幸か不幸か
「ねぇリサ? 実は...この場所から移動する事になったんですよ?」
あの日から一年。理沙は、生きてさえも死んでさえもいなかった。毎日魂だけが生死の境を彷徨う。もはや声の出し方も忘れ、ただ蘇我さんに勝手に拷問をやらせているだけだった。
この一年間で、理沙は廃人と等しくなった。理沙は無だった。
拷問でさえも何も思わなかった。体に伴う激痛こそは変わらないが、蘇我さんに対する恐怖は感じなくなっていた。
「SR細胞」も進化していた。出来るだけ早く傷を治そうという意思がこの細胞達は強いらしく、何時の間にか傷が出来ると2秒も待たずに完治するまでに至った。
蘇我さんはそんな現状に飽きていた。
「飛行機でフランスに行きます」
チャンスだと理沙は思った。少なくとも、人が居る所なら逃げるチャンスが増える。
翌朝、理沙は目を覚ますと両手両足を縛られ、目隠しをされた状態で車の中に横たわっていた。頭は蘇我さんの膝の上に乗っている。
「大人しくしていてくださいね? あ、飛行場で逃げ出そうとなんて、したら...飛行場が木っ端みじんに吹き飛びますよ?」
「...」
ーー逃げ出そうとすれば、私以外の人間が死ぬ...。あぁ、それならまだ続くのか...この地獄は。
「所々に爆弾を仕掛けさせてもらっています。もし連合の連中が駆けつけて来てもドッカーンです」
あの人達はもう助けてくれない。だって、一年も待ったのに全然来てくれないんだから。理沙は正直、もう国も世界も信じてはいなかった。
理沙は知っていた。自分には、もし逃げ出した時の為に「GPS」が胴体の骨に埋め込まれている事。これは勿論、私の同意を得、麻酔をかけた上での手術だった。そして、それを知っているのはセシルと斉藤さんと犬飼さんと手術をした人だけ。
他の護衛には念の為、そのような事は知らせていないとセシルは言っていた。正直、それは正しいと思う。万一知っていたら、理沙は拷問最中に「GPS」も抜き取られていたはずだ。
「GPS」がある。それなのに何故、国際連合の人達は助けに来てくれない? 一体何故?
理沙は彼らにもう見捨てられたと思っていた。研究も十分したし、血だってたくさん蓄えてあるから、自分は無価値になったのだろうと本気で思っていた。
「フフ...では、あちらへついてからの遊びが楽しみです...フフフ...」
何時作ったのか分からないが、理沙のパスポートはキチンと用意されていた。正直、スーツケースに詰め込まれると思っていた理沙にとっては、飛行機のファーストクラスに乗れるというのはありがたかった。
検査だって何なく通過し、理沙と蘇我さんはとうとう飛行機に乗り込んだ。わざと監視カメラに映るように動いていたが、無意味だったようだ。
座り心地の良い窓際の席。今理沙の隣が蘇我さんなどではなくセシルだったら、一体理沙はどれだけ安心する事か。どれだけ心が開けるか。
理沙は窓から外を見た。車が動き、両手にライトを持って振る男性が居るーー。自由が羨ましかった。外に出ているというのに、これほど鬱な気持ちになったのは初めてだった。
「では、避難用の案内をご説明いたします」
美人のCAさんが通路に立って、シートベルトや呼吸マスクの説明を始めた。私はそんな事は全く聞いていなかった。全てが耳から耳へと通り抜け、何も頭に入らない。ただ、窓の外を見つめていた。
「では、そろそろ出発いたします。しばらくお待ちください」
CAさんは笑顔でそう言うと、去って行った。
理沙はとりあえずこの時間だけでも有意義に過ごそうと、目を閉じた。
「リサ、起きなさい。リサ!」
理沙が蘇我さんに叩き起こされると、飛行機は揺れ、乗客は混乱し、CAさん達はどうにか場を鎮めようとしていた。蘇我さんの顔には焦りが見える。
一体何がーー
「飛行機に異常があったらしいですね...これは、助からないかもしれません」
蘇我さんの言葉とガタンと大きな揺れが被った。途端、落下していくような感覚を覚える。
