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紙使い

紙士養成学校の日常2~紙士の家庭事情編~

作者: 工藤 湧

 短編「紙士養成学校の日常」シリーズの第二弾です。女性四人の会話が中心となりますが、今回は校外が舞台です。シリアスシーンは殆どありませんが、その代わり笑える(?)シーン多々あり! 勿論登場人物は真剣に話してはいますけど。

 藍沢の長女・翠が、自身が育った紙士の家庭を嫌がる理由は何なのか。そしてその話を聞き終えた凰香達の反応は……。どうぞご覧ください。

「どう? 似合っている?」

 試着室のカーテンが開かれ、水色のパンタロンを穿いた渡辺昌子わたなべまさこが姿を現した。

「うわあ、似合ってる似合ってる!」

 試着室の前で待っていた砂川凰香が小さく手を叩いた。

「やっぱり昌子ちゃんは足長いから、パンタロン似合うねー」

 凰香の隣にいた土井明美どいあけみも、惚れ惚れしたようにその姿を見詰めた。

 吉華二十四年五月二十二日、日曜日。州都市しゅうとし大町区おおまちくにある百貨店三階の婦人服売場。凰香は親友である土井と渡辺と共に、州都市一の繁華街にあるこの百貨店を訪れていた。昨日の野外実習で杉内から授与された「優勝賞金」を手に、三人揃って夏物衣料を買いに来たのだ。

 この百貨店、和州では誰もが知る老舗店で、富裕層向けの高級衣料品は勿論、若者向け最先端ファッションの品揃えもいい。そんな店での久し振りの買い物に三人はもう心うきうき、目一杯お洒落をした。とっておきの服を着てハイヒールも履き、化粧も念入りにして。

 午前十時の開店一番でやって来て、まずは凰香が薄桃色のブラウスを、次いで土井が黄色いサマーセーターを購入。ここで最上階にある大食堂で昼食をとり、午後から渡辺が自分の服を購入する番となった。だが渡辺は売場に来ても、まだ何を買おうか迷っていた。そこで昼食時、凰香はこう提案した。

「昌子ちゃん、スタイルはいいし足は細くて長いから、絶対ミニスカートがいいよ。ミニスカートにしなよ」

 ところが当の渡辺は、

「ミニスカートね……。いや、私はいいよ。アハハ……」

 と、尻込みし、友人が推した今大流行のファッションを「却下」したのである。

 凰香も土井もこの反応に些かがっかりした。何せ紙士養成学校の講義や実習、特に実習ではスカートを穿く機会がまずない。漉士クラスは男子学生が圧倒的に多く、その視線が気になることもある。しかしそれ以上に実習では素早い動きが必要とされるからだ。動き回る妖魔に狙いを定めてロックオンし、紙漉きする。動きが制限される服装は明らかに不向きであり、彼女らは常にジーンズにスニーカーという格好をしていた。お洒落をしたくても、実用性をとるしかないのだ。

 その様なわけで、今日は凰香も土井もミニではないものの、ここぞとばかりに華やかで可愛らしいスカートを穿いてきた。一方渡辺は少し地味目のパンツ。実のところ中学・高校と陸上部に所属し、快活だった渡辺はスカートがあまり好きではない。学生服のスカートでさえ煩わしいと感じていたくらいだ。学生服を着る必要が無くなった今、休日でも渡辺はズボンばかり。凰香がミニスカートを薦めたのも、彼女のスカート姿を是非見てみたいと思った故だった。

 そんな渡辺が今日チョイスしたのは、夏空の色を写したようなパンタロンだった。シンプルで涼しげなデザインが気に入り、早速手にとって試着室に入ったという次第。

「そっか。じゃあこれにしようかな」

 親友のお墨付きをもらったところで渡辺は納得し、着替えてレジへ向かった。

 こうして全員の買い物が終わったところで、凰香が二人に言った。

「後でいいから、地下の食品売場に寄ってもいい?」

「別にかまわないけど、何で?」

 土井が尋ねると、凰香はにこっと笑った。

涼美すずみちゃんにお土産買っていくから」

 涼美とは凰香のルームメイトである馬渕まぶち涼美のことだった。土井と渡辺は寮でも同室であったが、凰香はこの染士クラスの女子学生と同室だったのである。

「馬渕さん、今日一緒に来ればよかったのに。凰香ちゃん、誘ったの?」

「うん、昨夜涼美ちゃんが帰った時にね。でもそれどころじゃなかったみたい、疲れちゃって。『ごめんね、行けない』って言ってすぐ寝ちゃった。昨日の夜も帰ってきたの遅かったし」

「ああ、そう言えば馬渕さん、土曜の午後にバイト入っていたよね。駅前の焼鳥屋さんだっけ?」

 渡辺の問いに凰香は頷いた。

「そうなの。週一だけど、結構大変みたい。土曜の夜はお客さん多いから、大忙しだって。私が寮を出る時もまだ寝ていたし」

 凰香はルームメイトの苦労を身近で感じていた。紙士養成学校は国立の専門学校で学費は高額ではなかったが、生活費を含めると二年間の学生生活にかかる費用は馬鹿にならない。土井と渡辺は両親が、凰香は鳳太の分も含めて祖母がこれらの費用を負担してくれている。何の心配もなく学生生活を送っているのだ。

 しかし、馬渕の実家は裕福ではなかった。少しでも実家の負担を減らそうと、馬渕はアルバイトをしているのだ。だが紙士養成学校は、月曜日から金曜日の午前八時四十五分から午後六時まで、土曜日は午前中一杯講義及び実習がびっちり詰まっている。アルバイトが可能なのは土曜日の午後と日曜日くらいなものだが、日曜日は殆ど出来ないのが現状だ。疲れを持ち越したまま月曜日を迎えると、講義や実習に身が入らない。「校外活動は学業に支障がない範囲で行うこと」と学校側から「お達し」が出ており、日曜日にアルバイトを行う学生は皆無だった。

 馬渕は土曜の午前の講義が終わって昼食を済ませると、直ぐにアルバイト先である桐生が丘駅前の焼鳥屋へ出かけてしまう。開店は午後五時だが、料理の仕込みの手伝いや店内の清掃などやることは山ほどあるのだ。そして店が開けば客から注文を取ったり、料理や飲み物を席まで運んだりと目が回るほどの忙しさ。深夜零時の閉店後も後片付けがあるため、いつも寮へ戻ってくるのは深夜一時近かった。そして自室に着いた途端、布団に倒れ込むようにして寝てしまう。

 ルームメイトは夜遅くのアルバイトで疲れて寝込んでいるのに、自分はめかし込んで友人と買い物。凰香は申し訳ない気持ちで一杯だった。だからこそせめてお土産に美味しいお菓子でも……と、思ったのだ。

 凰香はエスカレーター横の壁に掛かっている時計を見た。時刻は午後一時半だ。

「涼美ちゃん、もう起きているわね。ちょっと寮に電話してみてもいい? 何が食べたいか、訊いてみるから」

「オッケー。ところで公衆電話って、何処にあったっけ?」

 首を傾げる渡辺に、すかさず土井が答えた。

「階段の近くにあったはずよ。階段近くの通路、袋小路の所」

「ああ、あっちね」

 三人は売場から離れ、階段の方へ向かった。建物の隅、公衆電話が設置してある袋小路の通路へ入った途端ーー

「ちょっとあかね、どういう事なの! お父さん、家にいないなんて!」

 若い女性の怒ったような声が、いきなり凰香達の耳へ飛び込んできた。見れば一台しかない赤い公衆電話の受話器を握りしめ、二十歳前後の女性が目を吊り上げて話している。長い髪を後ろで一つに束ね、白いブラウスに藤色のスカートを着て、足には黒いハイヒール。小脇に茶色のハンドバッグを抱えている。スレンダーで優美な体格の持ち主で、顔付きは間違いなく美女の類には入るものだったが、折角の美貌も怒りで台無しだった。

「え、仕事? だって今日は日曜で、学校は休みじゃない。何で仕事になんか行くのよ!」

 受話器の向こうの相手に怒りをぶつけるあまり、女性は凰香達の存在に全く気付いていない。しかしその顔を見て、三人の誰しもが思った。この腹の立てっぷり、何処かで見たことがあると。

「何ですって? 昨日の野外実習で大量の不合格者が出たから、今日再実習ですって? でもどうして日曜日なのよ。再実習、いつもなら次の土曜日にやっていたじゃない。え、急いでやる理由があるって? もう、お父さんったら仕事熱心なんだから」

 女性の会話の内容は、何だか凰香達にとって身に覚えのあるものだった。もしやーーという予感がますます増して行く。

「私はお父さんの顔が見たくて、今日そっちに行こうと思ったのよ。これじゃ意味がないじゃない。それでお父さん、何時頃帰ってくるの? わからないの? もう、いいわよ。お母さんに替わって」

 女性はむっとした表情でしばらく口を閉ざしたが、今度は一変、にこやかに話し出した。

「あ、お母さん、元気? 今日そっちに行こうと思っていたんだけど、お父さんいないんでしょ? 仕方がないから別の日にするわ。本当は昨日行きたかったんだけど、ちょっと都合悪くて。え? どうして急にそっち来たがっているかですって? だってーー」

 女性はにやっと笑った。

「お母さん、前言っていたじゃない。昨日が事実上の結婚記念日だって。今年は銀婚式でしょ? だからお祝いしようと……。え、昨日の夜お父さんが? ちょっとそれ本当? お父さん、今までそんなこと一度もしたことがなかったのに。どうかしたの、花なんて買ってきて」

