第8話:古の真実
彦丸の脳裏に、悍ましい予感が過った。
顔は青ざめ、肌は粟立つ。この世の終焉を前にしたような絶望しきった表情で、彦丸は――部屋を出る。恐怖に震える両足は思い通りに動かず、それでも焦燥によって鞭打たれた全身はときに壁にときに階段の手摺に身体をぶつけながら、前へ進む。
「おや、お客さん。もうすぐ夕食の準備ができるよ」
そんな言葉を聞いたような気がした。
だが、返事ができるほどの余裕がない。
老婦の言葉を無視し、彦丸はフロントを駆け抜けて宿から出る。
外は既に暗く、夜の帳が下がっていた。街灯や住宅街からの光の届かないここら一帯はすっかり静まっており、そんな中、大きな音を立てて扉を開いた彦丸はかなり目立つ。数少ない通行人から一斉に視線を浴びたが、それすらも意に介さなかった。
目的地は一つ。
場所は……多分、わかる。
しかし彦丸は、ここで方角を知らないことに気づいた。焦りが思考を阻害し、正常な答えを中々導けない。そんなとき、こちらを怪訝な顔で見ている通行人が目に入る。
「すみません!」
「は、はいっ!?」
「南の方角を教えて下さい!」
怒号にも似た彦丸の声に通行人は怯えながらも、ある方角に向かって指を伸ばす。
それを聞いた彦丸は、小さく感謝を述べると同時に脚部に魔力を込める。
全身から溢れる力を一点に収束。渦巻き、蠢き、流水たる己の力をこれでもかと言わんばかりに集中させるが、まだ足りない。一歩で辿り着く距離でもなければ、この両足だけでは到底辿り着けない目的地だ。もっと力を、何か手段を――。
「――飛べばいい」
次の瞬間、彦丸は飛んだ。
跳ぶのではなく、飛ぶ。両の足を勢い良く地面に叩きつけた反動で大きく宙空へと舞った彦丸は、そのまま地面に降りることなく空を滑空した。
地上の人間が豆粒に見える位置から、更に高度を上げる。
凡そ高度一万メートル。眼下には無限を思わせる雲海が立ち込め、頭上では自らの背を押すかのように月が浮かんでいる。薄れた空気に酸素補充が難しくなってきたところ、彦丸は与圧の存在を思い出して周囲の気圧を地上のそれに保った。
心臓から血液と一緒に送り込まれる魔力。それが脚部を伝い、足裏で爆発的な勢いに乗って射出されている。毎秒かなりの量の魔力が身体から抜けているが、まだまだ底は見えない。この燃費だと当分は持つだろう。
体温維持のために形成した魔力の服が、風圧によって千切れそうになる。
その都度彦丸が修復、改良を行っている内に、
「……見えた」
雲海を抜けた先にあるのは青海。
その切れ端に、彦丸の目指していた大陸――リィスエデンが顔を出す。
澄んだ空気を肺に溜め込みながら、彦丸はゆっくりと高度を落とした。月明かりが遠退き、雲とすれ違い、両足の存在理由である地面へと着陸。
「中心部の、遺跡だったか。……これっぽいな」
人の手が加えられていない大自然は、瓦礫の山としか思えない神殿に遮られていた。
いや、寧ろこれは自然と一体化していると表すべきか。伸びた蔦が屋根を固定し、苔が無骨な灰色の壁に緑の彩りを飾っている。入り口と思しき場所は洞窟のようにパックリと口を開いた瓦礫の横穴であり、似たような穴が幾つも点在していた。全ての穴が未知数であり、十歩足らずで行き止まりになるような道もあれば、どれだけ歩いても果てが見えない道もあるだろう。彦丸が迷うこと無く正解を導いたのは、一面の雑草の中、一筋の道だけが集中的に踏み倒されていたからだ。
先人の作った道を辿り、彦丸は遺跡へと突入する。
宿屋で読んだ本によれば、遺跡の最奥。
その直前の扉に守護者がいるとのことだが……多分、問題ない。
