需要は何処に?
薄暗い照明も、充満するアルコールと香水の匂いも、涼は嫌いではなかった。
外の世界と隔離された空間なら自分みたいに中途半端な人間でも赦されている気がして、心が楽だった。
「また会えて嬉しいわ、涼」
「伶麗。今夜はまた一段と魅惑的なドレスだな。目の遣り場に迷う」
カウンターで飲んでいた涼の元にやって来たその女、宇美伶麗が纏っているのは、ダークピンクで深いスリットの入った色っぽい衣装だ。
基本的に涼が相手をしてきたのは皆、もっと年上の噎せ返る色香を放つ女ばかりだったが、伶麗みたいな年下の女も目の保養としては十分に涼の守備範囲内である。
とはいえ、涼が自ら相手を選ぶことはない。
涼はいつも選ばれる側の、もとい、ふらふらと歩いていたり一人で飲んでいるところを拾われる専門である。本人は特に意図したわけではないが。
「明日夏はまだ来てないのね。仕事が長引いているのかしら」
伶麗の口からその名前を聞いただけで、涼の指先はピクリと反射的に小さく跳ねた。
前回は明日夏と一緒に入店して伶麗も交えて飲んだわけだから当然、明日夏と伶麗がそれなりに見知った中であることはその時に既に分かっていたことではある。
けれど、実際にはどういう関係なのかまで、その日は聞くことは出来なかった。
今なら色々と聞き出せるチャンスかもしれない。もしかしたら、まだ涼の知らない明日夏の一面も聞くことができるかも。
「あのさ、伶麗。明日夏のことなんだが」
そう意気込んで、涼は口を開いた。
けれどいざ口にしてみると、自分が何を知りたいと思っているのかわからず、涼は言葉に詰まってしまう。
「明日夏のこと、知りたいの?いいわよ。何でも聞いて」
察しのいい伶麗が快く了承してくれて、ますます口ごもってしまう涼。
今まで他人というものにも、自分というものにも、さしたる興味を抱かないままに生きてきた涼にとって、何でもと言われても何を聞けば相手のことが分かるのかがわからない。
いや、しかし、そんな情けないことを説明するわけにもいかない涼は、悩んだ挙句。
「き、嫌いな食べ物とか…あるか?」
そんな当たり障りのない質問をしてしまった。
「うーん、明日夏はそんなに好き嫌いしない方だと思うけれど」
律儀に考えてくれている伶麗には申し訳ないが、別にそれほど知りたい情報でもないんだと心の中で思う涼。
夕食を任せられている立場上、嫌いな物くらいは聞こうと思えば自分で直接聞ける。ああ、何をしているんだ、俺は。
そんな涼の自分への駄目出しなど知る由もない伶麗は、顎に指を当てたまま、そうね、と言って答えてくれた。
「敢えて言うなら甘過ぎるのは苦手なんじゃないかしら。珈琲もいつもブラックだもの」
「ああ、そう言えばそう…だ、な」
そこまで答えてから涼は、はたと気付く。
ここは夜の店、珈琲なんてメニューにはないはずなのに。どうして伶麗はそんなことを知っているのだろうか。
しかも涼の聞き間違いでなければ伶麗は今、いつも、と。
「れ…」
「それじゃ、今度は私から質問してもいい?」
「え?」
聞き返そうとした涼を圧倒するくらいの前のめりな勢いで、伶麗が涼を見つめてくる。
キラキラとうずうずを混ぜて沸騰させたみたいな熱視線を至近距離から浴びせられれば、涼は、どうぞ、と答えるほかなかった。
「明日夏に聞いてもどうせすぐはぐらかすから、涼が一人の時に聞こうってずっと狙ってたの」
「えっと、…それで?」
言いながらもやや気圧されて涼が上体を後ろに逸らしたら、カウンターの上を滑った腕がグラスを掠めてカラン、と氷が涼しげな音を奏でる。
揺れる光源の明かりが伶麗の煌びやかなドレスのスパンコールを七色に輝かせて、涼は眩しさに目を細く絞った。
涼の顔を覗き込み、伶麗がやや声を抑えて言う。
「ベッドの中の明日夏ってどんな感じなの?やっぱり、凄い?」
真顔で問いかけてくる伶麗の顔を眺めたまま、涼は危うく椅子から転がり落ちるところだった。
すんでのところでグッと踏み止まれる程度には、明日夏に負けず劣らずの自分の長い足に感謝したい気分だ。