 凰香達は呆気にとられた。話の内容もさながら、目まぐるしく変わる女性の表情に戸惑いを覚えたのだ。そんな中、土井が二人に耳打ちした。

「ねえ……。藍沢あいざわ先生って私達ぐらいの年頃の娘さん、いなかったっけ?」

「確か噂でそんなこと、聞いたことあるわ……」

 と、渡辺が言ったところで、女性が電話を切った。直後、ふうと一息ついた女性と凰香達三人の目が合う。

「やっぱりそっくりだよね、藍沢先生と……」

「うん……」

 凰香と土井は頷き、渡辺も呆然としている。見れば見るほど彼女らのよく知る人物ーー藍沢隼人はやとに似ていると。顔立ちは勿論、怒った時の表情や目つきもそっくりだった。

 まるで藍沢の講義の時にも似た、奇妙な緊張状態が十秒ほど続いた。偶然とはいえ、人の話を勝手に立ち聞きしてしまったのだ。これはまずいと感じた凰香達は、慌てて背を向けてその場から立ち去ろうとしたがーー

「ちょっとあなた達! 待ちなさい!」

 矢のような鋭い一声が凰香達の背中を貫いた。まるで固まってしまったかのように、足が動かなくなる。

「ご……ご免なさい! 私達、盗み聞きするつもりじゃ……」

 渡辺は振り返り、必死に頭を下げたが、女性はふふふと笑い出した。

「心配しなくてもいいわよ。怒ってなんかいないから。それよりあなた達、もしかして紙士養成学校の学生さん?」

「あ……はい。そうです」

「クラスはどこなの?」

「漉士クラスです」

「まあ、それは丁度よかったわ! 父の教え子ね!」

「ってことはやっぱり……」

「そう。あ、ちょっと待って。今名刺、渡すから」

 そう言って女性はハンドバッグの中から名刺を一枚取り出し、渡辺に渡した。三人が雁首を揃えて覗き込むと、名刺にはこうあった。

『株式会社 小川商事  経理部会計課  藍沢 みどり』 

 ああ、と凰香達は声を漏らした。彼女らの勘は的中したのだ。名刺から目を離し、恐る恐る土井が尋ねた。

「するとあなたは藍沢先生の娘さん……」

「ええ。長女の翠よ。ところであなた達、これから時間はある?」

「ええまあ……。買い物も取り敢えず終わっていますから……」

 凰香が答えるのを聞いて、女性ーー翠は喜んだ。

「それならちょっと付き合って。学校での父のこと、色々聞きたいの。うちの父ったら、職場で何が起こったのか家じゃ殆ど話してくれないのよ。それから昨日の実習で、何が起こったかも。私も今日は実家へ戻る必要はなくなったから、暇だし。ケーキでも御馳走するから」

 教師としての父親のことは前から興味があったと、翠はことの他嬉しそうだったが、凰香達は正直乗り気ではなかった。相手はあの鬼教師の娘である。何か失礼なことでもしたら、どうしようーーそんな重苦しい空気が、凰香達の周りにはまとわりついていたのである。


 翠は凰香達を連れて百貨店を出ると、近くの喫茶店へ入った。そこはこの辺りでは有名な店で、店内には趣味の良い家具が置かれ、落ち着いた雰囲気がある。今日は日曜日なのでその姿はなかったが、平日はビジネスマンが度々商談で利用することで知られている。また、富裕層の買い物客が、ゆっくりお茶を飲んで休むために立ち寄りもするーーそんな所だ。決して学生が気軽に入れるような店ではなく、凰香達も普段は素通りするだけだった。何の躊躇いもなく入店したところから見て、翠は仕事の関係や付き合いで何度か利用したことがあるのだろう。

 四人掛けの円卓席に座り、ショートケーキと紅茶を人数分注文した後、翠はまず自分のことから話し出した。藍沢翠は半月前に二十三歳になったばかり。州都市内の短大を卒業後、大手商社の小川商事に入社して今年で三年目だった。就職を機に実家を離れ、会社近くのアパートを借りて生活しているという。

 先程の家族とのやり取りでこそ感情を剥き出しにしてはいたが、そこは社会人。冷静さを取り戻した今は、ゆったりとした大人の女性といった感じだ。怒った時の顔は父親同様怖いが、笑顔はなかなか魅力的。その一方でお高くとまった所もなく、学生である三人に対しても気さくに振る舞っている。先程までの不安は杞憂で済みそうだーーそれが凰香達の翠に対する印象だった。

 一通り自分の話をすると、翠は知りたがっていたことーー学校での父親のことについて色々尋ねてきた。教師として学生に対し常に厳しい態度を見せ、講義でも実習でもよく雷を落とす……と、聞いても、翠はさして驚いた様子も見せなかった。

「やっぱり…‥ね。あの父のことだから、学校じゃ相当怖がられていると思ったけど」

「藍沢先生、家でも怖いんですか?」

 渡辺の問いかけに、翠は首を横へ振った。

「普段はそうでもないわ。だけど怒った時は怖いわよ。私なんか子供の頃、何度怒られて泣いたことか。でもね」

 翠はくすくす笑い出した。

「母には全然頭が上がらないの。俗に言う『かかあ天下』ね、我が家は。まあ母も表では父を立てるようにはしているけど」

 意外な事実に凰香達は驚いた。あのおっかない藍沢のこと、てっきり亭主関白だと思っていたのだ。その夫を尻に敷く翠の母親は、なかなかのやり手と見える。家の中では押さえつけても外で顔を立てれば、男は悪い気はしない。そうやって翠の母親が上手く夫をコントロールしていることは、凰香達にも想像がついた。

 次に翠は昨日の実習について質問してきた。今日父親が留守にしている理由について、どうしても知っておきたかったようだ。野外実習が超低レベル妖魔の駆除を兼ねていたこと。教頭の福原の差し金でとんでもない罠が仕掛けられていたこと。そして駆除を急ぐため、今日再実習が行われたこと……等々、凰香達が話すと、翠は興味深げに耳を傾けた。

「成程ね。そんなことがあったなんて。それにしても凄いわね、あなた達。優勝なんて」

「でも優勝できたのは先生のおかげなんです。先生が忍包しのびづつみを漉いてくれたから」

「そうです。紙漉きする時の先生、凄く格好よかったです」

 凰香と土井がやや興奮気味に語るのを見て、翠も上機嫌だ。

「あれでも元退治屋だから。でも前に父から今度のうちのクラスには、SSの鬼の眼持ちがいるって聞いたことがあったけど、あなたのことだったのね、砂川さん。ところであなた達、吉華四年生まれね? 妹と同じ年ね」

「はい。翠さん、妹さんがいるんですか?」

 凰香の質問に翠は頷いた。先程の電話で最初に話していた相手が妹の茜だという。翠は顔は勿論、歯に絹着せず物事をズバズバ言う性格まで父親そっくりだったが、茜はその様なことは全くなく、少しのんびりしたところがあった。今は姉とは別の短大に通っていて、間もなく就職活動に入るそうだ。

「あの子ちょっとトロいところがあるからねー。さっきの電話で私も少しいらついちゃって、怒鳴っちゃった。それに比べてあなた達は大したものね。女の子で漉士なんて」

 そんな事はないです、と渡辺が照れくさそうに顔を伏せたところで、店員がケーキと紅茶を四人の許へ運んで来た。紅茶を一口飲み、少しケーキを食べると、翠はまた話し出した。

「でも今日は本当に運が良かったわ。偶然とはいえ、こうしてあなた達に会えたんだもの。父のこと訊きたくても、漉士クラスは男の学生さんが多いでしょ? 訊きづらいのよねー」

 遠慮しないで食べて、と翠に促されて凰香達もケーキに口を付けた。時たま買うこともある学校近くの洋菓子屋のものとは違い、甘さも控えめで上品な味だ。しばし品の良い味を堪能した後、話題を変えようと渡辺が言った。

「そう言えば先生の奥さんーー翠さんのお母さんも紙士だってきいたことがあるんですけど」

「ええ、そうよ。母は折士よ。昔は父と組んで退治屋をやっていたわ。私がお腹に入ったことがわかった時点で辞めて専業主婦になったけど、数年前にパート勤めを始めたの。折士免許を生かして、近くの折妖製造会社にね。だからちゃんと免許更新にも行っているし」

「やっぱり……。それで翠さんは紙士になろうとは思わなかったんですか?」

「私は全然。妹は少しは考えた時期があったみたいだけど、今は止めたって言っているわ。もしなったとしても、漉士は嫌だって。まあ妹の性格じゃ漉士何て無理だし、父が反対したでしょうけど」

 そう答えつつも、翠の表情がやや険しくなってきた。何かまずいことでも訊いてしまったのかと、不安になる三人。しかし慌てたのは、押し黙ってしまった彼女らを見た翠の方だった。

「あー、あなた達の中で、近い身内の中に紙士がいる人は?」

 答えは三人揃ってノーだった。せいぜい土井の母方の曾祖父が折士だった程度で、近縁の親戚縁者に紙士がいたためしはない。

「そっか。やっぱりいないのね。あのね私、紙士が嫌いなんじゃないの。紙士の家庭が嫌なのよ。私が実家から通勤できるにもかかわらず、わざわざアパートを借りているのにも、そこに理由があるわけ」

「紙士の家庭が嫌って……。それで家を出たんですか?」

 凰香が尋ねると翠はそう、と短く答えた。紙士の家庭のものではない、普通の生活を経験しておかないと、将来困ったことになるからと。だが三人には翠が言わんとしていることが理解出来ない。すると翠は急に真剣な眼差しで、はっきりと告げた。

