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喪失

「その件でしたら滞りなく。ええ、分かっていますよ、会長。では」


営業用の笑顔を貼り付けて喋る乾いた通話を終え、明日夏は椅子から立ち上がって窓辺に移動した。

見れば昨日の土砂降りの名残か、重く暗い雲が今にも雨を零しそうに湛えている。

温度も湿度も最適な状態に保たれたこの社長室で、明日夏は忙しなく動いている世界をその黒い瞳に映した。


世襲制などという古臭い慣習により、明日夏は今、ここに身を置いている。

先の電話の相手、つまりこの巨大なグループ企業の会長を務める父親と、明日夏が初めて対面したのが高校生の時。

本妻との間に子供が産まれず、昔に捨てた女が産んでいた子供をいきなりそちらの都合だけで養子として引き取りに現れたのがその男だった。

そんな父親のことを明日夏は別に恨んではいない。勿論尊敬はしていないし、正直言って親だとも思っていないが。

ただ、こうして与えられたグループ会社の内の一つで社長という地位を比較的簡単に手に入れられている自分の人生を、楽だとは思っている。

いずれは世襲を笠に着て、グループの会長という職に就くのも悪くない。要領のいい自分ならばそれも容易なことだろうし。


明日夏の黒曜の瞳の表面を、映し出された厚い雲が右から左へ流れていく。

明晰な頭脳、器量の良さ、抜群の容姿に人好きのする笑顔。およそ人間が生きていく上で有利に働くものを、明日夏はほぼ備えていた。

今ではそれに加え、親の威光と安泰の将来までがもはや明日夏の手の内である。


故に、明日夏の人生はいつも灰色で味気なかった。つい、数週間前までは。


どんよりした空から時折思い出したようにぱらつく小雨。

またもや降り出してきた雨に道ゆく人々が慌てて傘を開く様はまるで、咲き乱れる花々の、満開へと向かう花壇の賑わいのように明日夏の目を楽しませた。


「四時、か」


腕時計に視線を落とした明日夏が短く呟く。

今朝の涼のいつも通りだった態度を思い返し、それから昨晩の、一瞬だけ垣間見えたあの瞳の奥の熱を反芻して、明日夏の口元が満足げに弧を描いた。

もっと暴いてやりたくなる。涼が明日夏に抱いている無自覚の、その全てを。


いや、しかし、やり過ぎてますます殻に閉じこもられてもそれはそれで面倒だしな。

思って、明日夏は自分の欲望を諌めるように口元を手で軽く覆った。


自制と見極め。それも、自分は得意な方だと明日夏は自負していた。

明日夏がその過ちに気づくまで、あとほんの、数時間。




***




秘書の運転する車でマンションに帰ってきた明日夏は、入ってすぐのロビーフロア内にある郵便受けを開けた直後、


「…」


絶句したまま硬直した。

数通の郵便物の上、無造作に鎮座しているそれは紛れもなく明日夏の家の鍵で。


え、と。…は?


