第1話:奇行の果てに
その日、田中彦丸はいつも通り奇行に走っていた。
朝早くに目が覚めた彦丸は、窓際から聞こえてくる小鳥の鳴き声を堪能しつつ、夜通し鑑賞していたアニメのことを思い浮かべながら、ふと閃いたのだ。
「……よし。そろそろ屋根伝いに登校してみるか」
何が"よし"なのか。何が"そろそろ"なのか。
ただ、昨夜鑑賞していたアニメの題材が忍者であったのが間違いだったのかもしれない。民家の屋根を転々と飛び移り目的地へ向かう彼らの俊敏さに惚れ惚れした彦丸は、中二病らしく「自分のああなりたい」と考えてしまったのだ。
今どき、創作物と現実をごちゃ混ぜにする馬鹿は世間一般で見ても珍しい。この物語に登場する人物は全て特別な訓練を受けています。決して真似をしないで下さい、なんてテロップが流れる筈もなく、彦丸は妙に意気込んで家を飛び出した。
取り敢えず自宅の塀に足を掛ける。
朝食を取ることもなく学生服に着替え、庭に飛び出た彦丸を止める者はいない。母親は既に保育園で保母の仕事に勤しんでいるだろうし、父親に至っては既に他界している。幼馴染も最近は顔を合わせる度に毒舌を吐いてくる始末だ。
塀の上に両足を乗せた彦丸は、膝を曲げ、反動を利用して一息に屋根へ移る。
ミシリと軋むような音がしたが、バランスは取れている。テンションが上がってきた彦丸は、舌なめずりをしながら屋根の出っ張りを掴んだ。
だが、その直後。
「うおっ!?」
一匹の白猫が、いきなり眼前に迫っていた。
今まさに一歩上がろうとしている彦丸には当然避ける術もなく、顔面に猫が落下。暖かいフサフサの毛皮が顔を包み、「フニャッ!?」と猫の可愛らしい声が聞こえたと思えば……彦丸は屋根から落ちていた。
田中家の庭に震動が走る。
芝生の上に落ちたため、音はそれほど立っていない。しかし彦丸は打ちどころが悪く、首に酷く重たい衝撃を感じたと思えば、すぐに気を失ってしまった。
やがて田中家に訪れた新聞の勧誘員が彦丸に気づき、救急車を要請するも、彦丸の首はあらぬ方向へ捻じれ曲がっており、その様態は一目瞭然。
担架に乗せられ救急車で運ばれた彦丸は、もう二度と戻ってくることはなかった。
◆
「……はっ!?」
本日二度目の起床を迎えた彦丸は、見知らぬ天井を前に狼狽する。
屋根に手を掛け、白い猫が落ちてきたところまでは覚えていた。その後の顛末も、薄っすらとだが覚えている。一瞬の浮遊感を味わった直後、首に猛烈な痛みを感じたところまで。そして目が覚めればこの現状というわけだが、一連の記憶が夢によるものでない限り、彦丸は実に不可思議な体験をしていることになる。
布団がなければ、ベッドの上でもない。
彦丸の背中は服を通して、冷たく硬質な床に触れていた。
「あ、起きた?」
混乱する彦丸の視界に、小さな顔が現れた。
自分以外の存在がこの場にいることに初めて気づき、飛び退くようにして上半身を起こす彦丸。それを首を傾げながら見つめてくる人影は、まだ幼い子供だった。白色の髪を結ぶことなく腰まで垂らしており、瞳は深海を切り取ったような蒼。白磁のように肌理の細かい肌は、彼女の将来が有望であることを示している。
だが、彦丸は目の前の子供の、双肩から生える一対の翼が気になっていた。
天使のような羽だ。頭上に輪っかはないから、天国からの使いではないだろう。
しかし人間に翼が生えるなんて突然変異は、今後そう簡単には起きない。
妄想で埋め尽くされた頭の中を必死に模索した彦丸は、ある結論を導き出す。
「もしかして、ここは死後の世界ってやつで、俺は既に死んでいて……ということは、お前は神様か?」
「おお、正解!」
「よっしゃ!」
自分のことのようにはしゃぎ回る神様らしき幼女に、彦丸もワハハと笑う。
どうという事はない。たまたま、彦丸の脳内に保存されている妄想話の一つに、今の自分の境遇に当て嵌まるものがあったのだ。
死後、天国にも地獄にも行く前に、神様に遭遇するというシチュエーション。