「え…、え?」
「ほら。一晩だけの付き合いで手を出された子なら従業員にも常連客にも沢山いるけれど、誰に聞いても詳細は教えてくれないのよ。みんな、凄かった、とか、新しい世界が開けた、とか曖昧なこと言うだけで」
「み、んな…って」
目を見開いて呆然とする涼の視線をぐるっと誘導して、伶麗が店内にいる人間を順番に指し示す。
まさに老若男女問わず、といった感じで、それなりに守備範囲の広い涼がちょっと引くくらいには明日夏の守備範囲は広大なようだ。
チリ…火傷の痕が疼くみたいに胸の奥がヒリヒリする。
何故だろう。明日夏がそれなりに遊んでいそうなことくらい、初対面の時から既に分かっていたことだというのに。
「涼とはもう半月以上も経つでしょ?きっともっと凄いこと経験してるんじゃないかと思って。それに」
言いながら、伶麗が妖しげな手つきで膝に置いていた涼の手を取る。
するりと滑らかな女の肌で手の甲を撫でられても、今の涼の心は何処か別の場所をぼんやりと浮遊している感覚だった。
「涼なら優しいから絶対、他の人みたいにはぐらかしたりしないわよね?」
「…」
艶然と微笑する伶麗の顔に、明日夏の顔が重なって見える。
時折見せる妖艶さを秘めた表情の、けれどすぐに冗談めかした笑顔で掻き消してしまうあの刹那の、挑発的な色気を孕んだ瞳。
黒曜石と同じ色をした、闇を溶かした漆黒の眼差し。
「何をしているのかな。伶麗」
伶麗に捕まえられていた涼の手がピク、と反応した。
耳に馴染んだ声。そして、見慣れたその長い指が、涼の手と伶麗の手をそっと引き剥がす。
「あら、明日夏。今夜は遅かったわね」
「仕事が長引いてね。労ってくれる?」
「いいわよ。いつものでいいかしら」
座っていた席を明日夏に譲ると、伶麗は慣れた手つきで明日夏のジャケットを脱がせ、去っていった。
「伶麗と何話してたんだ?」
「…別に。他愛もない世間話だ」
素っ気なく答え、酒を煽る涼。
半分以上残っていたそれを、涼は一息に飲み干した。
味なんて良く分からない。ただ、無性に喉が渇いて仕方がない。
「どうしたんだよ、涼。伶麗に何か言われたのか?」
心配そうに伸ばされた明日夏の手を思いっきり払いのけ、涼は酒で据わった目で明日夏を睨んだ。
店に来て早々に、伶麗、伶麗、伶麗と。あんたを待っていたのは俺だ、と喉まで出かかった言葉を水と一緒に飲み込む。
イライラしながら飲む酒なんてろくなことにならないことくらい理解はしている。
だから涼は、理性的に、理性的に、と心の中で呪文のように唱えながら、残った水も飲み干した。
「注文入れて来たわ。それと、はい」
戻って来た伶麗がしなだれるようにして明日夏の肩に手を置き、何かを差し出す。
女の手に乗るくらいの小さな、けれどそれなりに高級そうな包装の施された、見るからに贈り物といった何か。
「私、明日も明後日も仕事で会えないから先に渡しとくわね」
「ありがとう。伶麗が一番乗りだな」
「ふふ。大切にしてね」
「勿論」
仲睦まじく微笑み合う二人の会話に割って入るほど無粋ではないが、それを目の当たりにして苛立たないかといえばそういうものでもなく。
「っ、先に帰る」
自己暗示も虚しく完全に感情が先走ってしまった涼は、そう言って席を立った。
驚いた顔で咄嗟に腕を掴もうとした明日夏の手を再び物凄い剣幕で振り払ってから、ずんずんと出口へ向かう涼。
パタリと閉まった扉を眺めて、明日夏は訝しむように目を眇めた。
「伶麗、涼に一体何を言ったんだ?」
「うーん。そんなに困らせる様な事は言ってないと思うのだけれど、照れちゃったのかしら」
***
明日夏のマンションに帰宅した涼は、買ってあったワインのフルボトルを一人で空けていた。
飲み足りなかった気がしていたが、2本飲み終わってみても、結局苛だたしい気分は変わらなかった。
「…」
さて何時か、とテーブルに置かれた時計に目をやれば、まだ帰宅してから大して時間は経過していなくて。
ガランと広いリビングダイニングには、今座っているリビングテーブルの他にはソファとローテーブルとテレビくらいしか見当たらなかった。
