論文発表会
「ねぇセシル。外が騒がしいんだけど、気のせい…なのかな?」
アメリカ合衆国のニューヨーク。そんな大都市にそびえ立つ巨大ビル。そこの最上階には、ある1人の少女が居た。漆黒の髪が静かに冷たい風に乗り、夜の闇よりも深い瞳には数多の光が写り込んでいた。
「あぁ、今日は論文の発表会が此処で開かれてね。君も行く?」
「行かない。論文って…『SR細胞』の事でしょ?」
「残念。行かなきゃいけない。これ義務なんです」
悪戯っぽく微笑むのは、セシル・ローソン。淡い金髪で、透き通るような青の瞳を持つイケメンだ。彼は理沙のお目付役でもあり、護衛でもあり、理沙の良き理解者でもある。
「じゃあどうして聞くの?」
「…夜景が綺麗だ」
「話を変えないでよ」
セシルはテラスを見た。そこからは、ニューヨークの美しく輝く夜の夜景が見える。様々な色のライトに車、人で賑わう「タイムズスクエア」、ライトアップされた「自由の女神」。もし田舎っ子が見たら、気絶するだろう。
否、もし都会に住み慣れる人間でも、こんな光景を見たら圧倒されるだろう。
「でもね、もし行かなかったら、僕が怒られるから。犬飼さんに」
「あの人か…。そもそも、危ないんじゃないの? 私が行ったら」
「大丈夫。犬飼さん曰く、『SR細胞』がどんなものなのかを、君にキチンと教える為らしいから。心配しなくても良いよ? 準備も抜群。ちゃんとした身分の者しか、論文発表会には行けないから」
理沙は不安だった。彼女は、世界中の生命の手綱を握っていると言ってもおかしくないかもしれない。
彼女の持っている「SR細胞」それこそが、人類の夢を実現するための近道なのだ。ちなみに「SR」というのは、斎藤(S)理沙(R)の略称である。安易なネーミングだ。その「細胞」についての論文が、今夜発表される。
「それだから怖いんだよ…何…ちゃんとした身分の者って…どういう基準なんだよ…」
「大丈夫だって」
彼女は、元々日本のごく普通の人間だった。それなのに、訳のわからない人達の中に入り込むだなんて無茶な相談だ。完全に無理ゲーだ。コミュ障な彼女にとって、かなり酷だ。
「犬飼さんも来るって言ってたな…」
さっきからセシルが連呼している「犬飼さん」というのは、犬飼光彦という国際連合の人だ。
あの病室乗り込み事件の後、彼女は犬飼さんに連れられアメリカに渡らせられ、この高層ビルの最上階に「幽閉」されているわけだ。
そして、毎日朝夕「50cc」の血をとられる。
「はぁ…犬飼さんかぁ…」
理沙は正直、あの人があまり好きではなかった。俺様主義で従わないとすぐに武力行使をしてくる強引な人だ。
「まぁ、大丈夫。いざとなったら僕が守るし。上司の犬飼さんであってもね?」
「セシル…」
セシルは良い人だ。一人この部屋で思い詰めていた時、優しく声をかけてくれた。おかげで理沙は、彼にのみ心を開くようになった。セシルは、兄のような存在だった。
彼と仲良くなる前は、ずっと黙って食事も碌に取らなかった。ある意味で救世主だ。
「分かった。行くね!」
「良かった」
セシルは優しく微笑んだ。そして理沙の腕をギュッと掴んで天蓋つきの大きなベッドから立たせた。途端、理沙の体はぐらつき、彼女はセシルに倒れ込んだ。
「だ、大丈夫?」
「うん、ちょっと…貧血気味かも」
セシルのポケットには、さっきとったばかりの新鮮な理沙の血が入ったカプセルと注射器が入っていた。此処に来てもう1ヶ月がたとうとし、注射はもう慣れたが、貧血になるのは一向に慣れない。
「一日一回で良いと思うのにね。あんまり君には無理させたくないよ」
「良いの。私の血でみんなが健康になるなら。ありがとうセシル」
「気をつけて」
彼の腕から離れ、理沙はゆっくりと安定を保った。また倒れたりしたら、セシルは国際連合に木をつけてやると決めていた。だがそれは叶わなかった。
一先ず、彼女は貧血が治ったようだった。
「ねぇセシル。此処って…ニューヨークだよね? 『自由の女神』とかあるし」
「そうだよ?」