神様とは万物の長、世界の管理人様だ。無駄な時間なんて一刻もにだろうに、たった一人の死者にためにこうして時間を割いているのは、何かしらの事情がある筈。
そう、例えば……。
「……ごめんなさい。あなたが死んだのは、私のミスです」
このように、神様が不手際で人を殺しちゃったり。
楽観的に状況を捉えている場合ではないのだが、このとき彦丸の頭は既にお花畑状態だった。妄想と現実が一致する。その夢のような光景に、深く感動する。
「ちなみに、そのミスって何をしたんだ?」
「書類の上によだれ垂らしました」
「おおぅ。ある程度は予想してたけど、やっぱ酷いな」
目の前の翼を生やした幼女のよだれで死んだのだ。特別な趣向を持った輩ならば喜びそうな気もするが、その辺りは彦丸にしては珍しく正常である。
さて。ここで、次の神様の言葉が今後の鍵となる。
神様が死者を個人的に呼び出した理由は先程の言葉通り、誤って彦丸を死なせてしまったからである。人間と同じように考えていいかはわからないが、このような場合、大抵は謝罪と共にお詫びというものが与えられる。小学生くらいの子供ならば謝罪の一言で済む問題でも、眼前の幼女は神様だ。見た目に騙されてはいけない。
彦丸の知る創作物もまた、この神様からの"お詫び"が題材であった。
故に、神様が口を開くのを今か今かと待ち望んでいたが、それよりも早く、
「おーい、ダメ神ー!!」
第三者の介入により、彦丸の思考は一瞬停止する。
どこからか、方向的には神様の背後から聞こえてくるその声。
当の神様はというと、思いっ切り視線を逸らしてダラダラと汗を垂らしていた。
甲高い気の強そうな女性の声を聞き届け、彦丸は思わず――吹いた。
「ブフッ」
「わ、笑うなぁ!?」
つまるところ、目の前の彼女がダメ神なのだろう。
なるほど。確かに、よだれで人を殺すような神様には相応しい。
「駄女神か。いいんじゃね? 似合ってるし」
「駄女神言うな! 私にはヴィシテイリアって立派な名前が――」
「はいはい。わかったから、一先ず返事してやれよ」
「ぐぬぬ……へ、返事は後でするよ」
眉間に皺を立てる駄女神は、神様にしてはやたらとフランクな感じだった。
コホン、と態とらしく咳をして、駄女神は話の軌道修正を試みる。
「こ、今回の件のお詫びとして、あなたには異世界へ向かってもらいます」
「その世界は剣と魔法のファンタジーな世界ってことでおーけー?」
「え? ……あ、うん。おーけーだけど、何で知ってるの?」
「そりゃお前、今どき有り触れた設定じゃん」
「設定って、私知らないよそんなの……」
五十三万……とまではいかなくとも、彦丸の頭には相当な数の創作物が詰め込まれている。そんな前提で"有り触れている"というのだから、一般人からしてみればそうでもないのかもしれない。とにかく、彦丸にとって、今の状況は異世界転生モノというジャンルに酷似していた。特徴としては、ファンタジー世界に現実的な主人公を取り入れることによって自己投影の易さが売りとなっていることが挙げられる。反面、ファンタジーは設定を一から全て作れるため、現実に対する知識不足の隠れ蓑としても役立ち、それを見破った消費者側からは叩かれやすい。単純にファンタジーが好きならば主人公もファンタジー世界出身にしろよ、とは実にご尤もな意見である。
「まあ、俺は好きなジャンルだけどな」
自己投影大好き人間である彦丸にとっては、異世界転生モノとは大好物と言っても過言ではない。それに、こうして実際に目の当たりにしているのだから、ここで嫌悪感を抱こうならばモチベーションも下がってしまう。
「一応、その世界の説明についてだけれど……」
「科学の代わりに魔法が栄え、景観や政治体系こそ中世ヨーローッパ風だけど、生活様式は魔法のお陰で下手すりゃ地球よりも高度な世界だろ? 後は、人類の敵として魔物がいたり、魔法の源として精霊がいたり、オンリーワンの武器とか、使い魔とか」
「う、うん。最後の三つを除けば、まさにその通りだよ」
「マジかよ、ちょっと残念」
駄女神が顔で疲労感を訴えてくるが、無視。
