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1 終わりの足音

 紫陽花に雨粒がぽたりと落ちる。

 ひとつ、ふたつと降りてくる。

 こころに積もる悲しみを溶かすように、ひとつ、ふたつ、空からこの地に降りてくる。

 それはやがて筋に変わり、止むことを知らぬように流れ出す。

 どれだけこの庭を雨で満たせば積もった悲しみはきれいに流れて消えるのだろう。

 紫陽花の葉に隠れて雨宿りするかたつむりに容赦なく雨は降り続ける。


 雨の日の外出は憂鬱だ。

 スカートは濡れるし、髪は湿気で重たくなるし、良い事なんて一つもない。傘を差すから荷物も増える。あまり体の大きくないのぞみにとっては宜しくないことだらけだ。昨晩から降り続ける雨を部屋の窓から恨めしく見つめていても止む気配はない。ため息をひとつ吐くと希はベットから降りて学校へ行く準備を始める。

 この四月で高校生になった希の通う学校は電車で15分の隣町にある。駅まで普段なら自転車通学だが、今日みたいな日は母親が車で駅まで送ってくれる。忙しい朝の貴重な時間を無駄にしてはいけないと、素早く支度を済ませて車に乗り込んでも車はまだ出発しない。エンジンが温まってフロントガラスが曇り出す頃ようやく助手席のドアが開いた。

 ひょろりと長い足を窮屈そうに軽自動車に押し込め、ショルダーバックを抱えてため息を零すその人を希は後の席から見つめる。


「シートベルトしなさいよ」


「はいはい」

 母親に気怠げに返事を返し、学生服に身を包んだ同乗者がベルトを掴んでカチャリと締めると、ようやく車は動き出した。それっきり言葉は紡がれず、車内には母親が好きなアーティストの音楽がBGM代わりに流れる。新しいアルバムが発売されるまでずっとこの曲が流れ続けるに違いない。繰り返されるメロディーはすっかり記憶にインプットされてしまった。それはこんな憂鬱な朝に似合わない前向きでハッピーな曲で、希は聞く度に何故だか泣きたくなる。うつむけば今にも涙が溢れ出しそうだ。厚い雲に覆われた空を見上げ続ける以外なすすべもない。だからなのかサイドミラーに映る希の姿はいつも空を見上げている。


 駅は送迎の乗用車で賑やかだ。玄関口に車を寄せて降り立つ人が後を断たない。


「気をつけて行ってらっしゃい」

 母親の見送りの挨拶も変わりはない。


「ありがとうお母さん。行ってきます」

 希が礼を言う間に兄のけいは素早く車から降りてドアを閉めるとさっさと改札に消えてしまう。母親は慣れっこなので何も言わず、希に手を降って帰っていく。

 この後パートに出掛ける母は自宅に戻って大急ぎで支度をするのだろう。もっと母親を労ってあげるべきだと希は常から思っている。それなのに敬の行動はあまりにも身勝手だ。

 兄の敬と口も聞かなくなって何年になるだろう。希が中学に上がった頃だろうか。昔は普通に仲の良い兄妹だった。ふたりでふざけて大笑いして、くだらないことで喧嘩して涙を流した。敬は何時だって家族の中心に居て、みんなを繋ぐ太い幹に違いなかった。そんな事が嘘のように今は他人より遠い存在になってしまった。

 敬は家族の誰にも心を開かない。

 必要最低限の言葉を交わすのみで自分の殻に閉じこもっている。


「思春期の男はデリケートなんだよ」

 父親はそう言って母親を慰めたが、それにしても期間が長過ぎる。反抗期なら当に過ぎていてもおかしくない。高校でもそれなりに新しい友達を作り、成績も落とさず毎日真面目に通っている。世間に対する態度は至って普通なのに、家族にだけ頑な敬は他人には理解できない悩みを抱えている。来年は大学受験が迫っているのに、何の相談もないようだ。


 希は考える。

 男だったら良かったのだろうか。

 妹ではなくて弟だったら、少しは敬の相談相手になれたかも知れない。軽いノリで冗談交じりに話しを聞いてあげられたら、少しは心が軽くなるかも知れないのに、何もしてあげられない不甲斐なさを感じるばかりでどうすることも出来ない。

 改札を抜けてホームに向かう後ろ姿を目で追いかける。回りより頭一つ抜けた長身の敬が階段を登っていく。希は追いかける事なくホームに昇るエレベーターを待っている。こんな日は子どもの頃怪我をした古傷がズキズキと痛むので無理はしないことにしている。同じホームから電車に乗り、同じ駅に降り立つのに、希は声を掛けるどころか、近付くことさえ出来ない現実を嫌でも思い知らされる。1番近しい家族なのに、敬の後ろ姿を遠くから見ることしか出来ない。

 ホームに着けば敬を見つけた友人が敬に近付いて言葉を掛けているところだった。敬は笑ってその友だちに答えている。演技ではない自然な笑顔をこの目に映したのは何時だったか思い出せない。


「敬ちゃん……ずるいよ」

 ちゃんと笑えるくせに。

 その笑顔を失って家族の団欒は夢物語に変わってしまった。

 不意に電車の到着を知らせるベルが鳴る。

 希は敬の姿をそれ以上瞳に映したくなくて、車両の最後尾の列に歩き出した。


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