飼い犬の躾
防音性能の高い窓ガラスのお陰か、降りしきる雨音も殆ど届かない明日夏の家のリビングはとても静かだった。
ローテーブルには食べ終わったケーキ皿と空のワイングラスが二組。
そろそろ片付けて寝ようか、という明日夏の発言に無言の抵抗を示し、涼は立ち上がりかけた明日夏の手を掴んでソファに引き戻した。
「やっぱり俺からも何かあげたい」
ややのしかかるようにして明日夏の肩をソファの背に押し付けた涼の、真っ直ぐな眼差しが明日夏を映す。
帰宅して夕食を食べている間、涼は比較的今まで通りだった。
いや、正確にはここ二日ほどの、ヒモとしての挑発的な態度に輪をかけて悪化させたような言動が散見されはしたが、まぁ、それを除けば普通だった、と言うところか。
その度に明日夏の神経を薄っすらと逆撫ではしたけれども、明日夏が適当にかわせばそれで場が流れるくらいの細やかなものだった。
この時までは。
「どうしても、駄目か?」
問う涼の、平然とした表情に滲む夜の香り。
きっとこれも使い慣れた態度なのだろうと思えばこそ、明日夏はそんな涼の誘いに乗る気にはならなかった。
「涼、また…」
また酔っているのか、と苦笑して場を濁そうとした明日夏は、しかし少し痛いくらいに肩を掴む涼の手の温度に違和感を覚えて、言いかけた言葉を飲み込んだ。
じんわりと熱っぽい、そして僅かに震えを帯びた涼の掌から伝わるのは、余裕を欠いた必死さ。
そして肌を伝わって相手を煽るその熱は、明日夏を焦がした涼のあの、焼け付くような眼差しと同じ温度をしていた。
もしかしたらこの熱さえも涼のヒモとしての常套手段なのかもしれない、と明日夏は一瞬勘ぐって。
でも、どちらかといえば明日夏に拒まれ続けた挙句の、無意識に発動された涼のタラシとしての本領のなせる技のように明日夏には思われた。
「なぁ、明日夏」
「…」
媚びるような涼の声音。
聞いて、明日夏は顔には出さず苛立った。
恐らく、いや、間違いなく、今の涼は明日夏に対してではなく、不特定多数の過去の女に現状を重ねて目の前にいる対象を義務的に誘惑しているに過ぎない。
そんな顔も知らない女達と同等に扱われていること自体も明日夏には十分癪に障ったが、それよりも何よりも、それが分かっていて尚、涼の熱に一瞬でも反応して戸惑ってしまった自分自身が一番、悔しかった。
だからこれは涼への同情でも施しでもなくて、言うなれば単なる明日夏の八つ当たりに近い。
「涼、そんなに俺と楽しいことしたいのか?」
あくまでも甘やかに、優しげに聞こえるように明日夏が囁くと、涼が少しだけ手の力を緩める。
驚きと、僅かばかりの期待。
ああ、そういう顔も好きだよ、涼。心の中で呟いて明日夏はにっこりと穏やかに微笑んでみせた。
「いいよ。なら、今夜だけ。俺の誕生日だから特別に受け取ってあげるよ、その贈り物」
引き寄せた涼の耳に明日夏が吐息でそう告げれば、それだけで部屋は妖艶で魅惑的な香りに満たされる。
けれど決して、涼だから特別、と言わなかったのは、明日夏から涼への意地悪のプレゼントだ。
今もずっと雨が世界を濡らしている。
でもその音はこの部屋にも、明日夏の耳にも、届いてはいない。
***
ソファに浅く腰掛けた涼の細い腰を、その後ろに座った明日夏の腕が抱えている。
「涼はもう少し食べた方がいいんじゃないか?ちょっと軽過ぎると思うよ」
心配そうな口調で言いつつも、涼の肌を撫でる明日夏の手の動きはどこか弄ぶように意地悪だった。
足の間に涼を座らせて後ろから抱きかかえ、涼の項に揶揄い紛れの吐息を吹きかけて笑う明日夏。
たくし上げたシャツの隙間から脇腹を撫でられた涼は、堪らずに身を竦めた。
「待っ…明日夏、やっぱり体勢変えさせて」
「駄目。俺の言うこと聞くって約束だろ?」
「そう、だけど…」
涼の贈り物を受け取る代わりに明日夏が提示した条件は一つ。明日夏の指示に従うこと。
頷いた涼に明日夏は、なら、ここに座って。と可愛く小首を傾げて涼を誘った。
「だってこれだと俺は明日夏に」
結局何も出来ないままだ。そう主張しようとした涼の言葉を遮り、
「確かにこの体勢だと涼の顔が見れないのは問題だな」
わざと真面目腐った声音で、小難しい顔をしてみる明日夏。
うーん、と悩んだ風な間を取ってから、明日夏は涼の顎を優しく捕まえて横向かせた。
「そうだな。こうしよう」