一階へ降りるエレベーター。密室で男女2人きり。しかも片方は誰もが羨む超美形だ。普通はドキドキする所だが、理沙はそうならなかった。何故なら彼は兄だからだ。
エレベーターのドアが開いた。一階らしい。開いたドアの前には、誰かがいた。
「い、犬飼さん?!」
セシルは叫んだ。理沙は、驚くべきか迷った。そこには、いつも通りの仏頂面の「犬飼光彦」が居た。
「あぁ、来たのか。中々降りて来ないから、俺が直々に行こうと思っていた。だが、無駄だったようだな」
犬飼さんは吐き捨てるように言った。この人と会うのは随分久しぶりだ。声はよく聞いたが、実際に会うのは1ヶ月振り。理沙を此処に連れて来た時以来だった。
「来い」
「…はい」
この人は逆らえないというイメージが強かった理沙は、思わず返事をしてしまった。この人の睨みは、人を石に変える力があると言わーーげふんげふん。
「犬飼さん。これを…」
「あぁ」
セシルは犬飼さんに、麻薬の密輸入をするかのようにこっそりと血液の入ったカプセルを渡した。
「相変わらずだな『SR』。まだ血は赤いか」
「私を化け物みたいに言わないでください。それに、『SR』と呼ばないで」
「SR」は、細胞の名に加えて理沙のコードネームのようなものだった。セシル以外の人間は、全員理沙の事を「SR」と呼ぶ。正直、理沙はこのコードネームが嫌いだった。
それに、「まだ血は赤いか」というのは彼なりの嫌がらせだった。彼らは、理沙を何時暴れだすか分からない「化け物」のように接している。怖がっているのか、わざと機嫌を取ろうとしているのか。この言葉は、「何故まだ人間のように血が赤いんだ」と訳して良いらしい。
「生意気な口を聞くな。国際連合が保護していなかったら、お前は今頃、世界の何処かで監禁され、血を延々と抜かれ続けている事だろう」
「貴方って人はーー」
「い、犬飼さん! そろそろ、会場に行かなくてはいけないのでは?」
セシルが割り込んで来た。犬飼さんは顔をしかめた。だが、すぐに無表情に戻し、こう言った。
「来い」
「…」
理沙は、犬飼さんに黙ってついて行った。恐らくセシルは、助け舟を出してくれたのだろう。犬飼さんはかなり口が上手い。だから、もし彼が割り込んでいなかったら、きっと彼女は精神的に大ダメージを受けていたはずだ。
このビルは、実は超高級ホテルだったりする。だから、お客も勿論居る。ニューヨークの中で一番安全だと言われるこのホテルは、既に多大な権力により買収されていた。
会場は「パーティー会場」だった。世界の有力者や権力者が出たり入ったりしている。「論文発表」なのに、ドレスやスーツで着飾っている。
「此処が会場だ。好きにして良いが、論文の発表が終わるまで此処を出るな」
犬飼さんに背中を押され、理沙は会場に入ってしまった。セシルは心配そうな顔でついて来る
「大丈夫? あ、犬飼さんはもう行ったから問題ないよ。警備のチェックだって」
「…」
あの人はもう二度と姿を現さなくて良いーーと言おうとした理沙だが、その言葉をグッと堪えた。会場のテーブルには、たくさんの料理が並び、ウエイターらがお客にグラスや飲み物を運んでいる。今にも舞踏会が開かれそうな雰囲気だった。
奥にはステージがあり、そこにはプロジェクターが置いてあった。
「凄いね…パーティーだね…うわー」
「棒読みだよ。大丈夫?」
「大丈夫。うん」
「犬飼さんの事?」
「…まぁね」
理沙は会場の端っこにいくと、壁に背中をついた。壁と同化したい。
「あの人の性格は相変わらずだよね。でも大丈夫。僕はリサの事、『化け物』だなんて思ってないから」
「…ありがとう。やっぱり、セシルは優しいね。私なんかの味方してくれて」
「『私なんか』じゃないよ。リサは立派な人間。ただちょっと…ほんのちょっとだけ特別なだけ」
「…ありがとう」
早く終わらないかなーーと考えている矢先、犬飼さんが誰かを連れてやって来た。理沙の所へやってきた。
連れはもの凄い美少年だった。シルバーブロンドの髪にキリッとした顔。何処からどう見ても、神様が精一杯の愛情を注いで創ったような美形だった。
「SR、お客だ」
