次々と手錠を掛けていく彼らの表情は浮かばない。それは安堵と興奮冷めやらぬ被害者達の表情と正反対のモノだった。
「.......小さい頃は想像も出来なかったな。俺達の仕事はいつからお人形遊びになったんだ?」
犯人達の力無い体を起こして車に乗せるのは骨が折れるようで、詰め込む度に息が零れていた。それでもこのまま放置する訳にもいかず、彼らは渋々と現場を片付けていく。
同僚の愚痴を横目に、男は落ちている宝石の一つが視界に入った。幾つかの邪念が現れては消えていったが、真面目に作業を続ける同僚の視線に気が付いたので彼はすぐに目を逸らし、風を遮る為に襟を立てた。昼間は日が差していたこの街も夜は冷え込むようで、厚手のロングコートの中で体を縮める。
「仕事が減ってラッキーだろ? 部長の皺はまた増えてたが」
両手をポケットに入れると、男はゆっくりと現場を見渡すように歩き出す。裾の調節されていないスラックスは端を引きずり、解れるように破れていた。
この場所で強盗が起き、そしてその犯人達は地に伏している。この異常な光景が何によってもたらされた状況なのかを、この場に居る人間の全員が知っていた。皆がある一人の少女の姿を思い浮かべる。
ぐしゃぐしゃな黒髪は彼の髪を弄る癖が原因であり天然のモノでは無い。そんな彼もまた同じようにある一人の少女をぼんやりと浮かべていた。今日は緊急の出動の為彼を咎める者もすぐには来ないと分かると、胸ポケットから残り少ない煙草を一本取り出し、すぐに火を点けて吹かす。何度も禁煙を勧められては、自らもまたそれを目指したが遂にそれが叶う事は無かった。パッチもガムも薬での治療も彼、”ピーター”には効果が無かったのだ。
そんなピーターを見て同僚の一人が息を吐き、無言で手を差し出す。彼は自分で買えと払いのけた。
「......吸うのは構わんが、バレて睨まれても知らんからな」
詰め込みが一区切り付いたのか、車で犯人達を連行した者以外の何人かは既に捜査を始めていた。捜査と言っても、彼らに残された仕事は現場の写真や証拠を押さえて報告書作りを楽にする位のものだった。
彼は持って来たスポーツドリンクを傾けると、そのまま押し込むように口に運んだ。勢いよく流し込み過ぎたせいで咽た。そんな彼の様子に周囲に居た数人が横目をやると、それに気が付いた彼は気まずそうに空になったペットボトルの蓋を閉める。彼を見た数人は被害者と刑事達だった。
「はい、それで”彼女”が来て強盗達を一掃したんです! こう、なんか.......魔法みたいな力で.......嘘じゃありません! 実際に目にすれば貴方達も分かりますよ!!!」
「ええ、はい。分かりますんで。ちょっと落ち着いて........」
別の捜査官が被害者達に話を聞いているようだったが、見たところ聞き取りは難航しているようだ。”彼女”に魅せられた者であのような興奮状態になる人間は珍しくない。
「.....まーたファンを獲得したみてえだな。おかげで俺らの株は落ちっぱなしだよ全く」
同僚のボヤキにピーターは鼻を鳴らして返す。
「元々人気者でも無かったし、同じ事だろ.........っと、ちょっといいか?」
彼は煙草の火を地面に擦り付けて消すと、手近に居た店員の一人に声を掛けた。毛布を掛けられ、如何にも被害者である筈の彼の顔は、先程の出来事を思い返しているようで見た目に反して明るいモノだった。
「.....え、ああ。何だい? 何でも答えるよ!」
彼もまた、魅せられてしまった者の一人らしい。如何に凄いモノを見たのか話したくて堪らないようだった。しかし、ピーターが聞きたい事は事件の話であり、強盗達の話だ。無論興味が無い訳では無かったが、それは後で幾らでも調べるハメになるので今は置いておく。
「犯人の正確な人数を覚えているか?」
そう告げられた店員は一瞬呆けた顔を浮かべると、思い出すように上を見上げる。返答の返って来る時間からピーターは望む答えを得られないと悟ると、もう結構だと先制してすぐに別の場所へと歩き出した。同僚も彼のそんな様子を見て慌てて付いて行く。
「.......何か気になる事でもあったのか?」
ピーターは辺りを見回す。そこにはスーツに身を包んだ会社員や学校帰りの学生達が多く、未だ野次馬の数は絶えない。それどころか増えていくようにも感じられた。
「こんな目立つ場所で強盗しといて、人質取って、用意してた車で逃走って........ホントに逃げる気あったのかね。アイツ等、と思って」
「そりゃあ分からんが、少なくとも犯人達は逃げるつもりだったんだろ。わざわざ捕まる馬鹿はいねえよ」
「まあ、そうなんだが.......お前は防犯カメラを頼む。俺はちょっと辺りを見て来るわ」
彼はそれだけ告げると店の裏手に向かって歩き出す。ゆっくりと踏み出された脚は彼が懸命に何か異変を探している証拠でもあった。そんな彼の背中に向かって同僚は茶化したように笑みを浮かべて言う。
「刑事の勘、か? アハハ! らしくねえな!」
「うるせえよ.......」
自分でもそう思う。らしくないと。いつもなら事件解決だとさっさと署に帰るところだが、今日は別だ。自らの内に抱えたこのモヤモヤした何かを、このままにしておくのは良くない。何よりこのままでは帰れないのだ。
背中から感じる同僚やその他大勢の視線に辟易しながら、ピーターは人気の少ない裏通りに脚を進めた。重く響く頭痛は決して気のせいだけでは無かった。
そしてこの些細な気まぐれは、彼の運命を大きく変える事になる。