思えば初めてこの部屋に来た時から、ここはあまり生活の匂いのしない、寂しげな空間だった。
涼が今まで生活してきたどの女の家ももっと物で溢れていて、涼はその女が好きで集めているそれらのコレクションの一つとしてその家に飾られてきたのだ。
時にはその女のアクセサリーとして連れ歩かれ、時には美術品の一つとして自慢する為に持ち出され、そうして用が済めば捨てられて終わり。
けれどここには明日夏の大切な物なんて殆ど見当たらなくて、明日夏は涼のことを腕時計の様に自慢して持ち歩くこともしなくて、だからもしかしたらここでは自分は初めて、その他沢山のアイテムの一つではない特別な存在になれるのかもしれない、と。
「期待、していたのか。俺は」
ぼやいて、涼はテーブルに額を打ち付けた。
とんだお笑い種だろう。金で買われただけだというのに。自分は。
「一夜限りの相手とならあいつは、男とでも寝るんだな」
言葉にしたらまたムカムカと不愉快な気分が込み上げてきた。
なら俺は、その程度の相手としてすら見られていないということだ。
別に明日夏と寝たいという意味ではない。
ただ、自分が明日夏にとってどれくらいの価値があるのか、それを図る術が涼には他に思い当たらないというだけだ。
「ただいま、涼。なんだ、家で飲み直してたのか」
リビングの扉を開け、いつもの甘やかな笑顔で明日夏が入ってきた。
「涼は酒の飲み方を少し覚えた方がいいな。ほら、目が据わってる」
「…」
伸びてきた明日夏の手が、涼の頬に触れる直前で一度、止まる。
機嫌を確かめるように一呼吸置き、涼が動かないのを確認してから、明日夏はさわっと涼の頬を軽く撫でた。
その明日夏の長い指はあの店で、こんな風に伶麗の頬も撫でてきたのだろうか。
明日夏の手首からふわりと舞った彼女の華やかな香水の香りに、涼は唇を噛んで明日夏を睨み上げた。
「明日夏は俺にして欲しい事は無いのか」
「して欲しい事?料理とか掃除は全部お願いしてるだろう?凄く助かってるよ」
どこか喧嘩腰の涼の言葉にも、明日夏は穏やかな口調でさらりと返してくる。
それがまたかわされているみたいな気がして、涼は余計に腹立たしく感じた。
椅子から立ち上がり、明日夏の正面に立つ。
真っ直ぐに立てばほんの僅か、涼の視線の方が高い位置にあった。
「涼、何処かにぶつけた?ここ、赤くなってる」
そう可笑しそうに笑って明日夏に触れられたのは涼が先程自分でテーブルに叩きつけた額。
外から帰ったばかりの明日夏の手はひんやりと心地よい冷たさだったけれど、続く言葉は涼にとって非常に面白く無い内容だった。
「折角の綺麗な顔なのに、もっと大事にしないと。涼ってこういうとこ意外と頓着ないよな」
よしよしと小さい子供をあやすみたいに笑いながら涼の額を撫でる明日夏。
けれど、涼の心に引っかかったのはそんな明日夏のちょっとした戯れよりも、綺麗な顔といったその言葉の方で。
「明日夏は俺の顔、好きなのか?」
「ん?そうだな。涼はとびきり美人だし、この顔は俺の好みだよ」
涼の問いに、明日夏はあっさりとそう答えた。
その瞬間、心の中で蟠っていた思いの一つが、ストン、と収まるべき場所に嵌まった感触に、涼は自分の肩の力が抜けていくのを他人事のように味わった。
涼は本当に綺麗な顔ね、私好みだわ。今までに涼を捨ててきた多くの女どもも、涼に同じことを言っていた。
ああ、なんだ。明日夏も同じなのか。そう思えば、自然と、もしかしたらここへ来て初めてかもしれないくらい簡単に、涼は極上の笑顔をその綺麗な顔に浮かべた。
「あんた好みの顔で光栄だ」
「…涼?」
「俺もあんたの顔、気に入ってる。だからもっと近くで見せて」
囁くように言って、涼は明日夏の顎に手をかけた。
明日夏の黒い瞳が少し困惑したみたいに揺らいで、その濡れた表面に映る自分の顔は、今までに何人もの女たちの瞳に映ってきたのと同じ薄っぺらい笑顔をしていて。
不思議と今は明日夏のその漆黒の瞳を見つめても、涼の心臓は凪いだ海よりも静かで、どこまでも穏やかなままだった。