新しい飼い主
煌びやかなネオンの明かり、噎せ返る香水の匂い、喧しい耳障りな人々の笑い声。
目の前にあるそれらが全て遠い幻に感じられるくらいには、その男、帆純涼は泥酔していた。
「っと、何処見て歩いてんだっ!気ぃつけろッ」
ぶつけられた肩の鈍い痛みと、背中に投げつけられた怒声。
それさえも他人事の様で、涼はただただ、行くアテもなくふらつく足を前へと出す。
単身赴任先から夫が急遽帰ってくることになったの。とあっさり家から追い出されたのは今から三時間程前の話。
女に貢がれた時計やら指輪やらを質に入れれば当面の金には困らなかったが、高い酒をいくら煽っても心を占める虚しさは一向に拭えなかった。
「結局いつもと同じじゃないかよ」
毒づいて、誰にともなく舌打ちをする。
彼女のことを本当に愛していたのかと問われれば、別にそんなことはない。
今まで転々としてきた女どもと同じに、暫く経てば顔も名前も忘れてしまうだろう。
それでも、人恋しさを埋めてくれる程度には彼女の体温を求めたことは事実だった。
彼女も自分のことをそれなりに気に入ってくれているのだと、今度こそはと、思っていたのに。
幾度経験しても慣れることのない、捨てられた後のこの例えようのない虚無感。
ああ、やっぱりあの場所でも自分の価値なんてその程度だったのかと、この時ばかりは素直に思い知る他ない。
ひらり。
涼の目の前で、真っ赤な蝶が闇に舞う。
血に濡れた薔薇の花弁の如き深紅の羽根。
いや、違う。それは一人の、華やかな、けれど何処か謎めいた魅惑的な笑みを湛えた、赤いドレスを纏った極上の女だった。
「あ、待て…ッ」
手を伸ばしたのも声をあげたのも無意識だった。
いい女なんて腐る程抱いてきたはずなのに、何故か、焦燥感に駆り立てられ涼は走り出した。
こんな歓楽街のど真ん中で、軽やかにドレスの裾を翻してビルの一角に消えて行った赤い影。
それが客引きなのは勿論わかっていて、しかも普段ならばそんな商売女に目を奪われることなんて有り得ないはずなのに、その時はどうしてか無性に、追わずにはいられなかった。
「ようこそ、ミラーナイトへ」
出迎えられたフロア係の言葉に、涼は入り口で一度足を止めた。
勢いよく飛び込んだそこは薄暗い照明と、そしてゆったりと耳当たりの良い曲に満たされた落ち着いた空間だった。
分厚い扉を閉めれば外の喧騒も届かず、金持ちそうな淑女達が魅惑的なドレスでグラスを傾け優雅に談笑している。
彼女達が若く見栄えの良い男達を連れていることから察するに、大人の夜の社交場といったところか。
パトロンであった嘗ての女達と似た様な場所へ赴いたことのある涼にとって、それは特段驚くべくもない光景であった。
それよりも今は。
「ウサギを追いかけて迷い込んでしまったのかな?可愛いアリス君」
チラチラと忙しなく視線を彷徨わせていた涼は、カウンターの脇を通り過ぎるところでそう声をかけられた。
振り返るとカウンターで椅子に腰掛けていた男がこちらを見上げ、ニコリ、と気の良い笑顔を向けてくる。
「一人なら俺と一緒に飲まないか?君みたいな美人なら男でも大歓迎だ」
背の高い椅子に腰掛けて尚余りあるその長い足と、放っておいても女の方から寄って来そうな甘く優しげな顔つき。
長めの前髪の隙間から覗く濃い漆黒の瞳がとても印象的な、ホストでもやっていそうな男だった。
純粋に身長だけならば恐らく涼の方が高いだろうか。
ただ、涼は男としてはかなり細身で筋肉のつき難い体型であるので、並んで立ったら見た目の印象としてはほぼ同程度の身丈に見えるかもしれないけれど。
「悪いが、俺は男には興味ないんだ。失礼する」
言って涼は前に向き直った。
一歩、足を進める。
けれど残念ながら、それより先に捕まえられていた男の手に腕を引っ張られて、涼はぐらりと後方に傾いた。
よろめいた涼の腰を後ろから抱き寄せ、男は流れる様に自分の片膝に涼を座らせた。
「ちょ…、何の真似だ。あんた」
「見た目通り軽いな」