「っ…」
僅かに上体をずらして明日夏からも覗き込むように顔を向ければ、いきなり吐息が触れ合う距離で重なった視線に涼が思わず息を飲む。
涼が自分から迫るようになってからは明日夏の方から近づかれることもめっきり無くなっていたから、この不意打ちの至近距離は涼の封印したはずの心をほんの一瞬、ざわつかせた。
涼の瞳に溢れた熱の、その残り火。
それに気づいた明日夏は、その燻る炎を煽るように、吐息を絡めた囁きを涼の唇に吹きかけた。
「涼、キスしたそうな顔してるよ」
「…明日夏は、したくないのか?」
「さぁ。どう思う?」
明日夏が瞳を細めて問いかければ、涼は一層物欲しげに、薄く開いた唇を震わせて明日夏を見つめてくる。
そんな涼の反応を、明日夏は純粋に可愛いとは思った。
けれど、涼がヒモとしての礼儀で明日夏を誘う限りは、そして単なる飼い主の一人として明日夏を求める限りは、こちらからは手を出さないと明日夏は心に決めている。
だから。
「口、開けて。涼」
言われ、涼は素直に明日夏の言葉に従った。
明日夏はそれをくすりと悪戯っぽく笑って眺めてから、涼の顎にかけていた指をその整った歯列の間に滑り込ませた。
期待に濡れていた涼の目が驚きに見開かれる。
まるで直前でお預けを食らった犬みたいな涼のその顔は、なかなかに明日夏を高揚させてくれた。
「んぅッ、…っ!?」
「噛むなよ?」
動揺する涼の耳に吐息で命じ、涼の口腔内に侵入させた指を動かす明日夏。
そのまま唾液を絡ませるようにゆるゆると舌の上を行き来させ、明日夏は緊張で縮こまった涼の舌を優しく和らげてやった。
「…ぁ、む…っ」
溜まってきた唾液を飲み込もうと涼が口腔内を狭めるとクチュ…、チュプ…、と淫らな音が溢れて静寂を塗り替えていく。
明日夏の片腕で抱えられただけの涼が本気で暴れれば逃げ出せないはずはない。
それでも、飼われることが自分の存在価値だと信じている今の涼にそれはあまりに酷な選択だった。
「こら、涼。邪魔しない」
逃げられないながらに抵抗しようと明日夏の腕に手を伸ばす涼を、明日夏がすかさず見咎めて叱る。
「っ、ふ…ぁッ!」
そうしてお仕置きと言わんばかりに舌の根元を強く握って引っ張ってやれば、涼は眉間をキュッと寄せて体を硬直させた。
すぐに指の力を緩め、今度はつつ…、と快感を煽るように歯列を撫でてやる明日夏。
んっ…涼の鼻にかかった声が甘く抜ける。
明日夏がそれを揶揄うようにクスッと吐息で笑うと、涼は戸惑いを滲ませた表情を僅かに赤らめて明日夏を睨んだ。
その視線さえも愉しみ、明日夏は妖艶に微笑んで涼に囁きかける。
「涼、今までこんな風にされたことないだろ」
「…るわけ、な…」
懸命に答えようと動かした舌をあざ笑うかのようにちろちろと指の腹で擽られ、息を詰まらせる涼。
互いの舌で触れ合うキスならば幾度となく経験があったが、後ろから抱き竦められて一方的に指で口腔内を弄ばれるなんて完全に初めてだった。
そもそも自分に主導権がない状態でこういう行為に及ぶこと自体、涼にとって未知の体験であり、実を言うと明日夏に対しても自分が受け身で応じることを涼は今の今まで一切想定していなかった。
故に、涼の脳は今まさに混乱を極めている。
「ほら、涼。ちゃんと飲み込まないと。もう溢れてしまうよ?」
「っやめ…ッ」
「それとも俺の指がそんなに美味しい?こんなにだらしなく涎垂らすくらいに」
「ぁ、あす…っか」
涼に懇願するように名前を呼ばれたところで漸く、明日夏は涼の口腔内から指を引き抜いた。
トロリ…、透明の液体が涼の口の端を伝い落ちていく。
明日夏はその濡れた指先で涼の震える唇をそっと撫でてから、溢れた唾液を指の腹で優しく拭った。
ビクッと反射で肩を揺らした涼を見つめ、明日夏が穏やかな声音で告げる。
「ここまでにしようか」
「…は?」
「だって涼、今、やめてって言ったろう?俺ももうだいぶ気が済んだから」
自分の腕の中で困惑する涼を眺めることにより、明日夏の中の苛立ちはかなり解消されたらしく。
明日夏は甘い余韻だけを残してソファから立ち上がると、そのままリビングを後にした。
明日夏としては、おいたが過ぎた飼い犬をちょっと脅かしていい子にさせただけ、のつもりだった。
だから半ば放心状態のまま一人リビングに取り残された涼の、心を濡らす雨の音には全く気が付かなかった。