第6話:楽園の在処
学園――思わぬ誘いに、彦丸は一考する。
数ある妄想の中でも、学園モノは頭一つ抜きん出て存在感が強い。
何時の時代でも、青春時代と言えば学生時代のことを差すものだ。同世代ばかりの学び舎は、異性を意識したり明確な好敵手ができたりと、人生を劇的に変える要素が盛り沢山である。少なくとも、勤労に身を費やすばかりの日々と比べれば。
斯く言う彦丸もまた、学生という身分は青春のためにあるとばかり思っている。
元の世界では、彦丸はあまり自分の将来に不安を感じたことがなかった。しかしそれは彦丸が生まれつき将来有望だからではなく、両親の育児放棄や、何よりも面白みのない日々に嫌気が刺していたのだ。だから勉強に対する義務感もないし、良い学校を出て良い会社へ……という未来への展望は端から持ち合わせていない。結果として創作物の世界にのめり込み、毎日のつまらなさを誤魔化すように過ごしてきた彦丸だが、それでも学校に通っていたのは偏に青春のためである。
「……そうだな。正直、学園には興味があるな」
「本当ですかっ!?」
厳密には、青春にしか興味はないが。
しかし、異世界の学園ともなれば純粋に気になってくる。剣と魔法の世界で学ぶものと言えば、当然剣と魔法だろう。頭を使うよりも身体を動かす方が重要な世界だ。魔物への対処法や、サバイバル技術など。実用的なものを学べるかもしれない。
そう考えると、案外学園生活というのも悪くないと彦丸は感じ始めた。
方程式を解いたり漢文を読んだりするだけの授業とは天と地の差がある。あれらを将来に役立てるのは難しいが、こちらの世界の学園ならば違うだろう。片っ端から学び、片っ端から実用する。知識欲と逞しさが直結するわけだ。
「ああ。ソフィアさえ良ければ、俺も学園に通わせて欲しい」
パァーっと、花の咲くような笑顔を浮かべるソフィアに只ならぬ愛苦しさを感じ、彦丸はそっと顔を背ける。鼻に熱が篭っているのは、赤い液体が垂れかかっている証拠だ。
「あれ、カリーナ? 何か泣いてないかお前?」
「……五月蝿い」
カリーナとて乙女。
姉から自分に発せられた感情が、乙女心による嫉妬だとはすぐに悟った。
敵意に近いその感情を他ならぬ実の姉に向けられたのはあまりにもショックであり、認めたくなくて元凶を自分ではなく彦丸に置き換える。
「それではヒコマルさん、学園の件は私に任せて下さい!」
「お、おう。まあ、その……お手柔らかに」
子供が遠足の準備をするように、今後の予定を立てるソフィア。
入学費やら推薦状やらブツブツ呟いているソフィアがやがてその口を閉じ、頭を落ち着かせたとき、彦丸は遮られていた質問を再び繰り出した。
「楽園って、何なんだ?」
瞬間――ピシリ、と世界が凍った。
楽しそうでいたソフィアは、その感情を顔に貼り付けたまま硬直し、姉の嫉妬に嘆いていたカリーナも、悲しみを訴える仮面を付けたかのように固まる。心なしか、木立へ降り注ぐ落ち葉までもがピタリと止んだ気がした。
「ごめんなさい。もう一回、言ってくれる?」
「だから、楽園って、どういう意味なんだってこと」
間断なく同じ質問をする彦丸に、カリーナは絶句した。
「アンタ、それ世間知らずじゃ済まないわよ」
「うぇ、マジで? でも事実として知らねぇからな……」
内心では焦った彦丸だが、ここで退くわけにはいかない。元々、都合上どうしてもこの世界の一般常識に疎いのは自覚している。森暮らしという設定はそれに余計な疑念を抱かせないための布石だが、これがどこまで効いているのかが微妙である。
この世界に来て、幾度と無く耳にしてきた単語――"楽園"。
キアランは、ソフィアとカリーナを救う目的としてその言葉を述べた。
二人を攫ったあの豚みたいな男の目的も、それらしかった。
そして、彼女たちもまた、その言葉を口にしている。
この世界において楽園というものが如何に重要なのかは、十分に理解している。
「森暮らしって、相当酷いのね……」
何故だか哀れみの視線を注がれる彦丸。
同じく同情するソフィアに彦丸は唸ったが、これを貫かないと色々と拙いので堪える。
「まあ、いいわ。教えてあげる」
「固まっていた割には普通に教えてくれるのな。いや、俺的には助かるけど」
「良く考えたら、アンタってそもそも存在自体がどこか常識離れしてるし」
「褒め言葉として受け取っておこう」
軽い。全体的に、この世界は軽いの一言に尽きる。
元の世界ではこうはいかなかっただろう。だが、それはあくまで心理的、状況的な観点から犯罪者を見分けるためのものが多い。こう言うのもなんだが、不審点や嘘などは犯罪者の十八番だ。個人の情報に踏み込むのも、それらへの対処法である。