「リサ、もし犬飼さんにあったら伝えておいてもらえませんか? 『君の道具で遊んで、とても楽しかったですよ』と」
「っ!」
飛行機の屋根がはがれた。強い風が中へと入り込む。もしシートベルトを付けていなかったら、一瞬で飛ばされていた事だろう。
大きな衝撃音。恐らく、地面に不時着したのだろう。声はしない。理沙は咄嗟に隣に倒れる蘇我さんを揺すったが、反応はなかった。急いで脈を取る。ーー動いていない。
いや、死んだのは彼だけかもしれないという希望を持ち、理沙は乗客乗員全員の生存確認をした。だが、誰独り生きている者は居なかった。
空から照りつける太陽。久しぶりに踏んだ土。此処は森の中のようだった。
大勢の命と引き換えに、私は地獄から解放された。これはーー嬉しい事? 幸福でも不幸でもないこの出来事。
手に付くは血。凍てつくは足。自分の不幸と幸福と天秤にかけつつも、理沙は意識を失った。
『爺ちゃん、この子は大丈夫だと思う?』
『まだ息はしておる。それに、傷一つおってなんだ』
『そうだけどさ...』
声が聞こえるーー
『倒れてただろ爺ちゃん?』
『だから、無傷言うとるじゃろうが...』
背中の感触が柔らかいーー
『あの飛行機、どうしたんだろうね?』
『さぁの? とりあえず、山火事にならなかっただけ幸いじゃわい。ほれ、お前も埋葬に行かんか』
『俺は...この子の側に居るよ』
優しい声がするーー
『ジジイに力仕事させるとは、とんだわかもんじゃのうぅ...』
『良いだろ爺ちゃん』
『やーだもん。わしも此処に居るもん』
『ったく...』
理沙は重たいまぶたをゆっくりと持ち上げた。近くには、白い髭を生やしたヨボヨボの老人と、黒髪で青い目を持った健康そうな少年が居た。
「あ、起きた!」
少年は、理沙が目を覚ましたのを見ると歓喜した。老人はほうほうと頷いていた。
「あ、言葉分かるかな? エエット、コトバワカリマスカ?」
「...」
「やっぱり分からないのか...仕方無いなぁ?」
少年は笑顔で理沙を見つめた。本当は声が出ないだけで、少年の言っている事ぐらいは分かっているが、彼は見事に言葉が分からないと勘違いをしてくれた。
「ええっと、僕の名前はフェリックス・エクルストン。君の名前は?」
中学生ぐらいの日本人なら、とりあえず分かるような英語を少年は話した。だが、理沙は声が出せなかった。理沙は、どうにかジェスチャーで伝えようと、喉の辺りをさすって、口の前に片手を持って来て口のようにパクパクと開け閉めし、バッテン印を両手で作った。
「ええっと...喉にニワトリが居る?!」
「違うじゃろう...声が出せないのじゃな?」
老人の言葉に、理沙は大きく頷いた。すると、フェリックスは不満そうな顔をした。
「何だよ...お前声が出ないのか...」
「これフェルよ。この子を責めるでない。お嬢ちゃん、わしはレトル・エクルストンじゃ。このフェルーーフェリックスの爺ちゃんじゃ。この紙に、嬢ちゃんの名前を書いてくれんかの?」
そう言うと老人改めレトルさんは、理沙に羊皮紙と筆ペンを渡した。理沙は、「Risa Sito」と書いた。するとレトルさんは首をかしげた。
「はて? 日本人かの?」
理沙は頷いた。するとフェルは目を輝かせた。
「本当か?! えっと...リサ! 日本って、マンガとかアニメとか凄いんだよな?! 俺一度行ってみたいんだよな〜!」
フェルは理沙に詰め寄った。すると、理沙は声にもならない悲鳴を上げ、
「来ないで!!」
と叫んだ。
途端、呆然とする3人。3人共、声が出た事に驚いている。
「え...リサ? こ、声...出たんだ...」
「ほ、本当だ...出た...」
「リサ、お主は今まで声が出なかったのかの?」
「まぁ...色々あって...」
「なぁ、どうして俺に来るなって言ったんだよ。そんなに俺の事嫌いか?」
「...うん」
「そこは全力で拒否する所だろうがぁ!!」
フェルは怒鳴るとため息をついた。理沙はレトルさんを見た。
「あの…一体此処は何処なんですかね?」