7 追いかけてくる過去
重苦しい雰囲気の店内に挽きたてのコーヒー豆の香りが漂ってくる。
主が湯を注ぐと琥珀色の液体がコポリと音を立ててカップの中に落ちていく。店主が長年コーヒーを入れ続けてきた感覚で最高の味わい深いコーヒーが完成する。待たされた分だけ口にした時の喜びはひとしおだ。常連さんならばその人の好みに合わせて挽き方も加減してくれるに違いない。テーブルにコーヒーが運ばれると沈黙を破るように男は希に語りかけた。
「これ、高校入学のお祝いに用意したんだ。受け取って。高校は楽しいかい?」
うな垂れたまま希はこくりと頷く。
贈り物は今回が初めてではない。これまでも何度もあれこれと理由を付けて渡されてきた。開封しないまま押入れの奥に仕舞い込んでいるので中身が何なのかは知らない。きっと希のお小使いでは手に出来ない身に過ぎた品だろう。
「不自由があれば何でもいいから言って欲しい。君の為に援助は惜しまない。僕に出来ることがあれば何でもするつもりだ」
だったら、連絡なんてして来なければいいのに。
希はこの男に何も望んではいない。
今すぐ消えてほしいと願っている。
この男は自分のことしか考えていない。
自分の犯した罪から逃れようと必死になって、希に縋っているだけなのだ。
施しを受けたらその罪はなくなるのか?
希の死んでしまった実の両親は生き返ると言うのか?
答えはNOだ。
全部嘘だ。
全部、嘘っぱちだ。
それは、希の欲しいものじゃない。
初めてこの男と会ったのは中学の時だった。
希を見つけた時の哀れむようなその目つきに心臓がえぐられそうだった。
言葉にせずともその瞳は「可哀想な子」と訴えていた。
名刺を渡されて確認すれば今話題のベンチャー企業の取締役と記されている。最近業績を上げて大手企業から業務提携のオファーを受けて注目されている会社だ。こんな田舎の一中学生でも知っている会社の社長が何の用だろうと疑いもしたが、ご丁寧に弁護士まで付き添って来たのだ。軽々しく怪しいと口に出せない空気だった。運転手が付いた高級車は市内で1番のホテルに到着した。
男は何度も佐藤の両親に面会を申し込んだと言った。
その度に断られ、希に会う機会を逃し、長い間チャンスを伺っていたと言うのだ。
「君は誕生日が来れば15になる。もう、色んな事を判断できる年齢だ。来年は高校受験だよね。君は本当のことを知るべきだと思う」
真実を知ることが正義だと全く疑わない態度で男は話しを始めた。
それはドラマか、映画のような悲劇の物語で、そこに登場する女の子は確かに可哀想な子に違いなかった。
男の語る悲劇の物語を聞いている内に、いろんな事がパズルのように組み合わさっていく。
母親の異常なほどの過保護の訳。
父親が希と接する時の遠慮するような仕草。
何よりも敬が遠去かる理由。
「君がどうしているのかずっと心配で、ずいぶん探したんだ。ご両親は共に天涯孤独で親族が皆無だったから君は施設に預けられていると思ってあっちこっちの施設を尋ねてまわったよ。まさかこんな近くにいたなんて、晴天の霹靂だった。今のご両親は良くしてくれているの?」
男がどんな答えを望んでいたのかその時の希には分からなかった。
涙ながらに不幸だと訴えたら満足したのだろうか。義理母に苛められる可哀想な少女を救い出すヒーロー気どりだ。
希が覚えていない過去を詳細に話す男の目がギラギラと光っている。
そして物語には更に続きがあった。
佐藤一家は代々この地に住む地元民ではない。
サラリーマンの父親が郊外の新興住宅地にマイホームを建てて数年。引越先の慣れない地域で子どもは未就学児となれば付き合いもそんなに密ではない。生まれて間もない赤ん坊が‘入れ替わっても’誰も気が付かないに違いない。
そう、希はあの子の身代わりにこの家に貰われて来たのだ。
敬には元々希と同じ年の妹がいた。
その子は恵と言った。
生まれながらに重い病を抱え、それでも両親に愛されて懸命に生きていた敬の本当の妹。希が事故に遭ったあの日、命の灯火が消え入りそうな恵が緊急搬送された病院でふたりは偶然出会ったのだ。 残酷な運命に引き摺られ恵の命は助からなかった。
我が子を亡くし深い悲しみに暮れる一組の夫婦と、両親を亡くし天涯孤独になって生死を彷徨う幼い希。夫婦には喪失感を埋める何かが必要だった。希には生きる希望が必要だった。お互いにお互いを必要としていた。
恵がひっそりと身内だけで密葬された後に退院した希が迎えられれば全く不自然なことは何もない。そうして誰にも気付かれることなく希は佐藤家の子どもになったのだ。
真実を知ることが正しいことだと男は言った。
それは誰の為に?
希のため?
佐藤家の人々のため?
亡くなった両親には申し訳ないが、希はしあわせだった。
佐藤の家に貰われて悲しい思いをしたことはただの一度も無い。
真実を知る前まで、希はずっとしあわせだった。
過保護でやさしくて料理上手な母親。
家族のために一生懸命働いてくれるシャイな父親。
勉強も遊びも本気で付き合ってくれた敬。
どこの家庭にもある家族の形がそこに存在していた。
希の真実はただそれだけで充分だった。