ホストクラブ
重厚感のあるソファ席、目の前の低いテーブルに運ばれてきたのはよく冷えたシャンパンボトル。
店内をギラギラと喧しく輝かせるシャンデリアの光も、今はずらりと取り囲んだ男たちの陰に潜んで視界には入らない。
派手な容姿のメインボーカルの男がマイクを握り、曲に合わせて軽快に音を放つ。
姫から貰った素敵なシャンパン 王子に捧げる素敵なシャンパン
二人の楽しい宴の席に シュワっと一花咲かせましょ ハイ
サブボーカルの音頭に合わせて他の男たちが賑やかに合いの手を入れ、席に座っている涼も教えられた通りに片手を振る。
その涼の反対の手で肩を抱かれていた女が、楽しそうに笑いながら涼に体を擦り寄せてきた。
「シャンコってやっぱテンション上がるねっ。涼くん、喜んでくれる?」
「勿論。最高だ」
降り注ぐシャンパンコールの大合唱に掻き消されないように女の耳元に唇を寄せ、声の糖度を限界まで引き上げて囁きを吹き込む涼。
顔を近づければ華やいだ女の色香と、充満したアルコールと香水の匂いに涼は少し胸焼けがして。
それでも女が求めているであろう艶美な、それでいて紳士的にも感じられる微笑を整え、涼は抱き寄せる腕に力を込めた。
より強く触れ合う体温。それだけで女は、極上の笑顔になる。
「こんな格好いい王子に、姫ちゃんから一言。はい、3、2、1」
「えっと、涼くん大好き」
マイクを向けられた女が嬉しそうに言った。
盛り上げ役の男たちが囃し立て、空間が異様な熱気に包まれていく。
続けて向けられるマイクに涼が言うことは決まっていた。俺も好き。そういう台詞だ。
高らかに上がった乾杯の声音に、涼も笑顔で女とグラスを合わせた。
泡の立ち上る液体を一気に飲み干す涼。もう、味なんてわからなかった。
「代表、あいつどこの店から引き抜いて来たんスか?」
深夜を回った店内、閉店の片付けと客の見送りにそれぞれがその日の最後の仕事を務めている時。
掃除をしていた若手ホストの一人が、店の管理を任されている男にそう訊ねた。
指導役の先輩ホストから色々と教わっている涼を遠巻きに眺め、男が笑って答える。
「引き抜きじゃねぇぞ。俺のプライベートな知り合いの紹介。働くのは初めてっつってたな、確か」
「マジすか!?この業界初めてでもう指名貰ってるとか、それありえなくないスか。今日なんかシャンコ二回っスよ、二回!」
興奮して話す若手に、正確にはこの業界が初めてなんじゃなくて、働くこと自体が初めてらしいんだがな。と内心で訂正しておく男。
「体験入店でいきなりエース級の指名ついたんスよね。俺とか暫くは送り指名も無かったんで、超羨ましいっス」
「それ、俺じゃなくて本人に言ってやれよ」
「いや、言ったんスけどなんかあいつ、仕事終わるとぼーっとしててあんま会話続かないっつか。正直とっつきにくいっスよ。イケメンだし」
「ほぉ。それは俺がイケメンじゃねぇから話しやすいって意味か?」
「あー、やー…そういう意味じゃなくて…っスねー」
目を泳がせる若手のセットされた頭を、男が怒った風にぐしゃぐしゃと掻き乱した。
若手の困り声や周りの笑い声が閉店後の店内をふんわりと満たす。
その和気あいあいとした空気にも染まることはなく、涼はただ黙々と片付けを続けた。
***
影の一番短くなる昼時。
涼は漸くのそのそとベッドから這い出た。
「…眩しい」
薄いカーテンを透けて入ってくる日差しを煩わしく思いながら、涼は流しで顔を洗った。
伶麗に紹介されて向かったホストクラブ。
その店からほど近いこの寮の一室が、今の涼の城だ。
「ん?…着信か」
働き始めて六日目にして既に貢ぎ物が陳列してあるテーブルの上、高価な時計や香水にまじって適当に投げてあった仕事用のスマホを涼は手に取った。
涼君に会いたいなぁ。という指名客からのメッセージに、今夜、店においでよ。待ってるから。と営業口調で返信を送る涼。
そういう意味じゃないのに。とぐずってみせる客と何度か戯れの言葉遊びを繰り返し、もう、涼君のバカ。でも行く。と最後に客からの口約束を取り付けたところで、涼の任務は一応の完了をみせた。
