4 忍び寄る影
大通りから少し離れた住宅街に建つ佐藤家の朝は静寂に満ちている。
雀の囀りや、野良猫の泣き声、あるいは自転車のブレーキ音が時々聞こえるくらいだ。
時折市役所から流れる地域放送が、雑踏のない静かな空気を断ち切り、ほんの少しだけ不安を煽る。
中学生や小学生を付け狙うのが目的なのか、不審者情報が後を絶たない。最近はそれに加えて行方不明者の捜索のお願いも増えている。近所付き合いも義務教育を過ぎれば薄れていく一方で、数件先のお宅にどんな人が住んでいるのかさえ定かではない。
どの家庭も他人と深く関わることをためらっている。適切な距離と家庭の中に踏み込まない暗黙のルールがより良い近所付き合いの秘訣だ。
行方不明のお年寄りが無事に保護されます様にと願うことしか希たちには出来ない。
「最近不審者情報が頻繁に出ているから希も帰りが遅い時は連絡頂戴よ」
「うん」
物騒な世の中になって母親は殊更希の身を心配している。
女の子だから仕方がないが、そんなに身の危険を感じたことのない希には大げさに思えて親馬鹿だなと思ってしまう。駅までの道は一本道で通りも多いし、街灯の明かりもある。冷静に自己分析をしてみれば見た目も全くパッとしない何処にでもいるダサい女子高生だ。クラスメートの中には化粧をして髪を染め、短いスカートで惜しげもなく足を晒している危険な予備軍がいるにはいるが希は違う。一度たりとも痴漢にあったこともない。
かわいいとは彼女の事を言うのだと友人の蒼井を見て希は思う。
ストレートの黒髪は腰の辺りまで届き、垂れ目寄りの目元には泣き黒子がある。全体に緩い雰囲気の彼女は女の子の甘くて柔らかいイメージそのものだ。これまでも沢山の男子から交際の申し込みがあり、何人かとはお付き合いをして充実した学生生活を過ごしている。けれどモテる子にはモテるなりの悩みも付きもののようだ。
駅から家まで帰って玄関を開けて振り返ったら、見知らぬ男が付いて来ていたと言うのだからビックリだ。そんな恐ろしい目に遭っているのに本人はケロっとしている。
性格が幸いして女子にも好感度抜群の女の子だ。この彼女の側にいると自分の女子力の無さを痛感する。努力以前に素質というものがあるとすれば、それらは完全に希を見放している。妬みなんて通り越して世の中の男子には是非彼女のかわいい姿を愛でてほしいとさえ願っている。蒼井と友だちになれたことは本当に感謝している。
足の怪我が元で運動が苦手な希は文化部に所属している。
文芸部なんて大層な名がついてはいるが、要するに読書クラブで、図書館で好きな小説を適当に読んで時間を潰しているだけのクラブだ。中には真面目に小説を書く生徒もいるが、残念ながら希に文才はなさそうだ。放課後の図書館でひとり静かにひたすら本と向き合う。苦難や悲しみ、喜びなど、様々な人の思いが物語の中に込められて、良い本に出会えば感動を沢山もらえる。どうせ読むならやっぱりハッピーエンドが良いと希は思っている。
悲しく辛いのは現実だけで充分だ。
適当に図書館で時間を潰すと各々駅に向かう。
沿線が混じり合う総合駅は色んな学校の生徒が通学に利用している。中でも鳳仙学館の制服は今時珍しいのか、学ラン姿がよく目に止まる。
「鳳仙学館の制服でしょう。格好良いよね。彼女いるのかな」
「今度のバレンタインにチョコ渡そうか」
「いいね」
見知らぬ女学生が囁き合っている。
制服に恋しているのか、中身の本人に恋しているのか希には判断がつかない。家に帰れば当たり前に目にするその学ランを特別恰好良いとも思ったことはなかった。
今年もバレンタインはやってくるのか。どこかの菓子会社の策略に嵌って踊らされている感は否めない。
敬はチョコレートがあまり好きではない。
飴やガムなど口の中で溜まる菓子は昔から好まない。どちらかと言えばクッキーとか、せんべい類の方が好きだ。プレゼントされた品を無下に付き返すことはしないが、口にすることは無く、いつも母親と希がおやつ代わりに頂いていた。
「こんな美味しいもの食べないなんて、敬は人生を損してる」
母親の言葉も全く意に介さず、喜んで食べるふたりを嫌な顔をして見ていた敬。
敬にとっては年に1度の愛の告白日は迷惑な日に違いない。だから希も母親もバレンタインにチョコを贈らない。父親と敬には硬く焼き上げたクッキーを渡すのが恒例だ。色んな型の型抜きを用意して母親とふたりして沢山のクッキーを焼く。バターの焦げる香ばしい匂いが台所に広がって焼きあがるのを待つ時間は最高にわくわくした。そして何よりも喜んで受け取ってくれる父や敬の存在が希を喜ばせてくれたのだ。
けれどもう、あんな日は戻らない。
あの時もっと気持ちを込めてクッキーを焼けば良かったと今になって後悔している。
ありがとうと日頃の感謝の気持ちを込めて一生懸命作っていれば、敬に気持ちが届いたかも知れない。終わりの日が来るなんてあの時は考えてもいなかった。
希には見せてくれない笑顔をふりまいて、嫌いなチョコを受け取る敬の姿を思い描く。
敬の手を掴めるのは敬のことを何も知らない彼女たちのような存在なのだ。
梅雨空の曇天の下、希は現実を突き付けられ逃げるようにホームに急ぐ。
その先に不穏な影が迫っているとも知らずにいた。
降り立った駅で話しかけられるまでその存在にまったく気付かない希だった。