受け取ってもらえない贈り物
コト…、控えめな音を立ててデスクの脇に置かれた珈琲を横目に捉え、明日夏は手を止めて顔を上げた。
ありがとう、ちょうど飲みたいと思っていたんだ。と微笑んで告げれば、相手は恐縮したように身を竦め、深々と頭を下げて退室して行った。
オフィスの最上階にある広い社長室、一面ガラス張りの窓からはビル群を眼下に見下ろせるそこが、明日夏の仕事場だ。
「…」
読んでいた企画書を置き、代わりにカップを手にとって、その暗い液面をため息で揺らす。
後悔というのは概して後からするものだとは言うが。
「完全に読み誤ったなぁ」
自嘲気味に呟いて、明日夏は手にした珈琲で喉を潤した。
伶麗が働くあの馴染みの店で初めて涼を見かけたあの時、好みの顔だな、とは確かに思ったのだ。
そして、簡単にお持ち帰りできそうだ、とも。
だから気軽に声をかけたのだけれど、その時点で既に、明日夏は一つ、認識を間違っていた。
涼はとてもお手軽そうに見えて、実は自分自身の感情に呆れるほどに鈍かった。
明日夏本人から見ても明らかに、涼が自分に対して圧倒的な好意を抱いているのは最早言い逃れしようもないくらい当然の事象のように思えたのに、当の本人だけが完璧に無自覚で。
そしてそのことに明日夏が気付くまで、殆ど時間はかからなかった。
まぁ、それはそれで楽しくもあったのだ、明日夏としては。無自覚の涼が自分の言動一つでドキマギする様は見ていて微笑ましくもあり、明日夏の支配欲を満たしてもくれた。
無自覚ながらに甲斐甲斐しく尽くしてくれるのも、大層愛おしく明日夏には感じられていた。
だから追い追い、何かきっかけでもあれば、涼は自分の恋情を認識して明日夏に焦がれてくるのではないかと悠長に構えていた。
或いはあまりにも焦れったくなった時には、明日夏自ら手取り足取り、涼に情操教育でも施してやろうか、とも。
しかし昨夜、そんな場合ではない事態が勃発した。
涼の未発達な精神部分とヒモとしての豊富な経験とプライドと、あとは嫉妬やら酒やら、とにかく雑多な様々な要因が重なった結果、涼はヒモという立場に徹することで自身の感情を切り捨てるという暴挙に出ようとした。あくまでも明日夏の見立てによると、だが、恐らく当たっていると思う。
冗談ではない。
必ず手に入ると見越してまだ手さえも付けず、可愛がって弄んで大切に囲ってきたというのに。
金で買える程度の相手なら今までにもいくらでもいた。けれど明日夏が心底飼いたいと思った相手は、数多の遊び相手を含めてもこれが初めてなのだ。
だというのに。
「待って、涼」
「何だ?」
口付けようとしてきた涼の体をやんわりと押し戻し、明日夏は真顔で涼を見つめ返した。
動きを制され、キスを拒まれても、涼の顔色は変わらなかった。
平然として明日夏の言葉を大人しく待つ涼の態度がますます明日夏を不快な気分にさせたけれど、それでも明日夏は努めて穏やかに言葉を続けた。
「そういうリップサービスはあまり嬉しくないな。今の、俺に向けた言葉じゃないよね?」
「何故?俺の目の前には今、明日夏以外いないだろ」
「その台詞も、まるで定型文みたいに聞こえるよ。今まで何人の女に同じ事を言ってきたんだか」
「まさか。明日夏にだけだ、こんな風に自分から触れたいと思うのは」
そう吐息混じりに紡がれた涼の言葉を思い出して、明日夏はまた珈琲に溜息を吹き込んだ。
涼は本当に酒癖が悪いな。とその場は冗談にして流しておいたけれど、明日夏の心中は決して穏やかではなかった。
涼の言葉の裏に透けて見える嘘臭さも、涼の顔に貼り付けられただけのお綺麗な微笑も、明日夏を挑発しているとしか思えなかった。
もしもそこで苛立ちにまかせて手を出していたら、それこそ涼の思う壺だっただろう。