「私、紙士じゃない『普通』の男の人と結婚して、『普通』の家庭を築きたいの」

 翠はやたら「普通」という言葉を強調していた。つまりそれは紙士の家庭が普通ではないことを意味するわけだが、一体何がどう異なるのか、紙士家庭の経験者ではない凰香達には見当もつかなかった。

「紙士の家庭ってね、普通の家庭じゃまず絶対に起こらない、様々な事が起こるのよ。そのせいで私、子供の頃から本当に散々な目に遭ってきたわけ」

「そうなんですか? そう言われても私達、ぴんときません」

「でしょうねえ」

 戸惑う凰香に翠はため息をもらした。

「それじゃ具体的に何が起こったのか、少し教えて上げる。まずはほんの序の口から」

 そう言うと翠は話し出した。藍沢家で起きた「普通」ではない出来事を。

 

 今から十二年前、翠が小学校五年生だった頃。父親の藍沢は紙士養成学校の教師になってまだ三年で、当時は平教員だった。

 六月の土曜日の朝。いつものように家族四人が揃い、ダイニングテーブルで朝食をとっている時のことだった。母親の景子けいこが向かいの席に座る二人の娘にこう尋ねた。

「今夜の夕ご飯は魚にしようと思うんだけど、あんた達、何が食べたい?」

「お刺身!」

 妹の茜が即座に叫び、翠も、

「うん、私もお刺身がいい。鯛が食べたい!」

 と答えた。

「聞いたお父さん。鯛だって」

「ああ」

 景子がそう言っても藍沢は目を合わせようともしない。残り僅かになった鯵の開きをほぐしつつ、隣で黙々と口を動かすだけ。夫の鈍い反応に、景子は苛立った。

「ちょっとお父さん、わかっているの? 鯛よ、鯛。ちゃんとした妖紙、持って帰ってきてよ。赤かピンクの」

「何だ。黒鯛じゃ駄目なのか?」

 ようやく藍沢は箸を休め、景子の方を見た。

「もうお父さんったら! 横着してそこらにいる尾長鼠か地鳥でも漉いてこようと思ったんでしょ! 今夜は久しぶりに尾頭付きのお造りにしようと思っているのよ。黒鯛じゃ全然美味しそうに見えないじゃない!」

 妻の思わぬ癇癪に藍沢はたじろいだ。景子は藍沢より二歳年下だったが、かつては一緒に組んで退治屋をやっていた女性である。女性は家庭に入って出産すると太めの体型になる事も多いが、景子は違った。いつ折士として現場に復帰してもいいように健康には気をつかい、日々運動も欠かさず努力を怠らなかった。そんなパワー漲る妻に藍沢は家庭では押されっぱなしだったのだ。かつて大怪我をした時、病室で自分に寄り添ってくれた、可愛かったあの頃は何処へやら。仕事が午前中までの土曜日は、月に一度程度父親が帰りに夕食の食材ーー妖紙を持って帰るのが藍沢家の習慣になっていたのである。

「サイズは五か六、大きすぎても小さすぎても駄目。小さいのはしょぼいし、大きいのは私じゃさばけないうえに食べきれないからね。わかった?」

「あー、わかったわかった。ちゃんと持ってくるから心配するな」

 うるさそうに味噌汁を飲むと、藍沢は席を立ってそのまま仕事へ出かけてしまった。 

 ところがその日、藍沢はなかなか家に帰ってこなかった。何事もなければ午後二時半には戻ってくるのに、四時になっても帰ってくる気配がない。夏至直前で日は長いとはいえ、流石に翠は心配になった。

 結局、藍沢が帰宅したのは五時前だった。聞けば如月きさらぎ県との県境を流れる川・長綱川ながつながわまで行ってきたという。

「ほれ、注文の品物だ」

 家に上がるなり藍沢は鞄の中から桜色の妖紙を取り出し、出迎えた景子へ差し出した。 

「まあ、綺麗なピンク色。まさかこれ、染め直したんじゃないでしょうね?」

「馬鹿言うな。天然色だ。苦労したぜ、こいつを手に入れるのは。この辺じゃこの色の妖魔はいないからな。長綱川まで行って、四手蛯よつでえびを漉いてきたんだぞ」

「そう。流石はお父さんね、ご苦労様。翠、お父さんにお茶入れて上げて」

 上機嫌で妖紙を受け取ると、景子はダイニングテーブルへ向かった。ここからは折士である彼女の出番だ。翠が父親に出す茶を入れる傍らで、景子はせっせと妖紙を折り始めた。景子は五段折士、10レベルにも満たないこの妖紙を折ることなど雑作もない。十五分程度で見事な鯛が折り上がった。

「うん、久し振りに折ったにしてはなかなかの出来映えね。さてと……」

 睡眠状態の折妖を流し横の調理台まで持って行くと、景子はまな板の上にそれを置いて指を一本当てた。

「汝を折りし折士が命じる。起きなさい」

 瞬時にして折妖は覚醒し、全長六十センチほどの生きた鯛の姿となった。無言のまま鯛はぴちぴち跳ね、まな板から落ちんばかりの勢いで躍り上がった。

「こらっ、大人しくしなさい! これじゃさばけないじゃない!」

 そんな景子の怒鳴り声は、居間にいた藍沢や娘二人にも聞こえていた。だが誰も驚きはしない。いつものことだからだ。藍沢は娘が入れた茶を飲みながらのんびり夕刊を読んでいたし、翠も茜も学校の宿題を片づけるのに忙しく、振り向こうともしなかった。

 命令者の命に従い、ぴくりとも動かなくなった折妖鯛。その「食材」を悪魔のような目つきで見下ろしながら、景子は出刃包丁を手に取った。

「よしよし。それじゃ活け締めにしようかね」

 ザク。包丁が鰓の中へ突っ込まれ、脊髄が切断される音がした。続いて尾の付け根にも切れ込みが入る。どくどく溢れ出す血液を手早く排水口へ流して放血を済ませると、景子は絶命した折妖鯛を慣れた手つきでさばきだした。


「……とまあ、その日の食卓に、母がさばいた尾頭付きの鯛の刺身がのぼったわけ」

 淡々と翠はその日のことを語ったが、凰香達はさして違和感を感じなかった。折妖魚は町の魚屋の店頭に普通に並べられている物で、誰でも一度は口にしたことがある。実際、紙士養成学校の寮食堂でも折妖魚を使った料理は頻繁に出されていた。折士クラスの学生が実習で折妖魚を作り、食材として提供することも珍しくない。食品衛生法などの絡みで折妖肉の提供は無理だったが、経費節約のための一手段としてごく普通に行われていることなのである。

 唯一首を傾げたくなるのは、景子が折妖鯛を何の躊躇いもなく殺したことぐらいだった。自ら折って覚醒させた折妖を、自らの手で殺す。これは普通の折士ならとても嫌がる行為だ。しかし家計預かる主婦としては、これもやむを得ないことなのだろう。食費を浮かせるためには、可哀想などと言っていられないのだ。

「あのー……。それのどこが普通じゃなくて、嫌なんですか?」

 とうとう土井がしびれを切らして翠に尋ねた。

「父が妖魔を漉いて、母がその妖紙を折って覚醒し、さばいて家族に振る舞ったってこと」

「でも紙士じゃない普通の家庭でも、そういう場面ってありそうじゃないですか。釣り好きのお父さんが魚釣ってきて、お母さんがそれをさばくっていう」

「実のところ、私もそう思っていた。そういう普通の家庭でもやっていることと変わりはないって。だから私、この話を学校の普通の家庭の友達に話したのよ。そうしたらーー」

 少し間を置き、翠は苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「見事にドン引きされたわけ」

 翠はそれから一週間ほど友人に気味悪がれ、口もきいてもらえなかったという。そのことがショックで、以来二度とこんな話は人前でしなくなったのだ。

 恐らく、問題は捕って食べた相手が妖魔だというところであろう。妖魔は有害生物。紙士とはいえそれを好き好んで捕らえ、食べるという行為に翠の友人は嫌悪感を感じたのだ。無論、一般の家庭でも折妖肉や折妖魚を店で購入はする。だがそれは本物の肉や魚に比べてずっと安いからだ。売価にして折妖は本物の半分程度。よって庶民はよく口にしても、富裕層は見たこともない者も多いのである。

 凰香達も今は紙士を志しているため、妖魔を狩って食べたと言われても「ああそうか」程度にしか感じない。だが小学校時代に同じ話を聞いたらどうか。やはり引いてしまったかもしれないし、そこまでしなくても「あの子の家、何でそんな事するんだろう」くらいは感じたはずだ。

「ここで私も気付いたのよ。ああ、うちは友達の家庭とは違うって。同時にこういう普通の家庭では起こりえない事は、話すべきじゃないと悟ったわけ」

「まあ確かに。でも失礼ですけど」

 渡辺が相手の様子を窺いながら、慎重に訊いた。

「それくらいのことなら、子供の間なら幾らでもありそうじゃないですか。紙士の家庭じゃなくても」

「だから言ったでしょう。こんなの序の口だって。まだまだ凄いことが起きているのよ。次は私が高校に入学する直前の話ね」

 翠が次に話したのは、七年前に母親が起こしたあるとんでもない事件だった。


 七年前の三月上旬。翠は中学校の、妹の茜は小学校の卒業を目前にしていた。この日は日曜日で、景子は娘二人を連れて買い物へ出かけた。高校と中学に進学する娘達に新しい通学用の鞄と靴を買ってやるために、自宅近くの駅前商店街へ向かったのである。翠も茜もこの買い物を楽しみにしていて、「本革の鞄が欲しい」とか「可愛い飾りが着いた靴がいいな」などと歩きながら話していた。

