だから僕は捕まらない
こんな事で一人の人生が終わってしまうのか――と、女を殺してから一番最初にそんなことを考えた。
『一人』というのは、死んだ女のことではなく僕の事だ。
ヒトを殺した。だから僕は警察に追われ、『もしかしたら』よりもかなり高い確率で捕まって、実刑を受ける。
僕はまだ二十歳だというのに、それから何年も塀の内側で暮らして、人生を棒に振る。まあ、ヒトを殺したのだから当然だ。と、少し前までの僕なら考えたかもしれない。僕はちゃんと知っていた。ヒトを殺してはいけない事を。「なんで?」と訊かれても、自分なりの理由とか理屈を返せるくらいには知っていた。
ヒトを殺してはいけないことを。
なのに僕はどうやら、それをやってしまったらしい。
理由を持って。
理性を以て。
悪いことをしてしまうんだなぁ、とか思いながら。それでも殺してしまったのは、理由や理性があろうとも、やっぱり冷静ではなかったのかもしれない。そうだな、もし冷静だったなら僕にはヒトを殺す事なんてできない。そう確信できる程度には、僕は自分を知っているつもりだ。冷静じゃなかったから、これからの自分の人生をふいにしてでも、女を殺してやろうと思った。
だけど。
いざやってみれば、どういうわけか僕の中にあるのは、理不尽に対する怒りだった。
ヒトを殺した罪を問われる。
「は? なんでだよ」
衝動で近くにある物を蹴り飛ばしたくなった。でも、足下には死体くらいしなかったのでやめた。
それを蹴れない自分にまたムカついた。
「ムカつく」
感情の処理の仕方が分からなくて、
「なんだよ。死ねよ、あぁあああムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつくムカつく……」
吐き出した。
そんな風に感情を吐き出すしかない自分の弱さにも、またムカついた。
怒りは治まらなかった。
どうして、自分が罪に問われなければならないんだ。どうして自分が人生を無駄にしなくちゃいけないんだ。とまでは思わない。
だけど「どうして自分だけが」という怒りが溢れてくる。最初から言っているように、僕は理由無き殺人鬼ではない。僕は僕なりに、罪を犯す正当性を持っていた。善悪で言えば、僕は善行を積んだくらいに考えている。罪を犯してでも、僕は正しいことをしようとした。そんな風に思っている。
今まで出会ってきたたくさんのヒトを思い浮かべたとき――例えばこの女の行いを思い返したとき、何をしたかしていないかは別として、罪を犯したか犯さなかったかは別として、悪い事なんていくらでもしてきていた。
悪いことをしている奴は沢山いる。悪意を以て行動している奴は沢山いる。外道な奴は沢山いる。
沢山いるじゃないか。なのにどうして――僕は人生を無駄にしてまで正しいことをしようとしたのに――どうしてそいつらは、当たり前みたいに生きる権利を行使し続けているんだよ。
怒りの治め方が分からない。
仕方ないから、僕は自分を助ける方法を考えた。
僕は正しいことをしたんだ。
僕は悪い奴じゃない。
僕が、どこかでふんぞり返って生きてる外道を措いて警察に捕まるなんて間違っている。
だけど、間違っているものを誰かが直してくれるなんて、そんな期待は、もう僕には出来ない。出来ていれば、殺人になんて及んでいない。だからこそ、自分で自分を窮地から救い出す方法を考えなければならなかった。
周囲を見回す。
一戸建て住宅の一階のリビング。食卓用のテーブルに液晶テレビ、低めの箪笥には電話機と水槽が隣り合わせに乗せてある。二尾の金魚は、人間の死なんか知ったことではないという感じで、いつもと変わらず、不満足そうに狭い水槽の中で揺らいでいた。
薄情も何も、魚類に情なんてあるのかは知らないけれど。
しかし薄情な奴らだ、と思った。
こいつらに毎日餌を与えていたのは、リビングの入り口に倒れているこの女なのだろうに。
まあ。この金魚からしてみれば、食い物なんてのは、時間になれば天から降ってくるものであって、それを与えてくれるヒトだったり、大地の恵みや空から降る雨に感謝しながら食べている訳ではないのだろう。もしかしたら、こんなに狭い場所で、じろじろと鑑賞されながら生活しているのだから、餌くらい降ってきて当然だと思っているかもしれない。それはそれで面白い想像だな。現物支給のアルバイトみたいだ。