自身の中に宿る人類最強の力を信じる。これさえあれば、きっと守護者であろうが簡単に返り討ちにしてくれよう。この世界の常識に疎い彦丸でも、自らの内包する力がどれだけ異質なものかは自覚のあるところだ。
――確かめないと、いけない。
あの本の内容が全て、正しいのか。
そして、彦丸の予想が、正しいのか――。
思い出したくない。忘却の彼方へと追いやりたい気持ちで一杯だ。命を失うことで漸く手に入れた至高の日々だというのに、どうしてその名残が未だに身近に存在するのか。後悔や未練なんて欠片もないというに、何故消え去ってくれないのか。
「人の気配が全くしねぇ……ああ、そっか。一般人立ち入り禁止だっけか」
リィスエデンは、守護者との決闘場であるため、その人口がかなり低い。
本にも記述されていた通り、人類が束になっても勝てないような魔物の住処だ。しかも人類側が遠巻きに敬遠しているならまだしも、隙あれば守護者を打倒せんと日々研磨している。守護者が神殿の外まで行動範囲を伸ばすのかは不明だが、万が一刺激を与え過ぎて見境なく周りを攻撃し始めたら大変なことになるだろう。
そんなわけもあり、リィスエデンに人が住むとすれば外側の沿岸付近。
中心に近づくにつれ、自然と実力者が住まうようになっている。
しかし、真の中心部だけは人が住むこともなく、立ち入り自体が制限されていた。
現在、彦丸はその一般人立ち入り禁止区域を無許可で堂々と闊歩している。
許可なく守護者に挑むのは国が認めていない。守護者は楽園を目指そうとする者たちを感知すると行動を起こすが、そこから発生する危害は当事者だけで収まるとは限らない。守護者が挑戦者を撃退する際の余波がリィスエデンを震撼させ、無関係者にまで被害を及ぼせば……そう懸念した結果である。
世界が特別視する大陸の、更に特別な遺跡の、これまた特別な中心部。
月明かりと己の勘を頼りに進み続けた彦丸は、やがて巨大な扉を前にした。
「これまでに幾つか扉を見てきたが、これはスケールが違うな」
巨大であれば、そこに刻まれた幾何学的な模様の凝り具合も。
眼前にある両開きの扉は、目測で縦五メートル、横二メートル。表面には繊細な模様が刻まれており、彫りの深さで線の濃淡を表した、まさに芸術的な価値を見出だせるものだった。魔法陣のように様々な図形が幾つも重なっており、中心と外側に見たことのない文字が記されている。この世界に来て全ての文字が日本語に見えるようになった彦丸も、目の前の文字だけは読み取ることができなかった。
歩いてきた距離を考えても、この辺りが最奥でおかしくはない。
しかし……ならばこそ、疑問に思う。
「守護者が、いない……?」
或いは自分が見当違いの場所にいるだけか。
とは言え、目の前にある扉は他のそれとは一線を画する威圧感を纏っている。この先に何かがあると彦丸の直感が訴えており、にも関わらず警鐘が鳴り響かないことにひたすら疑問を浮かべる。
「先に、探知してみっか」
扉に触れるよりも先に、守護者の位置を割り出してみる。
身体に宿る魔力に、かつて作製した一つの指向性を持たせる。テンプレートと化したそれは呼べばいつでも発動できるものだが、今回は更に改良を加えた。
完成した紙粘土をもう一度溶かし、粗を直すと同時に新たな部位を追加する。
人型のシルエットのみならず、生命探知――生きているもの。もしくは動く気配のあるものを捉えるための魔法へと改良。
「――『叡智の凝望』」
大量の魔力の練り込まれた波紋が、放射状に伸びていく。
大気を這い、それは彦丸の想像しうる、遺跡の隅々まで包む。感覚的に遺跡の外にまではみ出たそれは、彦丸の意志によって侵攻を停止。範囲内の情報を拾っていく。