 ところがその途中、三人は住宅街の一画で思いも寄らない光景を目にした。一台の小型保冷荷馬車トラックの周りに六、七人の人集ひとだかりが出来ている。この辺では見慣れない行商の魚屋が来ており、近所の主婦が集まってきていたのだ。だが、それにしては雰囲気が変だ。客であるはずの主婦達が妙に殺気立っている。売り子である若い男は彼女らに何やら懸命に訴えていた。

「ですから間違いありませんって。これは本物です!」

「本当にそうなの? それにしちゃあ安くない?」

 主婦達は売り子に疑いの眼を向けている。何やら嫌な予感がした翠は、立ち止まろうとする母親の背中を押して、さっさと通り過ぎようとした。が、ここで茜が二人の許を離れ、人集りの方へ走って行ってしまったのだ。

「あら、茜ちゃん! お父さんかお母さんは?」

 顔見知りの主婦が茜に気付きーー振り向いた彼女の目と、景子の目が合った。

「藍沢さんの奥さん! いいところに! ちょっとこれ、見てくれない?」

「あら、何かしら?」

 ああお母さん、また変なことに首を突っ込んでーーと眉をひそめる翠をよそに、景子は呼ばれるがままに彼女の側まで行ってしまった。仕方なく翠も馬車の方へ行くと、荷台には氷やドライアイスに囲まれたマグロのさくが並べられていた。赤身もあれば中トロ、大トロもある。皆色鮮やかで、見るからに美味そうだ。

 だが問題はその値段だった。真魚しんぎょーー本物の魚と折妖魚の丁度中間ぐらいだ。売り子はこれらを本物だと言い張るが、それにしては安すぎる。そのため主婦達は、折妖魚を高く売りつけようとしているのではないかと、疑っていたのである。

 ところが残念なことに、主婦達にはこのさくが真魚なのか折妖魚なのかの区別が全く付かない。さばいていない丸ごとの状態であれば、配色の違いから一般人でも見分けることが十分可能だ。鯵なのに腹が白くなかったり、鯖なのに背中の模様がないーーといった具合に。だが皮を剥かれ、身になってしまえばもうわからない。

 しかし紙士である景子にはわかる。折妖なら周妖光しゅうようこうが見えるからだ。周妖光は加熱でもしない限り、死体だろうが肉片だろうが消えることは決してないのだ。

「成程ね。わかったわ。それじゃ見てみましょうか」

 事の次第を飲み込んだ景子は、さっそく荷台を覗き込んだが、一目見るなり売り子を睨み付けた。

「バリバリ見えるわよ、周妖光が! ちょっとあんた! これ全部、折妖じゃないの!」

「何だとぉ!」

 素直に認めて謝るかと思いきや、売り子は猛然と反論してきた。

「そっちこそ言いがかりつけているんじゃないのか! こっちはちゃんと本物を仕入れてきたんだ。いい加減なことを言うと訴えるぞ!」

「あーらそう。ならいい物を見せて上げる」

 景子は買い物かごの中から折士の免許証を取り出し、売り子の目の前に突きつけた。

「私、現役の折士なの。折妖のプロよ。これでもまだ本物だと言い張る気なの、このペテン師が!」

 売り子の態度が一変、その顔からさーっと血の気が引いていった。無論、騙されそうになった主婦達も黙っていない。皆怒りで顔を真っ赤にさせ、売り子にじりじりと迫ってきた。


「あ、ちょっとすいません」

 話の途中で凰香が突然割り込んできた。

「これなら私も経験があります。私、鬼の眼持ちだったから、昔よく近所の人に頼まれたんです。買ってきた肉や魚が本物かどうか見てって。だからこの手の話は、特別珍しいものじゃないんじゃないかと……」

「確かにね」

 翠も頷いた。

「母も店先で売られている物が本物かどうか、よく自分でチェックはしていたわ。まあちゃんとした店だったら信用に関わることだから、折妖を本物だって偽って売ることはまずなかったけど。だけどね。問題はこの後。母がこの後とった行動に問題があったのよ」

 そう言って翠は再び話し出した。


「そんな事言われたって俺、知らないよ! 知り合いから本物だって言われて、頼まれて売りに来たんだから!」

 売り子は何とかその場を凌ごうとしたが、主婦達の怒りは収まらない。危うく折妖魚を高値で買わされそうになったのだ。家計を預かる者として腹を立てるのは当然だろう。

「この詐欺師め、警察に突き出してやるわよ!」

「知らないって言ったら、知らないよ!」

 とうとう売り子は車を置いて逃げ出した。景子も主婦達も取り押さえようと後を追ったが、相手は若い男、逃げ足は早い。あっという間に振り切って、姿をくらましてしまった。

「あー、逃げられた! 何て奴なの!」

 主婦達は地団駄を踏んで悔しがったが、景子は違った。トラックを引いている灰色の折妖馬の前まで来ると、馬に向かって指を一本、かざしたのだ。

「おい、お前! こっち向いてごらん」

 景子はさっと右手を指さした。が、確かに指が見えているはずなのに、折妖馬は正面を向いたままで、眼すら動かそうとしない。そのつれない態度に景子はふんと鼻を鳴らした。

「やっぱりあいつの言うことしか聞かないように仕込まれているか。でも馬鹿な男だよ。折妖馬こいつを置いて逃げるなんてさ。私は折士だって言ったのに。幸いこいつは大したレベルの折妖じゃなさそうだね。なら折士を怒らせるとどういう目に遭うか、あのペテン師に思い知らせてやろうじゃないのさ」

 不気味な笑みを浮かべると、景子は折妖馬の額に右手人差し指と中指を押し当てた。

「汝を縛りし鎖を解き、今、我が新しき鎖をかける」

 景子がそう唱えた直後、折妖馬はくわっと目を見開いた。景子は折妖馬に「折妖馴らし」の術をかけたのだ。折妖馴らしとは折妖を別の人間の支配下に移す術だ。景子はこの術を用いて売り子の馬を自分の支配下に置いたのである。

 術は上手くかかったようで、折妖馬は景子をじっと見詰め、耳もしっかり前へ向けている。その鼻面を撫でながら景子は言った。

「よーし。それじゃ今から私がお前の主だよ。私の言葉がわかるのなら、右前足で地面を二度、叩いてごらん」

 返事こそなかったが、折妖馬は命じられるがままに右前足を上げ、地面を二回叩いた。人間の言葉は話せなくても、命令を理解するだけの知能はあるということだ。景子にとってはこれだけで十分だった。

「お前、前の主ーーお前をここに連れてきた男の臭いは覚えているかい?」

 折妖馬は首を大きく縦に一回振った。

「覚えているようだね。それなら話は早い。翠、茜! ちょっと手伝って!」

「お母さん、何をしようっていうの。まさかこの馬を使って……」

「翠! ごちゃごちゃ言っていないで、さっさと手伝いなさい!」

 母親に頭ごなしに怒鳴られ、翠は渋々妹と一緒に折妖馬から馬具を外す手伝いをさせられた。荷車から放たれ、身軽になった折妖馬に景子は命じた。

「臭いをたどってあの男を追い、捕まえてここに連れておいで! 少しくらい痛い目に遭わせてもかまわないけど、大怪我はさせないようにね。行け!」

 景子が尻を一発叩くと、折妖馬は鼻息荒く棒立ちとなり、売り子が消えた方向へ駆け出して行った。

「これでよし……と。あとはあいつがあの詐欺師を捕まえてくるのを待つだけだ。すいませんけど、誰か警察を呼んでくれませんか?」

 一変にこやかに主婦仲間に声をかける景子。そんな母の姿に翠は戦慄すら覚えた。売り子を捕まえるのなら、警察に任せればいいこと。それを自ら紙士術を用いて捕まえようなど、幾ら何でもやりすぎだ。

 ものの十五分も経たないうちに、売り子は折妖馬に連れられ、景子達の前に引きずり出された。発見された時に折妖馬に噛まれたのか、服の至る所が食い破られ、頬にはくっきりと歯形がついている。もう逃げる気力も失って、主婦達に取り囲まれても膝を着いたまま動こうともしなかった。

 それから間もなくして警察が現場へ到着。事情聴取と現場検証が始まった。

「ですから俺は人に頼まれただけだと……」

「はいはい、わかったわかった。誰に頼まれたのかは、警察署に着いたら聞こうな」

 警邏馬車パトカーに押し込まれつつも売り子は、警察官と押し問答をしている。一方、トラックの前ではまだ二十代と思われる若い警察官が、隣にいる上司と話をしていた。

「この魚、間違いなく折妖魚ですね。自分には周妖光がしっかり見えますよ。景品表示法違反並びに妖魔産物利用法違反容疑ってところですかね、今のところは」

「取り敢えずはそうだな。詐欺容疑で立件できるかは、これからの捜査次第だが。ところでお前、そこの御婦人に話を聞いておけよ。彼女、お前と同じ紙士だ。彼女がそこの折妖馬操って、犯人とっつかまえたって話だからな」

「はあ……。ではあの女性ひとは折士で? わかりました」

 若い警察官が景子と娘達の方へやってきて、一礼した。

「失礼します。あなたが折妖馬を使って犯人を捕まえたという話なのですが、紙士の免許証を拝見してもよろしいですか?」

「ええ、いいわよ」

 景子はしらっとした顔で、免許証を差し出した。ところが数秒の間を置いて警察官の表情が見る間に強ばっていったのだ。

「あの……もしかしてあなたは、紙士養成学校本校の藍沢先生の奥様で……」

「あーら、あなたうちの亭主を知っているの。ってことは、あなた漉士ね?」

「は、はいっ! 藍沢先生には学生時代、大変お世話になりましたっ! 先生はお元気でいらっしゃいますか?」

「ええ、元気よ。相変わらず学生をしごいているみたいだけどね」

「そうですか、お元気ですか! あ、そちらはお嬢様方ですか。どちらも可愛らしいお嬢様で……」

 若い警察官はまるで兵士が上官に対してするかの如く、景子に向かって最敬礼。ひたすら頭を下げ続けた。だが翠は聞いてしまったのだ。彼が自分達の許を去る直前、「流石はあの藍沢先生のかみさんだ。ただもんじゃねー」と呟いたのを。