事も無げに笑って言った男の腕は、その優しそうな見た目に反し、涼の抵抗を物ともせず易々とその細い首にかけられていたネクタイを解いていく。
「おいっ、あんた何をッ!?」
流石にギョッとして涼が声を荒げたところで、男は堪え切れないとでもいう風にクスクスと笑い出した。
解放された腕を払い除け、涼が男の膝から飛び退く。
まだ笑い続けている男を涼が睨みつけると、男は解き取った涼のネクタイを片手で顔の横に掲げて見せた。
「そんなに隙だらけでよく今まで無事だったな。いくら酒に酔っているからってこうも簡単に捕まるなんて、さ」
言いながら持ち上げた涼のネクタイに挑発的に唇を寄せ、艶美に笑みを結ぶ男。
揶揄われたのだということはすぐに理解したのに、涼は何故か、その男の、自分を真っ直ぐに捉えて放さないその闇を湛えた瞳から目が離せなかった。
動悸がする。
どんな女を抱いても、浴びるほど酒を飲んでも動じることのなかった心臓が今、高鳴っている。
しかも、こんな男の視線一つで。
「顔もほら、真っ赤だ」
「ッ!」
男の言葉に、涼は咄嗟に腕で顔を覆った。
心を見透かされたのかと思った。
けれど、男は。
「ここ来るまでに一人でどんだけ飲んで来たんだか。ほら、水」
そう言って、いつの間に頼んだのか、まだ氷の溶けていない入れたばかりの水の入ったグラスを涼に差し出してきた。
促されるままに涼が口をつけると、男は満足そうに笑って涼にネクタイを投げて返した。
「新しい飼い主を探してるなら、紹介してやろうか」
半分ほど飲み終えた水のグラスをカウンターに置き、取り戻したネクタイを結び直している涼に男が問う。
「大方、パトロンに捨てられて行くあてもなくヤケ酒ってところだろう。違うか?」
「…、何の話だ?」
ピクッ、と目尻を引き攣らせ、低めた声で短く返す涼に、男は先程までと変わらぬ軽い口調で笑って言った。
「そう警戒するなよ。俺、別にヒモに偏見とかはないから」
「…」
「それとも、何で分かったって顔かな?それは」
カウンターに頬杖をついた男が含むように笑む。
さらりと流れた前髪の後ろに隠れても尚、男のその強い黒の眼差しは涼の視線を捕まえて逃がそうとしない。
冷たい水で落ち着けたはずの心臓がまた、トクトクと緩やかに鼓動の速度を上げていく。
涼が何も返答出来ないでいると、男はクス…、と艶めいた吐息で小さく笑ってから、瞬きの消えた涼の顔から腕へと撫でるように視線を移動させた。
「その若さでそんな上質なオーダーメイドの服を着てるにも関わらず、時計やアクセサリーは一切無し。おまけに首筋には女物の香水の残り香を纏ってこんな時間まで独りで飲み歩いてるとなれば、ま、普通のサラリーマンじゃないことくらい誰でも分かるさ。ね、ホズミリョウ君」
言い、男がトン、と締め直した涼のネクタイを小突く。
「ネームの刺繍入りじゃ、確かに質には入れられないよな」
「あんた…」
「ああ、俺の名前まだ言ってなかったっけ。眞世明日夏、明日夏でいいよ」
目を眇めた涼の顎をつつ、と指先で遊ぶ様に撫で上げ、明日夏は空になったグラスを掲げてバーテンを呼んだ。
店内の照明が変わり、遠くに人々の拍手の音が聞こえる。
「お、今夜は伶麗が歌うのか」
ピアノの伴奏が始まったところで、そう言って店の奥に視線を向ける明日夏。
優しげに細めても変わらず印象的な黒曜の瞳が見つめる先には、涼をこの店へと誘った、あの赤いドレスの女が立っていた。
ドレスと同じ、深紅の唇が音を紡ぐ。
ほら 悪い遊び 教えてあげる
つまらない夜を抜け出して 落ちていきましょう 二人で
「涼、座れよ」
囁くように呼ばれた名に、涼は反射的に息を詰めた。
見開いた涼の視界に飛び込んで来たのは、明日夏の真っ直ぐにこちらを見る、漆黒の瞳。
囚われた視線はまるで底なしの穴を覗き込んでいるみたいな、平衡感覚すらもが狂い出し、気づいた時にはもう引きずり込まれているような、そんな錯覚を呼び起こして。
それは決して逃れられない、深い深い闇のような黒。
ねぇ 罠にかかったのは 誰?