涼にとってこんなことは、今までに散々やってきたヒモとしてのリップサービスと大差ない。
そしてその涼のスキルはやはり、女相手にはちゃんと効力を発揮していた。
明日夏との連絡にも活用していたそのSNSのアプリの画面を眺めながら、ベッドの端に腰掛けた涼。
この六日で、日に日にズタボロになっていく己の身体と引き換えに、涼は失いかけていたヒモとしての自信をだいぶ取り戻した。
涼を指名する客はすぐに現れ、涼が頼まずとも高価な腕時計も高い酒も全て女の方から勝手に貢いでくれる。
女は涼の言葉で喜び、涼の行動に酔いしれた。それも、きちんと涼の意図した通りに。
パトロンならすぐに紹介できるわよ。と言っていた伶麗の言葉を思い出す。
あの時の涼は完全に自己不信に陥っていて、けれど一文無しだったから取り敢えず働かなければとの一心で伶麗に働き口を相談したわけだが。
多分このまま続けていたら体が持たないだろう。冷静な自分がそう現状を分析している。
四日目の帰宅後、この部屋に戻るなり涼は吐いた。
酒を飲み過ぎて戻すなど初めてのことで、ああ、自分にも限界があったのか。と吐きながら他人事みたいに思った。
今も少し、昨日の酒が残っていて頭痛がする。
額を押さえた涼の耳にいつかの明日夏の声が優しく囁いた。
「涼は酒の飲み方を少し覚えた方がいいな」
聞こえた声に涼の心臓がトク…と一度、鼓動を乱す。
頬に、明日夏のあの長い指が触れる気配がして。
でもそんなはずはなくて、涼は額に触れていた手で記憶の中の感触をなぞるように自分の頬にそっと指を這わせた。
***
担当した指名客をエレベーターで地上階まで送り届け、名残惜しいな。と口先だけの言葉を舌に乗せた涼に、その女は妖艶な笑みを浮かべて涼を見つめ返した。
涼の指名客の中でもダントツに金払いの良い、そして恐らく今まで涼が飼われてきた女どもに一番雰囲気の近い、成熟した大人の女。
金と時間を持て余し、従順で自分好みのペットとの一時の戯れを求めている。それはまさに、涼のよく知る類の女だった。
だから。
「ねぇ、涼くん。我が家で、私だけに尽くす気はないかしら?」
女がそう問いかけてきたことに、涼は微塵も驚きはしなかった。
遅かれ早かれ、誘われそうな気はしていたから。
「もっと良いお酒、好きなだけ飲ませてあげるわよ?」
「好きなだけか。それはとても魅惑的な誘い文句だ」
「ふふ。そうでしょ」
女が微笑して、涼の手を取る。
大人しく持ち上げられた涼の、その手首を飾っているのも、この女が与えた高価な腕時計だった。
良い頃合いかもしれない。と涼の頭の中で冷めた自分の声が語りかける。
元来、自分はこういう女に媚びながら生きてきたのだ。ヒモとしての自信も回復した今、その生活を取り戻す絶好の機会だろう。
涼が慣れ親しんだ、誰かの単なるコレクションの一つとして愛でられるだけの人生。
それをこの目の前にいる女が、与えてくれると涼に言っている。
「なんならこのまま、連れ帰ってあげても良いわ」
誘惑するように、色気たっぷりの指使いで涼の頬を甘く擽ぐる女の細い指。
頷いてしまえばいい。どうせこんな一時凌ぎの仕事なんて、俺には長く続くはずもない。
それよりもこういう金持ちな女の傍にいる方が何倍も簡単で、気楽な生活が出来るのだから。
だからもうこのままこの女の持ち物になってしまえばいいんだ。
なって、しまえば…
「ちょうどいい。見送りから戻ったんならちょっとあっちの卓のヘルプに入ってくれるか?」
「あ、はい」
店内に戻ってきた涼に、内勤の男が早口で指示する。
「あれ、代表の指名客なんだけどな。代表が店長に呼ばれたみたいで裏に行ったから、その間ヘルプで繋いでやって」
指名抜けて行くなんて、よっぽどヤバい客でも来てんのかねぇ?と男が涼に疑問符を投げかけて去って行く。
そんなこと俺に聞かれても、と内心で返し、涼は言いつけ通り指定された卓へヘルプに向かった。
「やだ、ジン君が言ってた通りだわ。お姉さん感心しちゃう」
「代表が?なんて言ってました?」
「女の扱いに長けたスゴい新人が来た、って」
喋りながらも女の咥えたタバコに涼がさりげなくライターを傾けると、女は至極満足げに微笑した。