「……で、その後警察まで行って、色々話を訊かれて、その日一日吹っ飛んだってわけ。母は犯人捕まえて鼻高々だったけど、私はもうがっかりだったわ。せっかく楽しみにしていた買い物が出来なかったんだから」

 しかも騒動はこれでおしまいではなかった。帰宅後、両親の間で夫婦喧嘩が勃発したのだ。話を聞いた藍沢が「余計なことをするな」と激怒したのだ。犯人の逮捕は警察の仕事。景子が出しゃばる必要はないと感じたのであるーー娘の翠と同様に。

 さらにまずかったのが、景子が勝手に他人の折妖に折妖馴らしをかけ、自分の支配下に置いたということだった。所有者に許可なく折妖馴らしをかけることは、紙士法に違反する。幸い今回は犯人を取り押さえたことから、「紙士法にも『緊急を要する場合は、この限りではない』という一文もありますから」との警察の配慮もあり、お咎め無しとなった。が、免許を剥奪されても不思議ではなかったのだ。しかも担当警察官の中にかつての自分の教え子がいたとあっては、藍沢も恥ずかしくてたまらなかっただろう。

「全く、母が余計なことをしたばっかりに、せっかくの日曜日が台無しになったのよ。あそこで大人しく魚の真偽を見極めるくらいにしておけば、あんな大事おおごとにならなかったのに」

 ここで翠はケーキを二、三口頬張ったが、その様子はもう味などどうでもいいといった感じだった。それほど彼女にとっては不愉快な出来事だったのだろう。

 しかし凰香達が驚いたのは母親の景子がやった「余計なこと」ではなく、景子その人だった。知人を騙そうとした男を放置せず、折士術を用いて自分で捕まえてしまったのだから。気は強いし、行動力も抜群。流石は藍沢の元相棒で、退治屋だったことはある。あの若い警察官の台詞ではないが、「ただ者」ではないのだ。

 安全な社屋の中で黙々と折妖を作り続ける内勤折士とは異なり、漉士と組んで退治屋や妖魔狩人を生業としている狩猟折士には、気丈で活動的なタイプの人が多い。妖魔狩りには常に妖魔に襲われる危険が伴うからだ。勿論女性も例外ではなく、景子はその典型とも言える人物。そうした女性であることを承知のうえで、藍沢はプロポーズをしたのだったーー凰香達は知る由もなかったが。

「確かにそれは災難でしたね。翠さんも苦労して」

 タイミングを見計らって渡辺が声をかけると、翠は少しだけ口元を緩めた。

「まあね。でもなんといっても最大の事件は」

 紅茶を一口飲んでから、翠はおもむろに言った。

「誘拐されたことかな」

 翠の想定外の台詞に、凰香達は一瞬固まった。今までの話は単なるごたごたで片付けられるものだが、誘拐は明らかな犯罪行為だ。翠はかつて犯罪に巻き込まれたことがあるというのだから、穏やかではない。

「ああ、驚いた? その時無事だったから、今こうして呑気に話すことも出来るんだけど。まあ聞いて頂戴」

 凰香達は息を飲んだ。一体何があったのだろう……と。


 事件が起こったのは今から十六年前の八月初めのことだった。当時翠は小学校一年生。小学校に入学して初めての夏休みを迎えていた。子供にとって夏休みは楽しい。毎日のように朝から外へ出て、友達と遊んだりプールへ行ったりと、翠は忙しくも日々を満喫していた。

 しかし学校からはどっさり宿題が出されていた。漢字や算数のドリル、朝顔の観察日記、自由研究。絵日記……といった具合に、子供にとってはうんざりするほどの量であった。ところが翠は遊ぶことに夢中で、まだドリルの一ページすらやっていなかった。後でやればいいや……と甘く見ていたのである。

 この頃、藍沢はまだ現役の退治屋だった。妖魔退治の依頼が来なければ常に自宅にいるので、娘の怠けっぷりは嫌でも目に入る。しかし幾ら注意しても、翠は全く聞く耳を持たない。とうとう堪忍袋の緒が切れて、藍沢は娘を怒鳴りつけた。

「こら翠! 遊び呆けていないで宿題、やれ!」

「大丈夫お父さん。後でちゃんとやるから」

「後で何て言ったって、もう八月だぞ! そんなことしていると、後で苦労するぞ! 今すぐやれ!」

 結局翠はこの日友達と遊びに行くことも出来ず、両親に監視されて宿題をやる羽目になった。翠は不満だった。何もそこまでガミガミ怒鳴らなくてもいいのではないか。心配しなくてもちゃんとやるーーつもりなのに、と。

 ーーお父さんもお母さんも私のこと、信用していないんだ……。

 憤りを感じる翠。だが翌日、急遽退治依頼が入り、藍沢は昼前に仕事へ出た。さらにタイミング良く(?)茜が少し体調を崩したのだ。妹を病院へ連れて行くため、景子までも家を空けることになったのである。

 翠にとってこれは願ってもないチャンスだった。両親は揃って留守、これで思う存分外で遊べる。母親が家を出て五分も経たないうちに、翠は遊びに出てしまった。

 その日の午後を十分に楽しんだ翠だったが、五時過ぎ友達と別れてから急に不安になった。少なくとも母はもう自宅へ戻っているはずだ。自分が遊びに行ったことは発覚している。これで父も戻ったら、二人揃って物凄く怒るはずーーそう思うと怖くて帰るに帰れない。翠は途方に暮れた。

 どうしていいのかわからず、翠が自宅近くをうろうろしている時だった。見知らぬ中年男が不意に近づき、声をかけてきたのだ。

「お嬢ちゃん、どうしたの?」

「お父さんとお母さんに怒られるから、家に帰れない」

 すると男はにっこり笑って言った。

「それならおじさんの所に来ないかい? 美味しい物沢山あげるよ」

 男は見るからに優しそうな人物であり、翠は喜んでついて行った。少し離れた所に男は馬車くるまを止めていて、御者台には同じぐらいの年の女がいた。翠は馬車に乗り込むと、男に勧められるがままに瓶ジュースを一本飲んだ。だが暫くして急に眠くなり、馬車の中で眠ってしまった。

 気が付いた時、翠はソファーの上に寝かされていた。今、自分は見たこともない一室に一人でいる。日は既に落ちていたが、室内は明かりがついておらず薄暗かった。幸い窓が一つあり、そこから光が入ってくるので、翠は辺りを見渡してみた。部屋の広さは二十畳ほどで、あるのはソファーを除けば積み上げられた段ボール箱の山だけ。あと窓の反対側に鉄製の扉が一つ見えた。

 ここは何処なのかと、翠は窓から外を見た。見えたのは少し離れたところにある海と波止場、それに埠頭沿いに連なって建てられた倉庫群。どうも港のようだ。今いるこの部屋はそうした倉庫の一つの二階であることがわかった。埠頭は煌々とした明かりに照らされてはいたが人の姿はなく、とても寂しげに見えた。

 どうやら自分はあの中年の男女によってここへ連れて来られたらしいーー翠はそう察したが、家に帰りたいとは思わなかった。今はとにかく両親が怖かったし、少し家出をして困らせてやれ……と、子供らしい悪戯心がはたらいたせいもあった。

 それにしてもあの二人の姿がここにはない。何処へ行ったのかと思った翠は、鉄扉を開けた。出ると直ぐに一階へ向かって伸びる階段が目に入り、下りていってみると別の扉を見つけた。扉の向こう側からは、男女の声が聞こえてくる。

「全く、あんな紙切れ一枚のためにあんな可愛い子を……」

 車を御していた女の声だ。翠に声をかけた男の声がそれに続く。

「仕方がないだろう。これ以外に手がなかったんだ。うちの面子じゃ漉けないんだから」

「わかっているわよ。ところで電話はしたの?」

「ああ、さっきした。酷い慌てようだったぜ。まあ親なんだから、当然だよな」

 一体何を話しているのか翠にはよくわからなかったが、とにかく中に入ってみようと翠は扉を開けた。

「あら翠ちゃん、お目覚め?」

 先程の渋い口調から一転、女は満面の笑みで翠の許へ駆け寄った。薄暗かった先程の部屋とは違い、ここ一階は明るい。事務用机や書庫が数台並べられているところからみて、事務所のようだ。女は翠の手を引くと、一番手前の机の前に座らせ、一抱えもある紙袋を差し出した。

「お腹が空いたでしょう? この中にお菓子があるから、好きなだけ食べていいわよ。あとこっち」

 女は床に置いてあったクーラーボックスを翠の足下まで引っ張り寄せた。

「冷たいジュースやアイスクリームもあるからね。さあどうぞ」

「うわあ、凄い!」

 翠は大はしゃぎだった。家では「甘い物を食べすぎると、虫歯になるわよ!」と、母から厳しく注意されている。それを好きなだけ食べてもいいと言われたのだから、子供心にこれほど嬉しいことはなかった。さらにーー