赤いドレスの女が問いかける。
「涼」
「…っ」
二度目の囁きは、短く、鋭く、涼の心臓の最奥に寸分の狂いなく突き刺さった。
ラビリンス 抜けたらきっと 甘い甘い 地獄が待ってるわ
押し寄せる音の波。
ピアノの音色と、女の声と、自分の高鳴る心臓の音。
ゴクリ、唾液を飲み込んで、涼は薄く唇を噛んだ。
抗えない。
そう観念したのは果たして椅子に座ることか、それとも。
***
昼下がりの公園のベンチに腰掛けて、涼はスマホを取り出した。
カバーも何もない真新しいそれは、先日、明日夏に買い与えられたばかりのものだ。
SNSのアプリを起動してメッセージを確認してみたが、まだ既読の文字は付いていなかった。
送信相手は勿論、このスマホを涼にもたせている張本人。そもそもそれ以外の人間の連絡先などこのスマホには登録されていない。
「魚ならこの時期だとやっぱ秋刀魚だな。脂が乗ってて旨そうだったし」
ボソッと独り言の様に呟いて、先ほどコンビニで買ってきたサンドイッチをかじる。
乾いたパンを無表情にもそもそ咀嚼しながら、涼はぼんやりと流れる白い雲を仰いだ。
ミラーナイトという名のあの店で真っ赤なドレスの女の歌を聴き終えた後、新しい飼い主を紹介してやるという明日夏の言葉に誘われるまま涼は店を出た。
連れて行かれた先は都内の一等地に聳え立つ高級マンションの上層階。
上がれよ、と促されて足を踏み入れた広い室内に女の姿などなかった。
困惑の表情を浮かべる涼に、明日夏がジャケットを脱ぎながら笑って言う。
「な。マンションは駅直結だし、便利な立地だろう」
「は、いや、それはさっきも聞いた、が…」
年齢は涼より二つ上の28歳、高給取りだが勤め先は秘密で、顔は間違いなく涼の好みだよ。とは、道すがらにこれから引き合わせるパトロンの情報を語ってくれた明日夏の台詞だ。
パサ、と高価そうなジャケットを無造作にリビングの椅子に投げ、シャツの首元を寛げながら明日夏が振り返る。
そうしてリビングの入り口で立ち止まったままの涼を満足げに一頻り眺め倒してから、明日夏は悪戯っぽく口角を上げて笑った。
「そんなに戸惑ってくれると、苛め甲斐があり過ぎてちょっと困るな」
柔らかく、けれど射竦めるように涼を縛る、明日夏の眼差し。
思わず息を詰めて固まった涼の背中を優しく壁に押し付けて、明日夏はその漆黒の瞳に至近距離の涼を捉えた。
逃げ場のない壁に追い詰められた涼を煽るように、明日夏の長い指が涼の首筋から頬へと這い上がっていく。
涼は眉間をキュッと寄せ、緊張で震えそうな呼吸を必死に抑える。
「っ…あんたが、俺を飼おうって言うのか?」
涼の口が何とかそれだけ言葉にした時にはもう、明日夏の唇は触れそうな程近くに迫っていた。
キス、されるんだと思った。
浅く息を吸って招くように唇を薄く開いたのは、完全に無意識だった。
けれど。
「部屋余ってるんだ。涼は掃除とか、得意?」
「…え?」
明日夏は黒い瞳を穏やかに細めると、そう言ってさらりと涼から体を離した。
その晩から、涼は新たな住処を手に入れた。
あれから二週間。
掃除と洗濯、それから夕食の支度が、涼の今の日課である。
「あ、返事だ」
スマホのバイブ音に、涼は空に向けていた視線を手元に移動させた。
魚がいい。出来れば秋刀魚で。という明日夏からの返信に涼の心音がトクン、と一度、小さく乱れる。
まるで一緒の事を考えていたみたいで、何だろう、凄く、特別な事のように涼には思えた。
「了解、と」
短い返信をして、涼はベンチから腰を上げた。
ほんのり熱くなった涼の頬に、爽やかな秋の風がひんやりと心地よく吹き抜けていく。
***
「あ、いい匂い」
リビングの扉を開けて入ってきた明日夏の嬉しそうな声を聞いて、涼はよし、と心の中で小さく拳を握った。
ちょうど全ての皿をテーブルに並べ終えた完璧なタイミング。
ヒモとしてのプライド、というとあまり格好がつかないが、家事を任されている身としては、家人の帰宅の頃合いを見計らってきちんと温かい食事を提供できる事は重要だと思っている。
