9 大好きです
「ここで何してる」
「……何でもない」
「希、お前---知ってるのか?」
「知らない。何にも知らない!」
「待てよ。ちゃんと話そう」
「今更何言ってるの。話さなかったのは敬ちゃんじゃない。敬ちゃんが私を避けたんでしょう」
一度口にしてしまえば感情を押し込める術はない。秘密の扉は開いてしまった。感情のまま発した言葉は心の動揺をそのまま伝え、まともに音を発しない。震える声にうるさい心臓の音が重なり希は興奮状態だ。
もう無理かもしれない。
これ以上知らない振りなんて出来ないと冷静なもうひとりの希は気付いている。
明かりの消えた部屋でふたりはお互いの本音を探り合う。
「希が知りたいこと何でも言ってみな。全部答えるよ」
「ここに写ってる赤ちゃんは誰なの?」
「やっぱり、知ってたのか」
「誰も教えてくれないから、知ってるわけじゃないよ。でも、この子は私じゃない。そうでしょう?」
「そうだな」
敬の説明は大体あの男から聞かされた事と同じだった。
生まれた時から重い病を抱えた恵はほとんどの時間を病院で過ごしていたという。一時帰宅の許可が下りても病状は安定せず、家の中は常に緊張に包まれていた。当然母親は恵に付きっきりで優先されるのは恵のことばかり。病気で苦しんでいる妹はかわいそうだがやり切れない思いも感じていたという。
「家にいるのが息苦しかったのかな。友だちと外で遊ぶ方が楽だった。だから雨の日は大嫌いだったよ。恵を見てると辛くて悲しくなるから、てるてる坊主を何個も作ったんだ。酷いお兄ちゃんだよな」
あのてるてる坊主にそんな願いが込められていたなんて知らなかった。
誰も悪くないし、仕方がなかったのだ。
家族みんなが重い荷物を背負った気になってしまっただけのことだ。
「希……ごめんな」
「何?」
「俺たちはお前を利用したんだ。幼い命を救えなかった罪から逃れるために俺たちは希を利用したんだ。希に人生の選択を与える機会も奪って縛り付けてる。お前にはこの家を出て自由に生きる権利がある。だから俺は、」
「違うよ。敬ちゃんは考えたことはない? 妹さんが生きていて、元気に学校に通っていたら、私たちは親友になれたかもしれない。親友の家に遊びに行くのは自然なことでしょう? 私はそうして敬ちゃんと出会うの。そうして、恋に落ちるんだよ。出会いは別でも結果は同じ。私は敬ちゃんに出会って敬ちゃんを好きになるんだよ」
「希」
「お父さんとお母さんに出会えて良かった。敬ちゃんに出会えて良かった。いつでも私はそう思ってるよ」
両親を失い身寄りの居ない希の行く末など目に見えていただろう。
施設に預けられ、孤立無援で世間に放り出される未成年の将来が明るい筈もない。愛を知らず孤独な希の前にあの男が現れたら、許しと交換にあらゆる施しを要求したに違いない。人としての尊厳は失われ一生あの男の罪悪感に付け込み、寄生虫のようにまとわり付いて生きていくことになっただろう。
そんな人生を実の両親は望んだだろうか。
命さえあればどんな人生でも希望があると信じていたのだろうか。残念ながらそんなに賢くもなければ強くもない。人は楽な方向に流れたがるものだ。我慢すること、辛いことにも立ち向かう勇気を教えてくれたのは佐藤の両親だ。
「敬ちゃん、大好きだよ。敬ちゃんがお兄ちゃんでいてくれるなら、私はずっとこのままでいい」
そう、敬がそれを望むなら、希は妹としての人生を生きていく。
この世で二番目に好きな男と結婚して、子どもを生み、何も知らない振りをして佐藤家を離れていく。両親の面倒を敬に押し付けて、自分だけが幸せに暮らしていくのだ。
身勝手でわがままな妹を演じる。それが佐藤家のためになるなら、敬のためになるなら、希は喜んでそうするつもりだ。
「希」
「敬ちゃん、敬ちゃん」
言いたいことは山とある。
伝えたい事も数知れない。
けれど、どんな言葉も今の希に相応しいとは思えなかった。
言葉なんてその場を取り繕う道具でしかない。言葉でこの気持ちを100パーセント伝える事は無理だ。
以心伝心のように気持ちがシンクロする場面が子どもの頃には何度も起きた。
足の傷が痛む時、風邪を引いて熱が出た時、何を言わなくても側にいる敬は気付いてくれた。
同級生のいわれのない言葉に傷付いた希を慰めてくれたのは他の誰でもない敬だ。
心の中を洗いざらい全部見せなくとも敬は分かってくれている。そんな確信めいたものが希の胸を締め付ける。
やがて敬の胸にしがみ付く腕が解かれていく。希の掌を包む敬の手に力がこもり、持ち上げられたその手に敬はそっと口付けた。
「俺の気持ちはずっと変わらない。希は大切な……かけがえのない女の子だよ」
「敬ちゃんっ---」
この感情が間違いだと助言出来る人は世の中に大勢いるだろう。
今ならまだ引き返せる。一時の感情に流されて道を誤ってはいけない。希の中の常識が警告を繰り返している。けれどこの無骨な手を振りほどけない。インクの染み付いたこの手は何度も希を守り、やさしさで包んでくれた。
この手を離したくない。ずっと守られていたい。
だからあの男の事も未だに告げられないでいる。
「適当な男を見つけて出て行けなんて嘘だよ。何処にも行くな。ずっと、一緒にいよう」
「……」
うんと簡単に言えたらどんなに良いだろう。子どもの頃の無邪気な自分には戻れない。いろんな人の思いが交差して希の行く道に岐路が出来る。
みんな多くを望んでいるわけではない。
少しだけ幸せになりたいと願っているだけだ。
そんな気持ちを一笑して踏み荒らす権利が誰にあると言うのだろう。
何が正しい答えかなんて、誰にもわからないことだった。
敬にも希にもこの先に約束できることなど何もなかった。