ポーカーフェイスな美少年は、理沙を見定めるように眺める。
「こちらは、『ガードン王国』の王子。キュロス・デッド・グロンド様だ。現在、お前を護る為の資金を多く出してくださると共に、『SR細胞』を研究している優秀なお国の王子だ。『ガードン王国』の陛下が、是非お前の会わせたいと王子を連れて来た」
「…自己紹介をありがとうございます、Mr.イヌカイ。私はキュロス・デッド・グロンドです」
「まぁ仲良くしておけSR。俺は会場の外に居る。何かあれば言いに来い。お前の血を追加で『100cc』寄越せば、解決してやろう」
そう言ってせせら笑うと、犬飼さんは会場から出て行った。
「ええっと…Miss.エスアール?」
「それは名前ではありません…」
「失礼。では、お名前をお伺いしても?」
「…リサ・サイトウです。王子」
理沙は、さっきから王子から目を反らして、つぶやくように言葉を発している。それを見兼ねたキュロス王子は、セシルに反抗の目を見せた。
「彼女は何処か具合でも悪いのですか?」
「まぁ、そうですね。…『コミュ障』と考えてもらって良いですね」
「せ、セシル…」
「何? 何処か間違ってでもいる?」
理沙は、セシルの言葉で口を噤んだ。ハイ、間違ってはいません。
「父上が、何故私と貴方を引き合わせたのかご存知ですか?」
「…いえ」
「まぁ、興味本意でもあうんですがね。そこで、一つ質問なんですが…」
キュロス王子は理沙の顔ギリギリまで迫った。
「こんな『幽閉生活』抜け出して、私のものになるのはどうですか?」
「…何をいきなり。私は少なからず、日本に『貸し出されて』いるだけです。別に、誰のものになるとか…どうこうではありません。それに、確かに『軟禁状態』ではありますが、私は外に出て危険な目に遭うよりは良いと思ってます。なので、お断りさせていただきます」
「…」
結局目は合わさなかった理沙だが、キチンと自分の気持ちは伝えられた。
「そちらこそ何言ってるんですか? 私は貴方が好きなんです。だから自分のものにしたいと言っている。別に、私は細胞とかどうでも良いんです。どうか、私のものになってください」
それを聞いた理沙の目には、大粒の涙が溢れた。小さく声を漏らすと同時に、涙も流れた。何が好き、だ。馬鹿にしてーー
「リサ?! 大丈夫?」
「…っ! あ、ごめん…大丈夫」
理沙は、自分の涙を急いで拭った。そして、キュロス王子の目をしっかりと見据えた。目を合わせるのが酷だったのか、彼女はすぐに目を反らした。
「王子、私は…誰のものにもなる気はありません」
理沙は唇を噛んでその場所を去った。正しくは、場所を移動しただけだったが。セシルは着いて来たが、キュロス王子は来なかった。
「リサ、大丈夫?」
「…うん。平気」
セシルに、王子をもう一度見る勇気はなかった。すると、一人の30代ほどのアジア人の女性がやってきた。手には、ジュースの注いである二つのグラス。
「こんばんはお嬢さん?」
女性は、理沙を見ると優しく微笑んだ。そして、グラスを一つ差し出した。
「私と少しお喋りしません?」
「…いえ、結構です。そんな気分ではありませんので」
それから、休む暇もなく色々な人に声をかけられた。「話をしないか」「一緒に飲まないか」などと、色々な理由で誘われたが、全て断った。そして、理沙が彼らの目を見る事はなかった。
「ねぇセシル…まだ帰っちゃ駄目なのかな…?」
「うん。でも、もう少しで始まるから。もう少しで」
「…分かった」
彼の言った通り、それから一分もたたないうちに、会場が薄暗くなり、ステージがに一人の男性が現れた。
『私は「SR細胞」研究の第一人者であるガイス・レアードと言います。どうかよろしく』
男性は笑顔で言った。マイクで拡張された声が、理沙には憎たらしく聞こえる。客達の笑顔で拍手も理沙の五感は感じ取った。
『では、今晩は「プレゼンテーション」として、「SR細胞」の素晴らしさと、その実用性をご説明いたしましょう』
拍手が会場に溢れかえった。