頭に流し込まれる情報から彦丸が気づいたのは、
「……どういうことだ。人どころか、何もいねぇぞ」
自分以外の生き物が、この遺跡には存在しないこと。
守護者は魔物だ。故に、それが生物でないわけがない。仮に違ったとしても、今回の魔法はとにかく"行動"の概念を読み取る形として行使されている。ロボットであろうが幽霊であろうが、問題なく探知できる筈だ。
守護者の不在――幸か不幸か、目の前の扉以外に宛がなくなってしまった。
異変を不気味に思いながら、扉に手で触れる。取っ手は存在せず、あったとしても全体のバランス的に彦丸の背では届かない位置になるだろう。というか、きっと人類であれば誰であろうと届かない。人以外の使用者を彷彿とさせるその扉にどこか神秘的な空気を覚えつつも、彦丸は扉を押す。
当然、扉はスケールに見合った重量を持っており、ビクともしない。
元々自分の肉体だけでは不可能だと予測していたことだ。次は腕に魔力を込めてみるか、と彦丸が己の体内に意識を傾けたところ、
「おぅわ――っ!?」
不意に軽くなった扉に、彦丸は勢い余って飛び出した。
呆気無く開かれた扉を頭から通り、大きく前のめりになって転ぶ。両掌が砂粒と擦り合い焼けるような熱に痛み、顔面には舞い上がった砂煙が被さった。
「痛ってぇ……けど、結果オーライ」
砂と埃を払い落としながら立ち上がった彦丸は、目の前の光景に気を引き締める。
何かが加護を与えているのか、あれだけ崩れ廃れていた神殿も、この一箇所だけは依然とその姿を残していた。風化しておらず、亀裂が走ってもおらず、砕け欠けている部分はない。先刻まで誰かが手入れをしていたかのような美しい整合性に、彦丸は遺跡よいうよりも、それを趣とした博物館を連想した。
そこにあるのは、翡翠色の球体だった。
祭壇にある台座に乗せられたそれは、彦丸の背丈より僅かに大きい。綺麗な弧を描く輪郭からはぼぅっと淡い光が溢れ出し、ガラスのような透明感かと思えば、球の中心ではまるで水に絵の具を垂らしたかのような模様が揺らめいている。
「これが、楽園の入り口……」
固唾を呑んで、彦丸は球体を見る。
一歩、祭壇へ伸びる階段を上がれば、水晶がその内側にある景色を映し出した。
霞がかった透明な膜の先に現れたのは、一つの世界の光景――楽園の姿。水面に揺蕩うような映像は、液晶画面のように光を帯びて周囲を照らす。
「……最悪、だ」
そこにある光景に。
水晶が見せる、楽園の正体に――彦丸はかつて無い絶望を味わった。
映像は不規則に場面を変えていく。大勢の人で賑わったどこかの駅前、灰色の高層ビルが森の木の如く連なる大都会、排気ガスを噴射しながら舗装道路を走る自動車とバイク。抜けるような青空を横切る旅客機。空から、大地から、水の中から、人の目から、様々な視点で楽園の有り様が映し出されている。
人を乗せる鉄の馬とは、自動車のことで。
全てを見通す不思議な箱とは、テレビのことで。
高度な娯楽文化とは、きっとテレビの他に、ゲームや漫画のことだろう。
確かにあの世界に魔物なんて物騒な化け物は存在しない。楽園の住人が出会うものは精々、愛玩動物か檻に閉じ込められた獣だけだ。この世界の誰よりも、彦丸はそれを知っている。……否、経験している。
見間違える筈がなかった。
人生の大半を過ごした場所だ。眼球の裏に焼きついたその光景は、例え忘れたくとも鮮明に思い出せてしまう。上辺だけの人間関係。人の機嫌を窺うばかりの社会。幾らでも替えの利く居場所。軽く、虚しく、存在価値を作ることもできず。生まれてきた意味の見つからない、最低最悪の世界。
「――楽園は、地球だ」
楽園は、彦丸にとって屑にも劣る世界だった。