涼に、明日夏は今までのパトロンと同程度の存在だというレッテルを貼るに足る理由を与えてしまうことになるのだから。
「さて、どうしたものか」
言って、明日夏はカップを置いた。
そもそも、酒で感情が暴走したのか単に色々と考えるのが面倒になったのかは定かではないが、だからといって飼い犬に徹するという選択肢を迷わず選ぶとはどういう了見なのだろうか。
明日夏の期待した展望の斜め上を行くにも程があるというものだ。
勿論、だからと言って、明日夏自身もそう易々と涼を手放す気はないし、涼にも簡単に明日夏に対する無自覚の感情を投げ出させてやるつもりはない。
だがしかし、嫉妬を煽るにしても優しく誘惑するにしても、涼が自分の心の動きから一切目を逸らすと決め込んでしまえば、そこを覆して意識させるのは相当に骨が折れるだろうことは想像に難くなかった。
ふと、デスクに置いていたスマホの画面が点灯して明日夏に着信を知らせる。
気が付けばもう昼下がり。
涼からの、夕食のリクエストを訊ねるいつものメッセージだ。
何か食べたい物、あるか?という漠然とした内容の質問に、涼の作るものなら何でもいいよ、とありきたりな言葉を返す明日夏。
今までならここで終わるはずの遣り取りだったが、今日に限って更に涼からの返信が続いた。
そのスマホ上に綴られた、明日夏の好きなもの作って待ってる。期待してて。という文面を見て、明日夏は本日何度目かになる深いため息を吐き出した。
「だから要らないんだって。こういうのは」
明日夏、という名前の部分だけを挿げ替えて、きっと幾人もの相手に使われてきた台詞なのだろうとすぐに分かる。
自分自身も女性に対して似たような言葉をよく投げかけるからこそ知っている。
こういう台詞にはそもそも心なんて端っから込めたりしないものだ。
そしてそんな口先だけの音の羅列を、明日夏は涼に求めてはいない。
「あんまり俺を怒らせるなよ?涼」
ぼやき、明日夏はスマホの画面を伏せてデスクにそっと置いた。
***
珍しくインターホンが鳴り、食卓に皿を並べていた涼は手を止めて玄関を開けた。
「ごめん、涼。手が塞がってて」
「それは構わないが、凄い荷物だな」
扉を開けると明日夏が苦く笑って両手に持った大きな紙袋を掲げてみせる。
中には大小様々の包みが無造作に詰め込まれていて、そのどれもが、プレゼントです、と主張するようにご丁寧にラッピングされていた。
「もしかして明日夏、誕生日とかか?」
昨晩、伶麗からも何やら贈り物を受け取っていたし、これだけ同時に物を貰うイベントなどそう多くはない。
バレンタインやクリスマス以外で他に考えられるとすれば誕生日くらいだろうという涼の予想は正しかった。
リビングに適当に紙袋を下ろした明日夏が頷いて苦笑する。
「正確には明日なんだけどな。当日が日曜だとこうして前倒しになるんだ、毎年」
「へぇ。愛されてるんだな、明日夏。少し妬ける」
紙袋二つ分のプレゼントを眺め下ろしながら、涼は感慨もなくそう言って眉を下げて見せた。
それから紙袋のそばに立つ明日夏に視線を戻す。
涼は、荷物から解放された両手を解すように軽く振っている明日夏に歩み寄ると躊躇いもなく手を伸ばした。
「なぁ、俺も何か明日夏にあげたい」
言いながら、明日夏の首筋に手を這わせる涼。
そのままするりとネクタイを解いて外そうとする涼の手を、しかし明日夏は無言で自分の首元から遠ざけた。
「明日夏?」
不思議そうに首を傾げる涼に、明日夏は暫くの間、黙って視線を返した。
明日夏が捕まえて引き剥がした涼の手は大人しくその場所でじっとしている。
深く息を吸い込んだ明日夏は一度静かに目を閉じると、ゆっくりと、開いた視界に涼を映した。
「ケーキ、買いに行こうか。明日、二人で」
「ケーキって…俺はいいけど、明日夏は食べたいのか?甘い物はあまり食べないだろ?」