「おかえり、明日夏」
「ただいま」
ネクタイを解いて椅子を引きながら、明日夏がふと目を留めた先。
青紫色の筒状の花が一本、テーブルの脇に置かれた一輪挿しを飾っていた。
「リンドウ?」
疑問符をつけて確認する明日夏に涼がコクリと頷きを返す。
「花は嫌いだったか?」
「いや、好きだよ。うん、とても綺麗だ」
少し不安げに聞いてきた涼にニッコリとそう返してから、ふふ、と含む様に笑う明日夏。
涼が不思議そうに首を傾げると、明日夏は、ああ、ごめん。と口元に手を当て、それでもまだ笑ったまま、言葉を続けた。
「今まで女性に花を贈ることは普通にしてたけど、自宅に花を飾るって発想はなかったなと思ってさ」
刹那、胸の奥にヒリついた僅かな痛みに涼の表情が少しだけ翳って。
「花を貰うのも案外悪くないな。ありがとう、涼」
そんなありふれた感謝の言葉に今度はドキリと心臓が高鳴って、涼は自分に驚いて目を見開いた。
「食べようか」
「あ、ああ」
促され、とりあえず箸に手を伸ばす涼。
相手に何かをしてあげて喜ばせるのも、何かをして貰ってお礼を伝えるのも、涼が今までずっと数多の女性に対してしてきたことだというのに。
ここまで勝手が違うのは、単純に相手が同性だから、なのだろうか。
細い箸の先端で器用に秋刀魚の身を解していた明日夏が不意に顔を上げ、目が合う。
思わず視線を止めた涼に、明日夏はその印象的な瞳に鋭い光を隠して問いかけた。
「どうした?」
「え?」
「涼、さっきからずっと俺のこと見てるだろ?」
「ッ!」
瞬間、涼の手から見事に滑り落ちた箸。
テーブルを叩き、涼の腿を跳ねて、フローリングの床に転がって漸く、それは静止した。
見開かれたままの涼の瞳が動揺に揺れる。
明日夏は吹き出して笑いながら、椅子を引いて立ち上がった。
「あ、いい!自分で拾うからッ」
ハッとして立ち上がろうとした涼の体は、しかしそのまま椅子にやんわりと押し戻されて。
「涼、俺の顔に何かついてる?」
片手で頬を、反対の手で膝を押さえるように体を固定されれば、涼はただただ明日夏を見上げるしかできない。
触れられた場所が涼の意思とは関係なく熱を持ち始める。
「なぁ、涼?」
「っやめ…ッ」
膝から足の付け根へと、まるで焦らすように滑ってくる明日夏の手に責め立てられ、涼はビクッと大袈裟に肩を揺らした。
反射的に涼が目を閉じた、直後。
ちょこん。と、涼の鼻先に何かが触れた。
「ほら、足に付いてた。これ」
笑いまじりに言われた言葉で薄く目を開ける涼。
焦点の合わない鼻先に目を凝らすと、明日夏が置いたと思しき米の一粒が涼の鼻頭に乗っかっていた。
「涼って結構抜けてるとこあるよな」
言って笑いながら、明日夏が拾った箸を流しに置く。
「よくぼんやりしてるし。ああ、でも、料理や掃除は俺より断然上手いけど」
代わりに新しく取ってきた箸を、明日夏はそう言って涼に差し出した。
睨み上げつつも素直に箸を受け取る涼を愛おしく見つめ、明日夏は優しく瞳を細めた。
「そんな涼の手料理が毎日食えるなんて本当、幸せだな。俺って」
米粒の排除されたその涼の高い鼻先を指先で撫でるように擽って、自分の席に戻っていく明日夏。
またもや真っ赤に染まった涼の顔には敢えて何も言わず、明日夏は楽しそうに食事を再開した。
ドクドクと騒がしい胸元を服の上から鷲掴み、涼が悔しげに俯けた顔を顰める。
明日夏のその甘い女受けする顔と気配り上手な大人の一面は確かに偽りではないけれど、その裏には、悪戯好きの子供みたいな、ちょっと傍迷惑な性格を隠し持っていることを涼は最近理解してきた。
そしてそんな明日夏に、自分が完全に遊ばれているということも。
「涼、まだ何かあ…」
「何もないし見てもいない」
明日夏の台詞を遮り、涼はぶっきら棒に言って秋刀魚の身を口に放り込んだ。
くすくすと可笑しそうに笑う明日夏の声が響く食卓。
まだ固い蕾のリンドウも、思わず綻んでしまいそうな秋の夜のひと時。