他方、犯罪者以上に魔物という脅威に脅かされているこの世界はそれほど徹底していない。おまけに魔法という万人の持つ武器があるのだから、攻撃的な危機管理ができているというわけだ。自己責任がどこまでも通じる世界である。
「楽園の意味はわかるわよね?」
「そりゃあ当然。世間知らずとは言え、最低限の教養はあるからな」
苦行が存在せず、その者にとって良いこと尽くしである世界。
食べることが大好きな人間にとっては、食べ物だらけの世界が楽園となる。……まあ、そんな世界は御伽話でしか存在しないが。楽園を言葉として用いるならば、高級バイキングだとか、もっと現代的なシチュエーションに合わせて用いられる。
「かつて、私たちの知るこの世界から姿を消した一人の人間がいたのよ。当時、彼はとんでもなく強い人間として有名だったみたいで、その気になれば大陸を消し炭にする程の強力な魔法使いとして知られていたわ」
彼、ということはつまり、その消えた人物は男か。
「物騒極まりないな。……でも、消えたのか」
そこが重要なのだと言わんばかりに、カリーナは大きく首を縦に振る。
この話は常識なのだろう。ソフィアはうんうんその通り、と頷くものの、自分の知っている物語を改めて聞かされているようでちょっと暇そうだった。
「そこで、彼は自らの意識で姿を消したのではないか、と残された人々は考えたわ。そしてその考えは、すぐに正解であると証明される」
「どうやって?」
「彼が帰ってきたのよ」
その消えた人物とやらが直々に残された人々の考えを肯定したということになる。
淡々とした説明ではなく、ちゃんと歴史に準えた形だから分かりやすい。自分より三歳も年下の子に教わるのは少し恥ずかしいが……。
「彼は、この世界とは別の世界……異世界へ向かったと人々に告げた。そこには魔物がおらず、代わりに高度な文明や娯楽文化が発達している。誰一人として不自由な生活はしておらず、争いもない平和な世界。まさに楽園だと、彼は言ったわ」
「成る程。つまり、その世界が楽園ということか」
頷くカリーナに、彦丸は「ふむ」と楽園の有り様を思い浮かべる。
魔物という脅威がおらず、人類に役立つ道具の存在する世界。正直、ぱっとしない感じではあるが、中世ヨーロッパの世界観に生きる彼女たちとは感性が違う。
「最初は誰も信じなかったけどね。けど、実際に彼に案内された数人は、彼の言葉が全て真実であったと公言しているわ。でも……問題は、その後」
髪に引っ掛かった落ち葉を、手櫛で払うカリーナ。
坂も平坦になってきた。そろそろ山から出られそうだ。
「いつの間にか、その楽園への入り口に強大な魔物が生まれていたの。全盛期の彼ですら敵わない程の強さで、その魔物はまるで守護者のように入り口を塞いでしまった」
魔物の成り立ちを知らない彦丸は、カリーナの話に生えて出てくる魔物の図を思い浮かべてしまう。キノコのようにニョキッと生まれてくるその絵はシュール過ぎた。
「それから数世紀経ち、現在。守護者は未だ健在であり、守護者が現れてから楽園に辿り着いた者は一人も存在していない。何千、何万といった挑戦者が世界中から呼び出されて守護者の打破を試みているけれど、どれだけ手を尽くそうが突破できないの。それでも、魔物という脅威の影でひっそりと暮らしている私たちにとって、楽園は希望そのものだわ。……何度返り討ちに遭おうが、誰一人として諦めない」
楽園の全貌を聞いた彦丸は、己の勘違いに赤面した。
そういうことか……キアランやあの豚男が楽園を求めていたのは、純粋に希望を追い求めていたからだ。彦丸のように、ハーレムなどという下劣な望みではない。
「この世に生きる者として、守護者打倒は最大の目標よ」
はっきりと言い切るカリーナ。
とんでもなく強いというその守護者とやらは、どれほどの魔物なのか。もしかしたら、彦丸の持つ人類最強の力ですら太刀打ちできない敵かもしれない。
「私たちが攫われたのも、守護者を打破するためね」
「ん? 聞いてた限り、それとこれじゃあ繋がっているようには思えないが……」
「はぁ……予想してたけれど、アンタ私たちのことも知らないのね」
「いやいや、そこはほら。これから知っていくつもりだし」
ゆくゆくは、他人に知られてはいけないデリケートな部分まで知ってしまいたいと彦丸の煩悩が主張する。あんなことやこんなことまで語り合いたい。
「こう見えて、私たちはそれなりに強いことで有名なのよ。特にお姉ちゃんは一度、龍種を撃退しているし。私も私で、裏付けられた実力があるってわけ」
龍種……文字通り、龍を象った存在か。
話の脈絡からして、かなり強力な部類に属しているのだろう。
