Procyon
読み方:プロキオン
意味:先立つ者
リンはSSTO・JOURNEYにおいて、初めての死者だった。原因不明の高熱に侵され助けることができぬまま、宇宙の藻屑となって消えた。皮肉なことに、彼女はこの船の唯一の医者だった。そして、彼女の肢体が宙に浮かんでいた、あの瞬間。
彼女はまだ生きていた。
「最期の我が儘くらい聞いてくれてもいいだろう?」
笑いかけながら皆に問う。視線は家族の写真の貼り付けられた宇宙服へと向いていた。1枚1枚剥がしては眺め、また張り付ける。そんな作業をまる1日していた。
それはいつもより明るい日だった。いつもより太陽に近づいていたのかもしれない。とにかく、そんな妙に明るい日だった。
リンが少し散歩をしたい、と言い出す。おぼつかない足取りを支えるためにヒカルとアンリで両肩を抱いた。リンは部屋の前で止まると、少し待っているようにと言って中へと消えていった。ガサゴソと何かを探すような音が止むと、間もなくして彼女が出てくる。
「これを」
両手に1つずつ包みを持っていた。
右手の包みをヒカルに渡し「中継で使うように」と言った。左手の包みはアンリに渡し、そして囁いた。
「明日を耐え抜くために必要なものだけ残して、あらゆる過去を放棄しなさい……私のことも、ね」
ウィリアム・オスラーの受け売りよ、そう言って彼女は今まで見たことがないほどの柔和な笑顔を見せた。
そしてそれが医学を共にした師から弟子への最期の言葉になる。
彼女はまだ1度も使われたことのない宇宙服に身を包み、お先に失礼、と言ってキャビネットの中へと進んだ。ドアがしまる直前、彼女がなにか叫ぶ。
その口は5度動き、そしてつぐまれた。
「さようなら」
「ありがとう」
「あいしてる」
何と呟いたか聞き取れなかったが、アンリには判ったらしい。深く頷いて部屋を後にした。それを見送るように、アンリが部屋を出て数秒後、空気の抜けるような轟音と共にリンの身体が宇宙に舞う。くるくると前転するように投げ出される肢体。
窓に駆け寄り彼女の姿を探す。やけに明るい漆黒の広い空に不釣り合いな白い小さな塊。それはふわりふわりと宇宙を漂っていた。その姿はまるで風に吹かれて揺れるシャボン玉のようだった。
そんなことを考えていたら、気づかぬうちに頬が濡れていたことを覚えている。
次の日の朝見たアンリの瞳が赤く腫れ上がっていたことも。