そんなことを考えながら水槽から目を離す。電話機の横には、はんこやボールペン、サインペンなどの筆記用具が少し置かれていて、女が倒れた拍子にいくつかフローリングの床の上に落ちていた。
他にはたいした家具がない。片付いていると言うべきか、簡素と言うべきか迷うところだが、あまり物が散らかっていない、きれいなリビングだ。
転がって頭から血を流す女を除けば、だが。
このまま逃げ出すべきか。それとも偶然を装って、第一発見者として警察を呼ぶか。
いや、しかし逃げたところで、僕が犯人だということはすぐにわかってしまうだろう。この女の身近な人間の行方が知れないとなれば疑われることは明白だ。だからといって、第一発見者を装うのは非常に危険だ。もはや「第一発見者がまさか犯人とは思うまい」という考えが新しい時代ではないのだ。寧ろセオリーを通り越してただの悪手とまで言える。そんな手を指すのは馬鹿らしい。僕は手を汚しこそしたものの、悪に手を染めたつもりはない。だからこそ最善手を探し生き残るべきなんだ。
ではどうするべきか。この片付いた部屋を眺めながら考えていると、以外と簡単に思いついた。
こんなに簡単に最善手なんて思いつくものだろうか、と少し不安にもなるが、まあ、答えを出す時なんてそんなものなのかも知れない。
解けないヒトにはいつまで掛かっても解けない詰将棋の設問も、気付いてしまえば一瞬で解けたりする。偶然すぐに気付いてしまう事だってあるのだろう。それに、時間を無駄に消費するのは、今の状況ではそれこそ悪手だ。ならばすぐにでも実行しよう。
僕が逃げても、逃げなくても疑われてしまうというなら、僕以外の誰かが疑われるようにすればいい。それが明確な個人ではなくとも。
通りすがりの強盗。
とか。
そんな架空の誰かでいい。
誰かが疑われれば、代わりに僕は疑われない。
はずだ。
そうと決まればあとは状況証拠を作りにかかる。
出来るだけ家中に物色した痕跡を残しながら。
まずは実印と通帳。
貴金属類は……邪魔になるからいいか。
財布。
あと金銭的価値があるものと言えばなんだろう。
まあいいか。あまり大荷物の強盗と言うのもおかしいし。適当な袋にまとめて入れて、リュックに仕舞い家を出た。玄関の鍵を閉め、家の裏側へ回る。一階の寝室の小窓。その鍵のある部分の近くを家の中から持ち出したレンチで殴った。一回で手が入るくらいのちょうどいい穴が空いてくれた。ガラスの割れる音なんて日中の生活音の中では、別にたいしたことはないけれど、一応誰かに見られていないか周囲に気を配りながら家を離れた。あとは適当なところに盗んだものを隠して、明日辺り、どこかのゴミ捨て場の燃えるゴミの中にでも混ぜて捨ててしまえば完璧だろう。
後ろめたい気持ちはあるけれど、僕は誰も罰しない悪人を罰しただけだ。正しい事をしたんだ。
正義の味方だって、架空のヒーローだって、悪役を殴るし、光線銃で撃つし、刀で切るし、そして殺す。
それと同じだ。
ヒーローは政治で動かない。
寧ろ自分勝手に正義を貫く。
法が悪を裁かないなら、誰かがその重荷を背負うしかないんだ。これから苦しめられる誰かを救うために。
誰かを救うために。だから僕は正しい事をしたんだ。
したんだ。
図書館で本を読んで時間を潰していると、右の太股が震えた。
ポケットに手を突っ込んでスマホを引っ張り出すと、父からの着信だった。壁に掛かった時計は六時の少し手前。普段父から電話が掛かってくる事なんてないので、恐らく事件についての連絡だろう。思ったより僕の所へ連絡が来るのが早かったな、と呑気に考えながら、しおりを挿まないまま本を閉じ電話に出た。
驚いて声が出ない、と言う自分を演じながら父の話を聞いた。しかしそれは、最後には演技ではなくなってしまった。
「お前にも今すぐ来てほしい、ダイイングメッセージが残されていた」
僕は諦めた。
「あーあ。完璧だと思ったのに」
まさか即死じゃなかったなんて。