「だから涼が選んでくれると嬉しいな。俺でも食べれそうなヤツ」
にこりと微笑んでみせる明日夏に対し、涼はどこか納得いかないという表情をチラつかせつつも了承の意を示す。
それを確認してから、明日夏は再度、口を開いた。
「涼、お勧めの店とかある?」
「ああ。少し遠くてもいいなら」
答えた時にはもう涼の顔はきちんと整えた微笑を湛えていて。
「夜はどうする?家で食べるなら食材も買い足さないといけないんだが」
「なら、ついでに買い出しもしよう。明日は車出すよ」
「明日夏、車持ってるんだ?」
「一応な。殆ど乗らないんだけどさ」
そんな当たり障りのない会話をしながら、二人はどちらからともなく食卓についた。
美味しいよ、とか、明日は何時に出ようか、とか。言葉を交わせばその都度、互いに視線を向けはするけれど。
「明日夏に合わせる。俺は何時でも構わないから」
微笑んで言う涼の、確かに重なっているはずの視線が何故だが自分と繋がっていないように感じられるのは、果たして明日夏の気のせいだろうか。
昨日までは間違いなくその瞳に宿っていたあの熱量を、今は全く感じ取れない。
不器用なほど真っ直ぐで、明日夏の深い部分を焦がすように向けられていた涼のあの熱の籠った眼差しはもうどこにも存在していなくて。
「涼の作る飯、好きだな」
「ありがとう。明日夏にそう言って貰えると作り甲斐がある」
決して逸らすことなく明日夏へと注がれ続ける涼の視線の温度は今や冷たくも熱くもない。
視線が触れている感触すらも何処か朧げで、幻みたいだった。
明日夏の控えめな笑い声が短く消える食卓。
そのテーブルの脇に佇む青紫色の蕾はまだ、固く、閉じたまま。
***
カーテンの隙間から差し込む日差しは、朝だと言うのに弱々しい。
すぐに雨が降り出しそうとまではいかないが、どんよりとした薄曇りの空模様である。
蛇口を捻り、涼は水を止めた。
水を替えた一輪挿しをテーブルに戻したところで、ちょうど明日夏の寝室の扉が開く。
着替えを済ませた明日夏が、手首の時計の位置を調節しながらリビングに出てきた。
「この気温だと、ジャケットを羽織るかどうか悩むな」
そう爽やかに微笑む明日夏の、腕時計と重ね付けされた細いチェーンのブレスレットが光を散らす。
品があって、でも何処か艶かしい香りを内包したような、視線を誘うゴールド。
「ああ、これか?」
涼の視線に気づいた明日夏が、先日伶麗から贈られた物だと説明してくれて。
「もう29だし、誕生日って浮かれる歳でもないんだけどな」
おどけた風に言った明日夏の表情はそれでもどことなく喜ばしげに見えて、涼は無意識に僅か、目を眇めた。
けれど自分の表情の変化にも細やかな感情の揺らぎにも一切自覚のない涼は、まるで決められた台本を遂行するかの如く、明日夏の前に歩み出ると柔らかに笑みを結ぶ。
「ベストとかは?明日夏なら似合うと思うが」
撫でるように明日夏の頬に触れた手と、ブレスレットの存在を消すみたいに明日夏の手首に重ねた手と。
どれが自分の意思で、欲求か、そしてどれがヒモとしての行為で、義務感か。
何の分別もないままに、涼の口はごちゃまぜのまま言葉を紡ぐ。
「なんなら着替えも手伝ってやる。それともいっそこのまま、ケーキよりも甘くて楽しいこと、する?」
囁いて寄せてみた唇は、けれどやはり、明日夏に触れる前に優しく拒まれて制止される。
「いいよ、この格好のままで。こういうシンプルな格好もなかなか悪くないだろう?」
そうしてはぐらかす様に微笑んで言われてしまえば、涼にはもうそれ以上、明日夏に近付くことは出来なかった。
リビングのテーブルの前で一度立ち止まった明日夏の視線を、ただ遠い景色のように視界に映す。
「咲かないな、リンドウ」
「…?」
独り言のように零した明日夏の言葉を、涼はやっぱりどこか別の世界の出来事みたいに聞き流した。