3 ささやかな望み
学校から家に辿り着く頃にはすっかり辺りは暗くなってしまった。パート仕事に出掛けている母親はまだ帰っていないようだ。着替えを済ませてお風呂の準備をしようと希は階段を上っていく。母親がパート勤めを初めてから少しずつ家事の手伝いをするようになった。毎日繰り返される家事の仕事は本当に面倒だ。その面倒事を文句も言わずに365日こなしてくれる母親に感謝している。気が向いた時だけ手伝う希の行動が母親の手助けになっているかは疑問だが、やらないよりはやった方が気持ち的に落ち着くので希は出来る限り協力している。
台所に女がふたり立つと喧嘩になるのは、やっぱりそこが主婦の城だからだろう。母親が工夫して使い易い仕様にしてある物を、勝手にいじられたら、怒りたくなるのも無理は無い。
美味しくご飯を頂きたければ、口は出すべきではないし、手も出さない。まかせっきりの父親の作戦は案外正しい。
階段を降りると左足がズキズキと痛む。
小さい時に事故に遭い腿に傷跡が残っている。ミミズ腫れの生々しい傷跡は皮膚を盛り上げ今も当時の事故の大きさを物語っている。事故当時の記憶は失ったが、体の傷は決して消えることはない。
薄着になる夏になっても足の傷を隠すために長ズボンを履いて過ごしていたし、プールの授業は見学ばかりだった。おかげで希は泳ぎがまったく出来ない。回りから親馬鹿と言われても母親は頑なに希を子供たちの好奇な目から守ろうとした。
小学校低学年の頃は常に母親が登下校に付き添い重い荷物を持ってくれた。その役目はいつしか敬に代わり、前と後ろ両方にランドセルをかけた敬が常に側にいてくれた。少しだけ左足を引きずるように歩く希を理由を知らない子供たちは容赦なく言葉を畳み掛けてくる。
「変な歩き方」
「もっと早く歩けないの」
防犯目的に集団下校をしても希だけ置いてかれる。そんな時でも敬だけは希を見捨てないで側にいてくれた。やさしくて、頼りになる自慢のお兄ちゃん。
希は敬が大好きだった。
風呂場でスポンジを泡立て、浴槽をきれいに磨いていると、窓の外から雨音が聞こえる。また降り出してきたようだ。
小さいころはこんな雨の日が好きだった。
元気過ぎる敬は学校が終わればランドセルを放り投げて友達と外へ遊びに出掛けていく。希は置いてけぼりだ。だけど雨の日は家にいてずっと敬と一緒にいられた。
閉ざされた世界にまるでふたりきりのように居間のこたつに潜りながらふたりで時間を共有した。勉強していたはずがいつの間にかふざけ合って、先生の話をしたり、友達の話をしたり、トランプにボードゲーム、母親の手作りのおやつを食べて、時間はあっと言う間に過ぎていく。
「雨止まないなー」
「やまないね~」
軒下には敬の手作りのテルテル坊主がいくつもぶら下がっていた。小さな希の手には届かないテルテル坊主が風に揺れていた。
ふたりで空を眺めていても思いは違っていたのかも知れない。
敬が願う呟きと、希が願う呟き。
雨よ止んでくれと零す言葉と、降り続けてと願う言葉。
そんな希の身勝手な願いが敬を少しずつ少しずつ遠去けたのかも知れないのに、あの時の自分に教えてあげることは出来ない。
玄関でバタバタと音がする。
洗面所で濡れた足を拭きながら、まくれ上がったズボンの裾を手早く直していると不意に浴室のドアが開いた。
「あっ」
「お帰り、敬ちゃん」
「……」
降り出した雨に濡れたせいだろう。敬の前髪に雫が垂れる。希は慌てて引き出しからタオルを取り出すと敬の前に差し出した。
「今お風呂の湯を張り出したからすぐに入れるよ」
「だったらお前が入れば」
希の手からタオルをひったくるように奪うと、敬は浴室を出て行こうとする。冷えた体を温めるのは風呂に入るのが1番だ。希はありったけの勇気を振り絞り、敬を呼び止めた。
「風邪引いちゃうよ」
「……」
「敬ちゃん、もっと普通に話しをしてよ」
「普通ってなんだよ。希が欲しいのは何でも話してくれるやさしいお兄ちゃんなのか? それで彼氏が出来れば悩みを聞いてもらって解決して、自分は好きな男とさっさとこの家を出ていくんだろう? 後のお荷物は全部俺に押し付けて、希は幸せに暮らしていくんだよな」
「敬ちゃんっ」
「心配しなくても母さんの面倒は俺が見るよ。だから希は適当な男を見つけてどこでも好きなところに行けばいい。俺は心からそれを望んでる。だから、ナンパされてる希を助けなかった。それだけだよ」
吐き捨てて敬は二階の自室に去って行く。
やっぱり敬は駅での事に気付いていた。
敬の言うことは最もだ。
佐藤家の長男は敬で、跡を継ぐのは敬だ。
希はいずれこの家を出て行かなくてはいけない。嫁にも行かず、いつまでも居候をしていたらそれこそ迷惑を掛けるに違いない。
女子高通いの希に男子との接点は少なく、登下校にすれ違う男子が唯一出会いのチャンスなのかも知れない。そんなチャンスを逃せばお付き合いの機会は遠退いて行くばかりだろう。
「なんだ、敬ちゃんは、私のために無視したんだ……」
モテない可哀想な妹の未来を憂いて気を利かせたなら仕方ない。
笑って許してあげられる。
それなのに、笑えないのは何故だろう。
風呂場から漂う温もりと裏腹に心がどんどん冷えていく希だった。