死んだかどうか確認を怠ってしまった。やっぱりヒトは、何かを成したときにこそ、油断してしまうらしい。確か、リビングの箪笥からペンが何本か落ちて散らかっていたし――あれも強盗が部屋を荒らしたカモフラージュに使えるかと思ったのだけど、完全に裏目に出てしまった。
殺す瞬間も、もしも逃げられたりした場合を想定して覆面でもかぶっておくべきだったんだ。どうせ死ぬのだからと――死人に口はないのだからと、わざわざ顔を晒して、顔を合わせてから、レンチで頭を殴りつけた。
せめて後ろから殴り掛かればよかったのだけれど、なんか卑怯な感じがして出来なかった。まあ、不意打ちだって十分卑怯だと、冷静な今なら思えるけれど。
とは言え――僕は自分のしでかした事をちゃんと理解しているつもりだ、証拠が残っていたのなら、もう諦めよう。僕は正しいことをしたけれど。同時に法律を破ったんだ。ならせめて、反省の色を見せておくのがこれからの為って物だろう。ここで呼び出されて逃げるなんていうのは、罪を認めた上で、さらに誠実さにも欠ける対応だ。
それにしてもあの女、最後の最後まで僕の邪魔をしてくれるな。本当にムカつく。でもこれで最後だ。僕の人生最大の障害で足枷でストレスは今日でなくなった。
そう思えば、足取りも多少は軽いというものだ。
あとは出来るだけ誠実に対応すれば、そこまでひどい待遇にはならないはず。
歩いたり、信号で立ち止まったり、また歩いたりして、現場の泗水家の前まで来た。何台もパトカーが止まっていて、父が最初に僕に気が付いた。
「禄斗、こっちだ」
言われなくとも分かっている――なんて冷たい言葉を返す気にはなれなかった。
父の年齢は正確には覚えていないけれど、四十過ぎのおっさんが涙を流している姿というのは、中々に悲痛なものがあった。
その姿を作り出してしまったのが自分なんだと思うと、一層心が痛んだ。そしてまたムカついた。
なんであんな悪い女のために涙を流さなくちゃいけない人間がいる? どうしてお前なんかのために悲しむ人間がいる? なんで僕がそれで罪悪感を覚えなくちゃいけないんだよ。ふざけるなよ。なんなんだよ。
「君が泗水禄斗君?」
背広姿の男性に問われた。この状況なら、手帳を見せてもらうまでもなく刑事さんだと言うことは分かるけれど、そのヒトは丁寧に手帳を開いて見せてくれた。
暮置さんと言うらしい、写真と本人の顔を見比べてみる。目が大きくてアニメのキャラクターみたいだなと思った。そんなことを言って笑える状況でもないけれど。
しかし、こうして手帳を見せられても、警察手帳なんて見たことがなかったから、偽物か本物かなんて分からないなぁと、見当違いな感想が浮かんだ。もちろんそれも言わない――僕はそこまで喧嘩腰で生きてはいないのだ。
だから素直に両手を差し出して手錠を掛けてもらおうかと思ったのだが。
「辛いかも知れないけれど、君も確認してくれないかな。何か分かることがあるかもしれないから」
と、予想とは違う事を言われた。
なんだ。
僕は犯人候補として呼び出されたのではないのか。
もしかしてそのダイイングメッセージというのは、日本語の文章で書かれているのではなくて、何か暗号みたいな物になっていて、まだ解読できていないとか?
「状況から見て、空き巣に入られているところにはち合わせてしまって、鈍器で殴られて、って感じだとは思うんだけど……どうぞ」
と暮置さん。連れられて玄関から入る。
自分の家に上がるのに、他人から「どうぞ」なんて言われるのはおかしな感じだ。
リビングへ入り、改めて母の遺体を見た。
家を出たときよりも、かなり大量に出血しているようだった。そして手には油性ペン。
暮置に「誰か心当たりはあるかな」と促されて、床に書かれた文字を読んだ。
バシャバシャと金魚が音を立てている。お腹でも減ったのかな。
『犯人』
でももう、ご飯をくれるヒトはいなくなっちゃったな。
『くろ 長い かみ』
世話を焼いてくれるヒトも。
『外こく人』
意味もなく愛してくれるヒトも。
『40代 女』
本当に狡い。
なんでだよ。
誰だよそれ。
クズのくせに。悪い奴のくせに。どうして人間みたいなことしてんだよ。
意味分かんねえんだよ。