「ちょ、ちょっとカリーナ!」
「お姉ちゃんも、いい加減自分の功績は認めるべきね」
「でもほら、私あのとき暴走していたし……」
「事実に変わりないじゃない」
ほんわかとした姉妹の言い合いを傍目で見ている彦丸。
とんでもないシスコンであるカリーナだが、単純に姉に嫌われたくない一心ではなく、姉のためを思って行動しているようだ。姉のためなら多少の反抗は厭わないそのスタイルに感動を覚える彦丸だが、良く見ればカリーナの目尻が潤っている。
「ソフィア、あまりカリーナを責めるな。泣いちゃうぞ」
「は、はぁ!? 何言ってんのアンタ!?」
何のことかわからないソフィアが小首を傾げている傍らで、カリーナが目元を手の甲で擦る。口調とは裏腹にガラスのハートの持ち主のようだ。
「と、とにかく! 話を戻すけど、私たちが攫われたのはその強さが原因ってこと。私たちの力を使って守護者を倒そうと目論んだ馬鹿の仕業よ」
あの手この手を使ってでも楽園に行きたいわけだ、この世界の住人は。
この世界で安穏とした暮らしを手に入れるためには、そんな思想に同調しないといけない。やはり楽園と言われてもパッとしないが、今は頷いておこう。
「けど、お前らだって楽園に行きたいんだろ? だったら無償で協力してやっても問題ないじゃん。あの剣士も味方になってくれるだろうし」
「あのね、他人事みたいに言うけど、守護者との戦いだって命懸けなのよ。正直、守護者を相手に勝算なんて考えるだけ無駄だと思うけど、戦うならば万全の準備と頼もしい仲間が欲しいわね。……例えば、アンタとか」
「よせやい。俺ってばそこまで万能じゃねぇよ」
「どうだか」
自分の実力が正式に認められているらしくて、彦丸は喜びを噛み締める。
「でもよ、それならお前らが戦いを放棄すればいいじゃねぇか。あの剣士さえいなければ楽勝で逃げれるだろうし」
あの剣士は雇われの身だと推測できる。ということは、いつまでもあの豚男の味方ではないのだから、いずれは姿を消す筈だ。抑止力さえなくなれば、ソフィアもカリーナも簡単に逃亡できるに違いない。実力も備わっているみたいだし。
「そのための『隷従の証』よ。ほら、さっきアンタが壊した首輪」
「……ああ、あれのことか」
「物としては"隷従の首輪"だなんて呼ばれてるけどね。『隷従の証』は搭載されている魔法名のことで、対象者を術者の命令に絶対服従させる効果を持っているの。今では禁忌魔法扱いされているけど、裏ではご覧の有様よ」
豚男は問答無用でソフィアとカリーナを守護者へ立ち向かわせようとしていたらしい。
極悪非道と呼んでもいいだろう。彦丸の知る元の世界風に例えれば、嫌いなアイツを殺すため、罪のないそこらの一般人に脅迫して銃を握らせるようなものだ。一緒に金を握らせない分、こちらの世界の方が一層悪いような気もする。
「そんなに焦って行動するものかねぇ。守護者を倒せば誰でも楽園に行けるんだろ? 態々犯罪に手を染めなくても、来るべき時まで待てば良いじゃねぇか」
「それが生きている内とは限らないし、守護者が復活しないとも限らないわ」
そんなこと言ってしまえば、何から何まで想定に入れなくてはならない。
実は守護者は第一のボスで、やっとの思いで倒したと思えば第二の、第三の守護者が現れたり……とか。悪い方向なんてものは考えたらキリがないのだ。
「仮に、守護者を打倒できるくらい強い人物がいたとしてさ、ソイツが楽園に興味なかった場合はどうなるんだ?」
「楽園に興味ないってのがそもそも有り得ないんだけど……そうね。国どころか、世界が一丸となってその人物に守護者を倒すよう命ずるわ。最悪、首輪を使ってでもね」
「そ、そこまでするのか……」
「何世紀も前から続く世界共通の悲願だし、そんなものよ」
世界中の人間が夢に向かって一直線な奴ばかりらしい。
一人は皆のためにとはよく言うが、社会のために個人を棄てる哀れな世界を生きてきた彦丸にとって、カリーナの言葉は結構胸に響いていた。
「ヒコマルもかなりのやり手だし、もしかしたら国から声が掛かるかもね」
「それは……光栄、なのか? いや、光栄なんだよな」
「当たり前でしょ」
先の話で国の黒い部分を聞いてしまった気がする彦丸だが、カリーナやソフィアの態度を見るに、周知の事実であるようだ。楽園に行くための協力とは最早、世界中の人間に課せられた義務のようなものなのだろう。
「森育ちの世間知らずに、はっきりと言っておくわ」
すぅ、とカリーナが肺に酸素を貯める。
閉じた瞳が再び開かれれば、そこには真剣な眼差しがあった。
「いい、彦丸? ――この世界はね、楽園を中心に回っているの」