Canopus
読み方:カノープス
意味:案内人
こんな風に必死で家から駅までの道を駆け抜けたのは、何年ぶりだろうか。予想以上に息苦しく重くなる身体に舌打ちをする。年だな、と弾む息に交えて呟いた。幼い頃はもっと速く走れた。だが、こんな状況下で全力疾走するなど考えもしなかっただろう、と自らを嘲笑う。そんな些細な思い出ですら、老いを感じさせる1つのピースでしかなかった。
振り返り、ため息をつく。辺りに知った顔は無い。荒い息をつく初老の私を怪訝な顔で見つめる人しかいない。かなり遠くまで来たようだ。少しくらい休んでも大丈夫だろう。
コンクリートの壁の中。息を殺すように密かに佇む寂れた公園。どこか自分と重なる気がして、私は足を踏み入れた。風でブランコが揺れている。腰かけるとギィギィと喚きながらも、規則正しく動き出した。
「ひかる!見てごらんよ」
指差された方向へと目を向ける。地平線を漂う白い雲。それを朱に近い橙に染める太陽。
今日はこんなにも良い天気だったのか。
久しぶりに身体中を包む生暖かい空気のせいか。はたまた眩しすぎる太陽のせいか。頭が少し鈍くなっているらしい。服の臭いのせいかも、と誰にともなく呟く。お風呂に入れば良かったと言う何とも安直な考えが頭を過る。そんな暇も余裕も先程までの私にはなかったと言うのに。
出来る事なら全て忘れてしまいたかった。すると彼女が笑いながら「忘れてしまえば良いじゃない」と言う。私はそんな楽天家な彼女の事を愛していた。だけど今回ばかりは彼女の笑顔も通用しないらしい。いつもの様に笑って相槌を打つなどできなかった。忘れることなど到底出来ないのだ。してはいけないのだ。
「出来るわよ」再度彼女が言う。「忘れてしまえば良いじゃない」
頭に少しの痛みを感じて私は小さく声をあげた。そんなこと気にも止めず、彼女は呟き続ける。
スベテ、ワスレテ、シマエバ、イイ。
耳の側で小さく別れの言葉が聞こえた。否。実際には頭の中で私がそう呟いたのかもしれない。
頭が熱くなる。耳鳴りがする。身体が震える。座っていることすらできなくて、ブランコから崩れ落ちた。地面から立ち上る冷気で私の身体がどんどんと冷えていった。目を開けるとぼやけた視界の中で歩き回る靴が見えた。ピンクの熊の靴と黒いエナメルのヒモ靴。泥で薄汚いスニーカーもあった。
鬼ごっこは終わり?
そう聞こうにも口は開くが言葉がでない。
薄れ行く意識の中、彼女の笑い声を聞いた気がした。