「ほーら、花火も買ってあるよ。後でおじさんと一緒にやろうね」

 男は袋入りの花火まで見せてくれた。もう至れり尽くせりだ。美味しい物を食べさせてくれて、花火で遊んでくれる。何て優しいおじさんとおばさんーーと、翠は感激した。今考えてみれば名乗った覚えもないのに何故自分の名前を知っていたのか、不思議ではあった。しかし当時の翠は幼く、この男らにのせられもう完全にお姫様気分。彼らがどうしてここまで尽くしてくれるのか、その理由を考えることまで到底頭が回らなかった。

 お菓子や冷たい物を腹一杯食べて、倉庫内で花火で遊んで、その夜はすっかりいい気分になった翠は、ソファーに寝そべって眠った。翌朝も男らは変わらず優しく接してくれる。宿題のことでガミガミ叱る親なんかより、この人達と一緒にいる方がずっと楽しい。もう家に帰りたくないーーそんなことすら翠は思い始めた。

 常に笑顔で付き合ってくれる彼らではあったが、妙な点もあった。一階の事務所へ入れたのは最初の夜だけで、その後翠は二階の部屋から出られなくなった。女が本を読んだり、一緒に絵を描いたりして相手はしてくれたが、男の方は何故か事務所に入り浸り。翠がトイレに行く時は必ず女が付き添い、決して倉庫の外へは出してくれない。つまり、何となく監視されているのだ。

 だが全く退屈はしなかったし、別に不自由なこともない。今いるここが何処の港なのかは気になって、外を何度か見はした。昼間は船も着いて荷物の積み卸しの人夫が行き交い、そこそこにぎわってはいる。が、何故かこの倉庫には誰も入ってこようとはしない。人夫の一人すら。そして日が落ちると、周囲の人通りは皆無となる。どうも州都港の外れにある小規模港のようだったが、知識のない翠にわかるはずもなかった。

 さて、二日目の夜。十一時を回り、翠はソファーの上でぐっすり眠っていた。しかし外で馬蹄の音がし、ふと目を覚ました。目を擦りながら窓から外を見ると、騎馬が一騎倉庫の前にいる。だが馬の背から下りた人物を目にした翠は、あっと声を上げた。

「あれ、お父さん?」

 そう、その人物は間違いなく藍沢だった。どうして父親がこんな所に来るのか。自分を迎えに来たのか。いやあの父親のこと、家出をしたことがばれて、怒りに来たのかもしれない。もしそうならどうしようーー事情が分からず翠は混乱したが、とにかく様子を見た方が良さそうだ。幸い昼間付き添っていた女も、今は下にいる。父親が倉庫事務所内へ入ったのを見届けると、翠は足音を忍ばせて事務所の入り口まで行き、扉をほんの少し開けて中を覗き込んだ。

 事務所の中では男と藍沢が向かい合っていた。男は事務所奥の倉庫へ通じる扉の前、藍沢は入り口近くの受付カウンターの前。藍沢はまるで妖魔を狩る時のような、凄まじい目つきで男を睨みつけている。しかし男は怯むことなく、冷静な口調で話しかけた。

「これはどうも、藍沢さん。例の物はお持ち頂けましたか?」

「ああ、持ってきた。娘はどこだ!」

「ちゃんと大切にお預かりしていますよ。ご心配なく」

「おい、翠は本当に無事なんだろうな! 会わせろ!」

「でもその前に例の物をもらわないとね。その妖紙筒をこちらに投げてもらえませんか?」

 ちっと舌打ちすると、藍沢は手にした妖紙筒を男へ向かって放り投げた。それを受け取った男は、蓋を取って中から緑色の妖紙を一枚抜き出した。

「確かに。こちらがお願いした物のようです。娘さんはこの上の部屋にいますよ。では我々はこれでーー」

 男は後ろへ手を伸ばし、扉のドアノブを回そうとした。だがその直後ーー

「おじさん、お父さん? 何やっているの?」

 何が起こっているのか理解出来ず、頭の中が疑問符で一杯になった翠が事務所の中へ入ってきてしまったのだ。

「翠! 無事だったか!」

 藍沢の顔がぱっと明るくなった。ところがその隙に男はドアを開け、倉庫の方へ逃げてしまった。

「待て、逃がすか! このもぐり野郎!」

 藍沢は懐へ手を突っ込むと白い妖紙を取り出し、「術」をかけた。妖紙は虹色の光に包まれ、瞬く間に真っ白い妖魔にーー四本の腕と三つの目を持った全長三メートルほどの熊の姿になった。

「今その扉の向こうに逃げた男を捕まえてくれ。頼む!」

「アイヨ旦那。半殺シクライカ?」

「ああ。殺すなよ! あと、火は吐くな!」

「承知シタ」

 事務所の机をなぎ倒しながら突進すると、妖魔は扉に体当たりした。木の葉の如く扉は吹き飛び、中で待機していた馬車に乗り込もうとした男は、突然の妖魔の出現に呆然と立ち尽くした。

「何でこんな所に炎熊ほむらぐまが……!」

「キャー、何よこれぇ!」

 御者台にいた女も悲鳴を上げた。本来なら山奥にしかいないような妖魔が目の前に現れたのだ。しかしそんなことにはお構いなく、妖魔ーー炎熊は咆哮をあげると、四本の腕を振り上げて二人に襲いかかった。

 約一分後ーー二人は炎熊に噛まれはたかれ、傷だらけになって倉庫の床に横たわった。女は気絶し、男も意識は朦朧。そこへ藍沢が翠を連れてやってきた。

「なんだ貴様……。妖紙を紙解きして、妖魔をけしかけたってか……」

「その通りだ」

 男を見下ろしながら、藍沢は得意げに言った。

「俺達退治屋はな、見つけた妖魔を手当たり次第に漉く妖魔狩人とは違って、標的以外の妖魔には基本手を出さねえんだよ。だから人に危害を加えず山の奥で大人しくしている連中から、恨みを買うこともない。何度か山に通っていれば、知り合いの妖魔すら出来る。こいつみたいにな」

「そりゃあないだろう……」

 それだけ呟いて男は意識を失った。藍沢は二人を事務所にあった紐で縛り上げると、妖魔の肩を叩いた。

「ご苦労だったな。約束通りちゃんと元の場所に帰すから、また眠ってくれ」

「コンナモン、チョロイモンヨ。マタ用ガアッタラ呼ンデクレヨ」

 そう言って笑う炎熊を藍沢は紙漉きして再び妖紙にし、懐へ入れた。

「さあ翠、悪い誘拐犯はお父さんがやっつけたぞ。家に帰ろうな」

 藍沢は笑顔で翠を抱き上げ、頬ずりしようとした。ところがーー

「お父さんの馬鹿! 何でこのおじさん達にこんな酷いことをするのよ!」

 翠の掌が父親の頬を強か打った。愕然とする藍沢。そう、何故娘にこんな仕打ちを受けるのか、彼には全く理解出来なかったのである。


「まあそんなわけで、その後警察が来て、色々話を聞いたり訊かれたりして、そこでやっと自分が誘拐されたことを知ったわけ。あの二人は家の近くで私が戻ってくるのを待ちかまえていて車に連れ込み、睡眠薬入りのジュースを飲ませて眠らせた。その隙に州都港沿いの倉庫に『監禁』して、家に脅迫電話をかけたのね」

 犯人の二人が翠の両親に要求したのは身代金ではなく、ランク10以上の緑青斑猫ろくしょうはんみょうの妖紙だった。緑青斑猫はランク1個体でも6レベルある甲虫の姿をした妖魔。ランク10以上ともなれば幻覚や催眠術、爆炎球放射(着弾すると爆発・炎上する火炎球を口から吐く)など厄介な特殊能力を使う。

 犯人からこの要求があった時、藍沢は相手がもぐり紙士であることに感付いていた。緑青斑猫は普通の漉士なら、退治依頼でもない限り漉こうとしない妖魔。手強い相手であることに加え、特殊能力が危険すぎて折妖にした際の悪用が懸念されるからである。そんな妖紙を欲しがるということは、何かやましい目的があるからに違いなく、そこから相手がもぐりの紙士であろうと藍沢は推測したのだ。

 実際、取り調べの結果、女の方は普通の人間だったが、男の方はもぐりの染士だった。しかも今回の事件は彼らの「単独犯行」ではなく、裏に別の人間がいたのだ。小規模ながらもぐり紙士団の存在が明らかになり、団員全員が逮捕される事態にまでなったのである。あの監禁先の倉庫も、団長が「表の稼業」として所有していたものだった。ただ既に会社は倒産してしまったので、現在は使用されておらず人の出入りもない。そのため犯罪に利用するにはうってつけだったというわけだ。

 それにしても何故翠が誘拐される羽目となったのか。その原因は父親にあった。藍沢は先月、高ランクの緑青斑猫の退治依頼を受け、この紙漉きに成功した。この時の妖紙を依頼者が欲しがらなかったので、藍沢が持ち帰り自宅に保管していた。物が物だけに公認ショップに持ち込んで流通させるわけにもいかず、16レベル以上あるので妻にも折れない。かといって燃やしてしまうのも勿体ないので、何処かの研究機関に機会があったら寄付しようーーなどと考えていたようだ。

 藍沢が高ランクの緑青斑猫を漉いたことは、この業界ーー退治屋の世界ではトップニュース扱いの出来事で、その噂は瞬く間に同業者の間に広まった。それがもぐり紙士団の耳に入っても不思議ではなく、この妖紙目当てに翠が誘拐されてしまったのだ。娘の誘拐は自分に原因があることを知った藍沢は、警察に頼らず娘を救出することを決意。そこで強力な「助っ人」を伴って、犯人が指定した取引場所へ乗り込んだのだ。