ありがと、と艶美に言って女がするりと足を組み替える。
男の視線の集め方もホスト遊びもお手の物といった感じの、自分の魅力を心得ている女。
こういう女は分かり易くていい。自分が何を望んでいるかを態度で示してくれる。…誰かとは違って。
「涼ちゃん、どうかした?難しい顔しちゃって」
問われ、涼は視線を上げた。
訊いて小首を傾げた女の口からは、涼の心にかかった霧と同じ不透明な白い煙が細く吐き出されている。
「すみません。綺麗な足に少し見蕩れてました」
「あら、嬉しいわね。そういう正直な子って好きよ、私」
得意の微笑を添えて涼が言うと、女も言葉通りの好意的な笑みを湛えてうっとりした視線を涼に返す。
場は滞りなく盛り上がり、女は上機嫌に注文を重ねる。
どうして俺はまだ、こんなところに座っているんだろうか。心の中で呟きながら、涼は女に入れさせた酒をぐいっと煽った。
幾度となく流し込んだアルコールに喉が焼ける。
もう欲しくないと体が訴えるけれど、涼は舌先だけで紡いだ言葉で女に酒をねだった。
それがここで生きるための、ルール。
なんならこのまま、連れ帰ってあげても良いわ。と言ってくれた女の誘いを自ら断って、涼は店内に戻って来た。
断る理由など、今考え直してみてもやはり思い浮かばない。それくらいには、何の不足もない相手だったのに。
ただ、今度はこの女の物になるのか。と涼が漠然と思った瞬間、頬に触れた指の感触に抱いた微かな違和感が涼を支配した。
これじゃない。そう感じてしまったのは、涼の体か。それとも心か。
「涼ちゃん全然酔わないのねぇ。ジン君とは大違いだわ」
「おいおい。誰が大違いだって?」
女の言葉に涼が返事をする前に、戻ってきた代表の男が笑いながら会話に入ってきた。
涼が視線を向けると、男が、もう行っていいよ。サンキュな。と目だけで礼を伝える。
「てか涼、俺の姫様に近付き過ぎだろ。ほら、どいたどいた」
涼を追い立てる風を装って、その実、立ち上がる涼に手を貸す形を取った男はそのまま涼の首筋に顔を寄せると、
「もうこのまま上がれってさ。お疲れさん」
そう、女には聞こえないような小声で涼に告げた。
男の指示に涼が首を傾げたのも無理はない。
もう閉店まで一時間を切っているとはいえ、閉店後の掃除や片付けだってあるはず。
けれど店を取り仕切る代表にそう言われれば従う他ない。涼は男に手を引かれるままに席を立とうとして。
「いいじゃない。もう少しここにいなさいよ、涼ちゃん」
しかし、そう言って涼のジャケットを捕まえた女の言葉に、涼は一度動きを止めた。
「どうしても行くって言うんなら、そうね。お姉さんにおやすみのキスをくれたら放してあげるわ」
強かに酔い、もともとの豪気な気性とも相まって気の大きくなっている女が涼に命じる。
多分これは女のちょっとした悪ふざけで、そして涼への挑戦状。簡単な駆け引き。安全な、大人の火遊び。
動揺して見せても、素直に従って見せてもいい。
どんな反応を返してもそれなりには喜ばれるだろうけれど、涼は知っている。
こういう強気な女が求めているのは恐らく、ちょっぴり危険な刺激の香り。
「え?」
だから涼は、タバコを持つ女のその華奢な手をそっと取って自分の口元に引き寄せた。
口紅の付いた、女の細い指に挟まれたままのそれを咥え込み、ゆっくりと煙を吸い込む。
そうして女の余裕たっぷりの笑みが驚きに止まったのを確認してから、涼は女の手を解放し、煙を静かに吐き出した。
細めた視線に涼が一瞬だけ色を乗せれば、瞬きを止めた女がコクリとその喉を鳴らす。
「場内でのキスは禁止なんで、これで許してください」
にこり、と年下っぽく邪気を薄めた笑みを添え、涼はそう言って女に促した。
涼のジャケットを滑り落ちる女の手。
再度会釈して、涼は卓を離れた。
「ねぇ、ジン君。あの子、なんかもう新人の域を超えてない?」
「俺も同感。だからホント、惜しいんだよねぇ。店としては」
涼と入れ替わるようにして女の隣に腰を据えた代表の男が肩を竦めて苦笑する。
女の指に挟まれたタバコの灰が一欠片、はらりと零れた。