明日夏の頭の中に浮かんだのは疑問符と、意味を成さない音が三つ。

何度か瞬きをしてみたが、目の前にある光景は同じだった。

鍵、明日夏の家の。けれど明日夏がいつも持ち歩いている方ではない、鍵。


「ッ」


引っ掴んで、明日夏はエレベーターに飛び乗った。

自宅のある階までノンストップで上昇していくその箱の中で、遅い、と思ったのはこれが初めてだった。


「涼っ!」


郵便受けに入っていた鍵で解錠し、勢いに任せて駆け込んだリビングに響いた明日夏の声。

薄暗いそこに、人の気配はない。

ドクン。明日夏の心臓が嫌な音を立てて鳴いた。

手探りに照明をつけると見慣れたリビングテーブルが明日夏の視界に飛び込んでくる。

そこには明日夏が涼に買い与えたスマホと、好きに使っていいよと渡していたカードと現金が並べて置いてあった。


はらはらと、明日夏の手を滑り落ちた郵便物が音もなく床に舞う。

残響の消えたリビングはとても静かで、酷く無機質な色をしていた。




***




暗闇に浮かんでは消える 灼熱の陽炎 


儚げに紡がれる歌声と、切なさを掻き立てる露草色のシックなドレス。

伶麗はその細い腕で自分自身を抱きしめながら、唇で奏でた音を一つずつ、マイクにそっと置いていく。


幻影を求め過ぎたの だからこれは私への 罰


曲に合わせて照明が控えめに色を変える中、いつものカウンター席に腰掛けていた明日夏は馴染みのバーテンダーと言葉を交わしていた。

先程は別の従業員を呼び止めて話していたように思う。

気の良い笑顔を添えて短い会話を終えた明日夏を、店の奥で歌いながら伶麗はずっと眺めていた。


一瞬焦っているように見えたのは、私の勘違いだったかしら。

感傷的な歌い方はそのままに、伶麗が内心で首を傾げる。

店を訪れた直後、何かを探すように視線を巡らせた明日夏の仕草を目にして、伶麗には一つ、思い当たる節があったのだが。


枯れた硝子の花弁 数えて 失くした夜明け 探し彷徨う


歌いつつ、伶麗は今日の開店前の出来事を思い返していた。


「そう、出て行くのね」


小雨が濡らした地面がようやく乾き始めた夕暮れ時、ちょうど出勤してきた伶麗を呼び止めたのは涼だった。

意外な来訪者に少しだけ驚いたものの、伶麗にはそれ以上思うところは特になかった。

寧ろ、あの明日夏が一ヶ月近くも特定の人物を、しかも滅多に他人を招くことすらしない自宅に置いていたことの方が異常な事態というか、異様な状況だったのだから。


「うーん。涼のことを気に入ってくれそうな常連さんって結構多いのだけれど」


働き口を紹介して欲しいと言ってきた涼に、伶麗は苦笑して困ったように眉を下げた。

明日夏が何度か店に連れてきていた涼のことを見かけては、ああいう子を飼ってみたいから紹介してと伶麗に耳打ちしてきた常連客は実は一人ではない。

だから、明日夏が涼に飽きたら回してあげようかしら、と心密かに計画していた伶麗の思惑は、しかし残念ながら、涼の方から断られてしまった。


パトロンはいらない。働きたい。

伶麗の目から見ても涼の社会適応能力は壊滅的に低そうだったから、失礼ながら涼のその発言は完全に予想外だった。

きっと昨夜、自分の誕生日にかこつけた明日夏が涼に物凄いことをしたに違いない。と内心で判断した伶麗の憶測は、まぁ、当たらずしも遠からずといったところか。


「ちなみに聞くけれど、涼って今までに働いたことあるの?」


伶麗の問いにやや俯いて沈黙を返した涼の、翳りと憂いを帯びた美しい顔。

流石、短期間とは言え明日夏のお眼鏡に適っただけのことはあるわね。

涼のその芸術的とも言える造形を脳裏に描いて、伶麗はステージ上から明日夏へと視線を流した。




「変な事なんて言ってないわよ?好き嫌いを聞かれたから、明日夏は甘い物が苦手だと思うって教えてあげただけ」


ステージを降りて明日夏の元に来た伶麗に、明日夏は三日前の夜のことを訊ねていた。

ちょうど伶麗が明日夏に一番乗りで誕生日の贈り物を手渡したあの晩、明日夏が入店する前に涼と会話をしていたのは恐らく伶麗だけだ。


「ああ、後はそうね。明日夏ってかなりの人数を相手してきてるから相当良かったでしょ、って涼に確認したくらいかしら」


ぽってりした艶やかな下唇に指を当てた伶麗は、しれっとそう微笑んで答えた。


「それはまだ数回しか会っていないような相手にふるネタか?」

「どうして?いいじゃない、減るものでもないんだし。それにそういう話題持ってると重宝するんだもの」


他の店の女の子たちとオフで深夜トークする時に。と茶目っ気たっぷりの笑顔を向けてくる伶麗。


「ほら、明日夏と寝てみたいって子も結構いるから凄く話が盛り上がるのよね」


女の生々しさを垣間見た気がして、明日夏の笑顔が若干冷める。

けれど今、明日夏が考えるべき本題はそこではなかった。


伶麗の言葉が本当だとすると、別に伶麗との会話の中に涼が感情を切り捨てる程の地雷があったようにも思えない。

敢えていうなら明日夏に手を出されていないことに涼が嫉妬心を煽られた可能性くらいだが、昨晩の涼と戯れた感触から考えても、別に涼は明日夏に抱かれたかった訳ではなさそうである。


かと言って、あの程度のお遊びで逃げ出すほど純朴でもないだろうし。


「伶麗、本当に涼が何処へ行ったか知らないのか?」


機嫌よくグラスを傾けている伶麗に、明日夏が小さく微笑んで問いかける。


「ええ、知らないわ。どの店舗かまでは、ね」

「…。成る程」


呟き、ポケットから取り出した鍵を意味もなく明かりにかざしてみる明日夏。

反射した光の無機質な煌めきに、明日夏は乾いた笑みを貼り付けたまま不快げに目を眇めた。

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