「その助っ人っていうのが、白色種の炎熊なんですね。妖魔は凶暴な種が多いいんですけど、白色種は温厚だとか。炎熊の白色種も勿論例外じゃありません」

 凰香の説明に翠も頷いた。

「そう。あの時犯人を襲ったのも父が頼んだからであって、普段はとても大人しいそうよ。何でも昔ランクがまだ低かった頃、敵の妖魔に襲われていたところを父に助けられたんですって。その敵の妖魔っていうのが、たまたまその時の標的だったそうだけど、以来恩義を感じて父と付き合うようになったとか。だから父が頼みに来た時も、嫌な顔一つせず妖紙になったって話」

 どうして藍沢はわざわざ山奥まで行って、炎熊を連れて来ようとしたのか。藍沢の性格をよく知る凰香達には容易に彼の心理状態が理解できた。ただ娘を無事に取り戻すだけでは駄目だ。やられたらやり返さなければ気が済まない。犯人を捕まえ、怒りの鉄拳をくらわさなければ、どうにも腹の虫が治まらない。だからこそ藍沢は妖魔を連れ込んだのだ。

 だがせっかく犯人に制裁を加えても、娘からは手厳しい一発を食らってしまった。藍沢としては「娘を誘拐した凶悪犯を罰した」のだろうが、翠にしてみれば「美味しい物をくれたり優しく遊んでくれたおじさんとおばさんを、お父さんが苛めた」というふうにしか見えない。藍沢は犯人から「警察に通報したら娘の命は保証しない」と「お約束」通りの脅迫を受けていた。そのため娘がこれほどまでに「高待遇」を受けていたとは露とも知らず、娘が誘拐されたことよりも遙かに大きなショックを受けたようだ。

「でも何で犯人は翠さんにそんなに優しくしたんでしょうか。何か企んでいたとか……」

「それはね」

 渡辺の質問に、翠は紅茶を飲み干した後答えた。

「子供のことだから、優しくしていれば自分達の容姿なんてろくに覚えていないだろうって考えたから。逆に脅かして怖がらせたら、相手をよく覚えようって心理が働くと思ったみたいよ。向こうも子供を誘拐すること自体、乗り気でなかったこともあるけど。まあ案の定、私も『優しいおじさんとおばさん』くらいで、相手の顔なんて殆ど印象に残っていなかったけどね」

 そもそも犯人は翠を殺すことは勿論、傷付けることさえ毛頭考えていなかった。目当ての妖紙さえ手に入れたら、翠を倉庫に残して馬車に乗り、すぐ逃げ出す計画だったそうだ。

「でも今思えば、あの二人は結構間抜けだったわね。バックにいたもぐりの一団も。たとえ無事逃げおおせたとしても、あの倉庫の所有者を割り出せばすぐに身元がばれたし、一人捕まればもう芋蔓式に全員検挙されたはずよ」

「それで翠さん、原因になった緑青斑猫の妖紙はどうなったんですか?」

「ああ渡辺さん、あれね。警察が証拠品として回収したけど、父が頼んで焼いてもらったそうよ。父の所有物だから、いずれは手元に戻ってくる筈だったんだけど、もうあんな物、見たくもなかったんでしょうね。でもこれでわかったでしょう? この事件、親が紙士じゃなければ起こらなかったのよ。我が家は身代金なんて払えるほど裕福じゃないし」

 退治屋は高給取りだと世間では噂されている。確かに退治屋の中には、依頼者の足元を見て大金をふっかける者も少なくない。が、藍沢はそんなことは一切せず、妥当な範囲でしか請求しなかった。よって家族が食べるには十分な稼ぎこそあったものの、決して狙われるほどの財産はなかったのだ。

「父にとっては散々だったけど、この事件、当時の私にとっては夏休みのいい思い出になったわ。父も自分がガミガミ怒ったのが原因でこんなことになったと、少し反省したの。だから夏休みの宿題、手伝ってくれたのよ。でもこうして大人になって冷静になってみれば、単に運が良かっただけってことがよくわかったわ。相手が間が抜けた中途半端な悪党だったからよかったものの、本当の凶悪犯だったら私、口封じのために殺されていたかもしれないから」

「それで犯人はその後どうなったんですか?」

 土井が興味深そうに尋ねると、翠はしばし考え込んだ。

「もぐり紙士は紙士術を封印されて、それ以外の人も含めて全員懲役刑になったみたいよ。私も子供だったから、詳しいことはよく覚えていないの。もうあれから十六年も経っているから、出所している人もいるかもね」

「大丈夫なんですか、『お礼参り』なんかされたりしたら……」

「心配ないわよ。もう紙士術は使えないし」

「それにしても犯人は緑青斑猫の妖紙なんか何に使うつもりだったんでしょうか」

「転売目的だったって話よ。倉庫会社が倒産して、負債の穴埋めにお金が欲しかったから。あんな物騒な妖紙、和州じゃみんな怖がって手を出さないけど、海外なら欲しがる人は幾らでもいるんですって。密輸して一儲けしようって魂胆だったんでしょう」

 如何にももぐり紙士がやりそうなことだと凰香達は思った。妖魔局が輸出入を禁じている「危険な能力を秘めた妖紙」は、裏世界では高額で売買されるという。欲しがる方も犯罪組織とは限らない。国家の軍事組織が買い求めるケースもあるというーー公にはなっていないが。そうした妖紙の取引きが、もぐり紙士の収入源になっていることを、凰香達も藍沢の講義で聞いていた。

 誘拐事件の詳細を聞き終え、凰香達の誰しもが先生はお気の毒ーーと思った。命を張って娘を救出したのに、当の娘からはビンタ。これでは報われない。翠も今はあの時は悪いことをしたと、反省しているのかもしれないが……。

「……とまあ、今までにこんな色々なことが起きたわけ。もうこれでわかったわよね。私が紙士の家庭を嫌がる理由が。あ、今まで私が話したこと、全部他の人には話さないでね。勿論父にも。それから最後に一つ、あなた達に忠告しておきたいことがあるの」

 翠は三人の顔を順番に見た後、重々しい口調で告げた。

「出来ることならあなた達、普通の人と結婚しなさい。勿論、無理にとは言わないけど、自分の子供を私みたいな目に遭わせたくなかったら、紙士じゃない普通の男の人を選ぶべきね」

 翠の目は真剣そのもの。本気で凰香達に忠告しているのだ。その凄みのある態度に押され、凰香達はノーとも言えずに無言で頷くだけだった。


 それから暫く雑談をし、喫茶店を出て翠と別れたのは午後四時頃のことだった。馬渕への手土産も買い、凰香達は帰路へつくため電車に乗ったが、翠からの一言は彼女らの心にずっしりと響いた。

「翠さんはあんなこと言っていたけど、将来私達がどうなるかなんて、わからないからねえ……」

 渡辺の言う通りだった。幸い(?)というか、現在凰香達には校内外に気になる異性はいない。講義や実習がハードでそれどころではなかったし、三人とも異性自体にあまり関心がなかったからだ。しかし今はこんな調子でも、この先どんな出会いが待っているかはわからない。紙士の男性を好きになってしまうかもしれない。その時翠の忠告がどれほどの影響を与えるのかは、未知数だった。

「翠さん、私達が結婚したら紙士免許を返納するのかと思っているみたいだけど、そう簡単には返せないわよね。先生の奥さんだって未だに持っているし。もし返納しなかったら、普通の男の人と結婚しても結局同じよね」

 土井が言うことに凰香も相槌を打った。

「そうよね。苦労して手に入れた免許だから、尚更返したくはないわ。それにしても翠さん、余程紙士以外の人と結婚したいのね。あの時の目つき、本当に怖かった」

「でも失礼だけど、お付き合いしている人はいなさそうだったね。性格も先生に似て気も強そうだし」

 凰香達は感じていた。もしいれば翠はもっと穏やかに話していたはずだと。結婚適齢期になっても「彼氏」がいないーーそんな焦りが見え隠れしていたように映ったのである。

「けどさ。翠さんもいずれは好きな男の人を実家に連れて行って、先生に紹介する訳じゃない。それで彼氏、やるのかな。あのドラマとか映画でよくやる『お義父さん、娘さんを僕にください!』ってやつ」

 土井が笑い声混じりに言うと、渡辺がこう返した。

「あれを藍沢先生相手にやるには、かなり肝の据わった男じゃないと駄目ね。翠さんも妹さんも苦労しそう」

 他の乗客の迷惑にならぬよう、電車の中で三人は笑いを堪えるに必死だった。他人事とはいえ、想像しただけで可笑しくてたまらなかった。

「そう言えば翠さん、電話でお父さんが昨日の夜花を……とか言っていなかった?」

「言ってた言ってた!」

 渡辺の問いかけに凰香と土井が声を揃えた。

「昨日の夜ってことは先生、実習帰りに花を買っていったってことだよね。でも今までこんな事、一度もなかったとも言っていたじゃない? 先生どうしたんだろうね」

「あのおめでたい連中の頭を見て、思い出したんじゃない? 今日は結婚記念日だってさ」

 土井と渡辺がそんなことを話しているうちに、電車は紙士養成学校の最寄り駅・桐生が丘駅に着いた。時計の針は午後五時を指している。駅から寮までは徒歩で十分あまり。このまままっすぐ帰ってもいいのだが、渡辺がここで提案した。

「もう帰って夕飯作るの面倒だから、少し早いけどこの近くで何か食べていこうか。お金もまだ残っていることだし」

「そうしようか。久し振りに青龍軒せいりゅうけんに行かない?」

「あ、それいいね。あそこのチャーハン美味しいし」

 土井と凰香も賛同した。青龍軒とは桐生が丘駅前にある中華料理屋のことだ。個人経営の小さな店だが、料理の味もよく値段も手頃なので、紙士養成学校の学生や学校関係者の行き付けの店となっていた。

