6 罪と罰
これから語られるのはある男の懺悔の告白だ。
巻き戻しの効かない人生の、忘れることの出来ないある日の真実。
その日も何てことのない何時もと変わらない朝だった。
連日の残業に少々参っていたが、事業を一から始めて立ち上げた会社が忙しいのは当たり前のことだ。
すべての苦労はやがて実を結び酬われる。今はただがむしゃらに前に進むしかない。気だるい体も、霞む視界も、朝日を浴びればシャンとするだろう。男は栄養ドリンクを一気に胃に流し込んでYシャツの袖を通すと車のキーを掴んだ。
車の中から見上げた空は雲が覆い今にも雨が降り出しそうだった。
幹線道路が工事の為一車線規制のエリアに侵入すると、たちまち渋滞の列が伸びていく。交通量も多い一号線を避けて多くのトラックがバイパス線に乗って流れてくる。のろのろと進む前方を見つめていると自然と男の瞼は下りてくる。休憩を取るにもパーキングエリアは渋滞を抜けた遥か先の場所にある。誤魔化すようにガムをかみ締め、約束の時間が迫っていることに焦りを感じながら前方を見つめる。空からはいつの間にか雨が降り出してフロントガラスを打ち付けている。長く続いた渋滞が合流地点を抜け二車線に変わると再び進み出した。
アクセルを踏みスピードを上げると車は勢い良く走り出していく。
その先に新たな渋滞の列が待ち受けていることなど男は知るはずもなかった。
次に男が意識を戻した時には全てが起きて全てが終わった後だった。
エアバックが飛び出した運転席に挟まれて身動きが出来ない男の目に入るのは、煙を吐いて横たわる黄色いナンバーの車体。
男の車は中央線をはみ出して反対車線を跨いでいる。どうして自分の車がこんな事になっているのか理由が分からなかった。
何だこれは。
目の前に広がるのは無残な光景。
現実なのか、夢なのか。
真っ白になった思考は現実を拒絶してぼんやりと目隠しをする。
そんな時に聞こえた幼い子の叫び声。
ひしゃげた車から聞こえるその叫びは回りの人間を現実に戻した。
「生きてる! 生きているぞ!」
「救急車を呼べ! 早く助けないと!!」
サイレンの音とアスファルトを打ち付ける雨の音が頭の中を木霊する。
何がどうしてこんな事に---。
自分の運のなさに項垂れる男はその時はまだ事故に巻き込まれた被害者だった。
両脇を抱えられてパトカーに乗り込むと、雨から逃れた安堵と同時に一気に心が冷えていく。
「分かるよね? 中央線をはみ出して対向車にぶつかったのは、あなたの車だよ。居眠りしてたの?」
警察官の言葉に体の震えが止まらない。
軋むほど自分の体を抱きしめても恐怖が底から湧いてくる。
許されない過ちを犯してしまったのだと男はその時初めて気づいた。
男の人生は順風そのものだった。
地元でも名の知れた会社を経営する一族の長男に生まれ、何不自由ない生活を幼いころからして大切に育てられてきた。十分な教育を受け、親の期待にもそれなりに応えて挫折と言うものを知らずに過ごしてきた人生だった。
大学を卒業して地元に戻った男に父親は新しい事業を始めるように勧めた。
父親の会社をそのまま受け継ぐのではなく一からのスタートを切る。
それは期待され、信頼されているからこその提案だ。
資金は十分にある。何より父親の築いたネットワークを利用出来るのは他のベンチャー企業より10歩も100歩も有利だ。事業を成功させようと夢中だった。
思い上がっていたのかもしれない。
自分は大丈夫。まさか事故を起こすなんて、そんな馬鹿な事はあり得ない。万が一事故に遭うとしたらそれは被害者の立場だ。その為に安全面で保証のある高級車に乗り、保険を掛け緊急時に備える。まかり間違っても自分が加害者の立場になるなんて想像すらしていなかったのだ。
そんな奢りが事故を招いてしまったのかも知れない。
軽自動車の運転席と後部座席に乗っていた夫婦の人生は短く終わってしまった。
この先どんな未来を描いていたのか、男が知る術はない。
男が出来ることは罪を償うことだ。
法律に従い、刑を受け入れ、執行されてようやく苦しみから開放されるのだ。
それまでは罪に苛まされ続けるだろう。
男は自分の犯した罪の重さから逃れることに必死になった。
毎日夫婦の冥福を祈り仏前に頭を下げた。
事故以前に増して己れを律し、法律を重んじ、正しい人間であろうと努力した。父親が依頼した優秀な弁護士の弁護により、罪が確定してからもその気持ちは変わらなかった。
それなのに、刑期が終わっても、罪から逃れられなかったのだ。
どんなに祈っても、懸命に働き、慈善活動に携わっても、この思いは消えてくれなかった。
どうすればいいのか考える日々は続く。
どうしたら、自分の気持ちは休まるんだろう。
そればかりが頭の中を独占する。
そんな時に思い出したのだ。
あの幼い子の泣く声を。
あの子は今どうしているのだろう。
親を亡くしてたったひとり生き残った幼いあの子は、どうしているんだろう。
男は考えた。
男を救えるのはあの子ども以外にいない。
あの子どもの幸せな人生こそが男を罪から救い出してくれる。
あの子を探し出そう。
自分にはまだやれる事があるのだと使命感が湧いてくる。
男は縋る思いで弁護士の名刺を握り締めた。