『では、まず「SR細胞」とは何か。皆さんご存知でしょうが、「SR細胞」は「不老不死」の細胞とも言われ、死んだ細胞や劣化した細胞を蘇らせる事が出来ます』
『老けてしまったご老人も、「SR細胞」で作られた薬を飲めばあら不思議! 若返る事が夢ではありません!』
『治療不可能と言われた病気も、切断しなければならなくなった足も、全て治るだなんて、素敵だと思いませんか?』
ガイス氏のプレゼンテーョンは、ほとんど理沙の耳には入っていなかった。気がつくと、発表は終わっていた。
それに気がついた理沙は、急いで会場から出た。
「ちょーーどうしたの?」
セシルの心配する声も耳に入らず、理沙はエレベーターに飛び乗った。最上階に着くまでの長い間、理沙は両腕を握りしめ、何かを堪えるかのように顔を下げていた。
エレベーターが最上階に到達すると、理沙は急に走り出した。そして、自分の部屋に飛び込み、そのままテラスへ一直線ーー。
セシルは気がついた。飛び降りようとしているーー。
理沙は、今にもテラスから身を投げようとしていた。急いで彼女の腕を掴み、部屋に引きづり込んだ。少々乱暴だったが、これで少なくとも怪我はしないで済むと思ったからだ。
微かに泣き声が聞こえる。理沙は、自分の顔を両手で覆った。
「…大丈夫?」
「…」
理沙は、差し出されたセシルの手を振り払って、ベッドに顔を沈めた。
「リサ、どうしたの? 話して」
「セシルは…セシルは、私の…味方、だよね…?」
多少途切れ途切れで声もかなり小さかったが、セシルは全て聞き取った。
「当たり前じゃないか。僕は、リサがどれだけ僕を嫌おうとも、絶対に君を守るつもりだよ?」
「本当に…?」
「本当さ。リサ、どうしたのか教えてくれないかな? 僕が全部受け止めるから。全部吐き出して?」
「…」
理沙は顔を上げて、セシルを見た。涙でぐちゃぐちゃになった顔を見て、セシルはギュッと抱きしめた。理沙が悲しいと、セシルも悲しくなってくる。
「もう泣かないで? 可愛い顔が台無しだよ?」
「本当に…本当に…セシルは私の味方なの?」
「そうだよ。…でも、どうしてもって言うなら…」
セシルは、理沙を離すと、懐からナイフを取り出した。そして、自らの腕に突き刺した。
「っ! セシル!!」
「これで…信じてくれた?」
彼の腕からは、血がドクドクと流れた。理沙は、すぐに刺さったナイフを抜いて、自分の手を切った。
「何をするの?」
「…効くか分からないけど…」
理沙は、自分の血をセシルの傷に垂らした。すると、ジワジワと、ゆっくりだが確実に傷は修成されて行った。理沙は彼の腕に包帯を巻くと、自分の手を見た。こちらの方が治されるのが早い。もう少しで傷一つない手になる。
「「す、凄かった…」」
二人は声を揃えて言った。
「って、何でリサまで驚いてるの?」
「だ、だって…成功するとは思わなかったし…」
理沙は、セシルの腕をまじまじと見つめた。セシルは優しく微笑んだ。
「手…大丈夫? 痛かったでしょ?」
「ううん。セシルの為だから痛くないよ。ごめんね、こんな事させちゃって…」
「大丈夫。リサが心を開いてくれるなら、何だってする。それで…教えてくれないかな?」
「あぁ…うん」
理沙は、少し悲しそうな顔をして頷いた。
「私ね、嫌だったの。あの人達が」
理沙はベッドに座った。セシルは、その隣に寄り添うように座った。
「私をしきりに誘うあの人達が。そして、あの表面上の優しさが怖かった」
「表面上の優しさ?」
「私を取り込む為の『仮面』。あの人達の目、もの凄く曇ってた。欲望に満ちてた」
「だから、目が碌に見られなかったんだね。ごめん、『コミュ障』とか言っちゃって」
「ううん。それは本当の事だから」
セシルは理沙を肩で抱いた。理沙は、セシルの肩に自分の頭を置いた。
「みんな、私が『SR』だと知って近づいて来る。自分の利益の為に。それが嫌だったの…」
「そうなんだ。ごめんね。気がついてあげれなくて」
しばらく無駄話をして、理沙はベッドに入った。何時も通り、ベッドの脇にはセシルが居る。
「おやすみリサ。良い夢を」
「おやすみセシル。今日は…ありがとう」