 その様なわけで三人は青龍軒にやって来た。夕飯時には少し早いためか、店内には客が三人いただけだった。しかしこの先客、凰香達がよく知る人物だった。いたのは同級生ーー結城進ゆうきすすむ森田啓三もりたけいぞう、そして向井直哉むかいなおやだったのだ。テーブル席に座り、三人揃って夢中でラーメンをすすっている。

 だが彼らの姿を見て、凰香達は酷く驚いた。普段の学生らの行動範囲などたかが知れており、駅前の飲食店で同級生と鉢合わせすることなど、少しも珍しくない。意外だったのは彼らの頭だ。頭にあるはずの「ある物」が綺麗さっぱり消えていたのである。

 凰香達が来店したことに彼らも気付いた。結城は「よう」と一言呟き、向井は嬉しそうに小さく手を振った。だが森田は一瞥しただけで、すぐに視線を下へ向けてしまった。そんな無愛想な態度が気に食わなかったのだろう。渡辺が意地の悪そうな笑みを浮かべて言った。

「あーら森田君、どうしたの? 真っ赤なチューリップ」

 渡辺の強烈な嫌みに、森田は口に含んでいた鳴門巻を危うく吐き出しそうになった。

「渡辺、てめえなあ!」

 森田がむきになって立ち上がっても、渡辺は態度を改めない。それどころかカウンター向こうの店主夫妻に、

「ねえおじさんおばさん、聞いて聞いて。森田君ったら昨日ねーー」

 と、身を乗り出して教えようとする始末。流石に森田の「黙っていろ!」の一声で断念はしたが。

 それはともかくとして、何故彼らの頭上から「あれ」が無くなったのかは疑問だ。凰香と土井が事情を訊くと、向井がそっと囁いた。

「実は教頭先生が今朝男子寮に来て、あの花を取ってくれたんだなー」

 向井の話によれば、福原が朝の七時頃第一寮と二寮に来て竃乙女かまどおとめを説得し、全員の術を解除してくれたという。昨日の実習で竃乙女の罠に引っかかった学生は、散々恥をさらした。もうこれ以上恥をかかすのは可愛そうだということで、福原は山へ出かける途中で立ち寄ってくれたのだ。

「やっぱり福ちゃんは優しいね。それで今日の実習の方はどうだったの?」

 ここで凰香の質問に答えたのは結城だった。

「何とか全員合格点はもらえたよ。うちの班はこいつがもうちょっとしっかりやってくれれば、楽だったんだけどな」

 結城が睨むと、向井は隣の席でへへっと笑った。今日の野外再実習は午前九時から始まったが、終わったのは午後四時頃だったという。昨日の成果があまり思わしくなく、依頼者の期待に応えるためにも参加者二十三人全員で徹底的に超低レベル妖魔の駆除を行ったのだ。

「昼飯抜きで駆除して、もう腹減って死にそうでさー。無性にここのラーメンが食いたくなって、終わってすぐに駆け込んだんだよ」

 そんな事を漏らす向井を見ながら、凰香はふと思った。当然のことながら藍沢も彼らに付き合ったのだ。おかげで翠は実家へ帰ることが出来ず、自分達に色々話すこととなった。せめて実習が午前中にでも終わっていれば、今日翠からあのような家庭事情を聞くこともなかったーーと。

 土井がチャーハンを三つ注文しているのを横目で見ながら、凰香は急にあることを思い出した。

「ねえ……。確か結城君の家って、公認ショップやっていたよね。すると両親も紙士なの?」

「おうよ。親父が折士でお袋が染士。それがどうかしたか?」

「紙士の家庭で育って、何か困ったことはあった?」

 意表を突く質問に結城は一瞬きょとんとした表情を見せたが、しばらく考えた後こう答えた。

「ガキの頃よく店番やらされたけど、たちの悪い客がいてよ」

 換金のために妖紙を店に持ち込むフリーの妖魔狩人の中には、査定に不満を持つ者も少なくなかった。そうした常連客は、店にいたのが子供である結城だとわかると、強気な態度に出るのだ。勿論子供の結城に妖紙の鑑定など出来ないので、すぐに染士の母親が対応したが、買い取り額に納得できないと今度は「妖紙を紙解きして、妖魔を店内で暴れさせるぞ!」と脅す始末。警察沙汰になったり、父親が折妖を使って「お帰り」頂くこともあったという。商売をやっていれば、大なり小なりそうした接客上のトラブルは付きもの。だが、妖魔を暴れさせると脅迫されることは、紙士の家庭ならではに違いなかった。

「やっぱり紙士の家庭って、色々あるんだ……」

「相手を選ぶ時、考えなきゃ駄目だね……」

 凰香と土井が何について話しているのか、勘のいい森田は感付いたようだ。箸を置くと、まじまじと二人を見上げた。

「お前ら、いずれは結婚でもしようっていう気か? 諦めな。『漉士は蟷螂かまきり、折士は女丈夫じょじょうふ、されど染士は大和撫子』って言葉、知っているか?」

 これは紙士三役の女性の性格をたとえた言葉だった。「漉士の女は男を食い殺すほど気性が激しく、折士の女は気が強くてしっかり者、だが染士の女は淑やかで優しい」という意味だ。凰香達も陰で男子学生が言っていたのを聞いたことがあった。

「漉士の女は気が荒くて手に負えないーーそんなことは紙士じゃない普通の男でも知っている常識だぜ。そんな怪獣みたいな女と好き好んで一緒になるような男が、この世の中の何処にいるっていうんだよ、けっ!」

 あまりにえげつない罵詈雑言に、凰香も土井も頭の中が真っ白になってしまった。慌てて向井が「砂川さんは絶対大丈夫だから」と宥めても、気付かないほどの衝撃だった。

 森田にとって二人の反応は意外だったようだ。てっきり言い返してくるかと思っていたのである。流石の森田も追い討ちをかけるような真似はせず、今度はむすっとした顔でカウンター席に腰を下ろす渡辺の方へ視線を向けた。

「ま、土井と砂川は少しは可愛いところがあるから、可能性はゼロじゃないけどな。だが渡辺、てめえは無理だ。てめえみたいな勝ち気で憎まれ口は達者、しかも愛嬌の欠片もない女には誰も寄り付かねえよ。一人寂しく歳とって、養老院にでも入っていろ」

 おいおい森田、それは言い過ぎだろうーーと、言いたげに結城は森田を見詰めている。だがそれを言葉にする前に、渡辺は無言で席を立った。そんな彼女を気にもとめず森田は再びラーメンを食べ出したが、突如頭にひんやりしたものを感じた。何と渡辺が向井の水が入ったコップを手に取り、森田の脳天に中身をぶちまけたのだ。

「何しやがる、このアマァ!」

「こうすればまた綺麗な花が咲くと思ってね」

 不敵な笑みを浮かべて横に立つ渡辺。頭がずぶ濡れになった森田は立ち上がり、拳を振り上げた。が、正面に座る向井に手を押さえられた。

「まずいよ兄貴、暴力振るうのは。相手は女の子だよ」

「こいつの何処が女だ、何処が! この蟷螂がぁ!」

 無論、喧嘩を売った渡辺も負けてはいない。口喧嘩なら望むところだと言わんばかりにまくし立てる。

「やる気なの、この針金男! そんな細っちょろい腕で殴られたって、痛くも痒くもないわよ! 逆にこっちがその腕へし折ってやろうかい、えっ! ほら、悔しかったら何か言ってみなさいよ、竹節虫ナナフシ野郎! それともお望み通り食い殺してやろうか!」

 コンプレックスである体の細さを罵倒され、森田は完全に頭に血が上った。向井が背後に回り羽交い締めにしてもなお、暴れ続けている。あまりの醜態に店主夫婦も仲裁に入る有様だった。

「森田君、もう止めておいたら。あんたに勝ち目はないわよ。竹節虫が蟷螂に勝てるはずがないもの」

 土井は茶化すようにそんな事を言ったが、凰香はこの騒動をただ眺めていることしかできなかった。渡辺は一度言い出したら、たとえ友人に止められても引かない性格だ。気が済むのを待つしかなかったのである。一方の森田も癇癪持ちで、かっとなればすぐに手が出る。幸い向井が押さえ込んでいるので、殴りたくても手出しはできないが。

 そんな「癇癪玉」同士の喧嘩を目の当たりにして、凰香は思った。これは漉士同士が一緒になった時に起こる騒動バトルの「前哨戦」だと。引くことを知らぬ二人が一度争いを起こせば、こんな事になると。

 確かに自分は将来、誰と結婚するかはわからない。それどころか本格的な恋愛すら経験していない。だがこれで一つはっきりとわかったことがある。渡辺ほどではないかもしれないが、自分も負けん気が強いし、口も減らない。そんな自分が漉士の男性と一緒になったら、お互い不幸になる。だから少なくとも漉士の男性と付き合うことだけは止めようーーと心に誓った凰香だった。

 「紙士養成学校の日常」シリーズの第二弾、如何だったでしょうか。向井は明らかに凰香に気があるのに、凰香があの調子ではお付き合いするのは難しそうですね。彼は漉士にしては珍しいおっとりタイプなのに。

 さて、今回は出来れば鳳太が登場する話をアップしたかったのですが、時系列的にはこの話の方が先なので、次回に回しました。御覧になっておわかりになったように、今回の話、前回の野外実習編と繋がりがあります。また、前回登場した人物が、今回再登場したりメインで出てきたりしています。今後もこの傾向は続きますので、誰が出てくるのかはお楽しみに。

 次回第三弾は折妖トーナメント戦編を予定しています。それではまた。

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