これから赴く世界が自分の知識の通用する世界であることに、彦丸は安心した。
日頃非日常を妄想していた賜物として、如何なる状況であろうが飲み込むのは早い。彦丸は自分が今、まさに物語の主人公のような状況であることに興奮する。
「それで、私としては特典を与えようと考えているんだけど……」
「特典って言うと、要は特別な力ってことだよな?」
「そう。今のあなただと、転生先の世界で生き残れないと思うから」
勿論、この話の流れになることも彦丸は予測していた。
特別な力というフレーズには惹かれる部分がある。しかし、所詮は貰い物。仮にその力で成り上がろうと、神様から力を与えられたんだから当然ということになる。
とは言え、世の中は不平等、不公平が基本だ。
いつの時代、どの世界においても、物語の主役とは不平等な恩恵を手にしている。
寧ろ、そうした不公平な存在こそが主役と成り得る素質なのだ。
故に彦丸は……一切の遠慮をしない。
「一番いいのを頼む」
遠慮というか、自重がなかった。
彦丸は物事を深く考えない。自分に都合のいいことがあれば、裏を読み取ることなく食らいつく。そのせいで今まで何度も痛い目に遭っているのだが、反省はしない。
「それじゃあ、人類最強の力とかどう?」
「素晴らしい。あなたが神か」
「ふふん、その通り」
「駄女神だけどな」
無い胸を張る駄女神にボソリと呟く。
いつまでも座っていると様にならないので、ここで彦丸は漸く立ち上がった。
「あ、ちなみにさ。俺ハーレムも作りたいんだけど、何か貰えたりしない?」
「うーん……まずは、相手を知ることから始めたらいいと思うよ」
「恋愛指南じゃねぇよ。特典のこと」
「ああ、そっち? 残念ながらないけど、向こうの世界では強さが魅力に直結するから、人類最強の力を持っているなら十分だよ」
「なるへそ」
つまり、やりたい放題やっておけば、異性も自然と集まると。
彦丸にとってまさに最高の地――楽園のような世界だ。
「ちなみに、俺の知る異世界転生って二通りあるんだけど」
「えーっと……ふむふむ。そのままの状態で行くか、新たな生命として母体から産まれるか、の二通りってことだね? ヒコマルの場合は前者だよ」
「そうか。ところでお前、何だその、今理解したって顔は」
「ちょっとヒコマルの頭の中を覗いてみました」
「プライバシーの侵害だ」
神様の特権、というやつだろう。
もし赤ん坊から人生をやり直すのだとしたら、顔を美形にしてもらおうと考えていた彦丸である。そして髪は銀色を、瞳はオッドアイを希望していた。
「あ、じゃあさ。転生先は森にしてくれ」
「別に問題ないけど、何で?」
「いくら人類最強の力を持っていようが、知識はないからな。その点、森に住んでいたという設定を付け加えれば、世間知らずで誤魔化せるだろ?」
世間知らずが通らなければ、最悪記憶喪失で誤魔化すしかない。
彦丸の年齢は十五……この年にもなれば、世間一般の常識は身についていると考えるべきだろう。おかしな子扱いされないためにも、素性の設定は怠らない方がいい。
「後はほら、水浴びしている美少女と遭遇するかもしれないし。強力な敵に追い回されている美少女がいたら、俺が颯爽と助けて吊り橋効果で恋心ズッキュンみたいな」
「う、うん……一応、希望が叶うように善処しとくよ」
前半だけなら用心深いだけだったのに、後半の下心で全てが台無しだ。
苦笑する駄女神に、彦丸は更に要望を告げる。
「ちなみに転生の方法は、落下で」
「ら、落下?」
「おう。いきなり地面に穴が開いてさ、そこから森へ落とすようにしてくれ」
「……え、なに、新手の自虐ギャグ? そんなに落下が好きなの?」
「いや、そうじゃなくて。やっぱ雰囲気って大切じゃん?」
思えば、彦丸の死因も落下である。
にも関わらず落下を希望するとは、よほどの馬鹿なのか、自らの死に微塵も悔いを持っていないのか。彦丸からしてみれば、単に自分の知る創作物の主人公がそうであったからに過ぎないという、些細な理由だ。
「それじゃあ……ヘイ、カモン!」
右腕を駄女神に突き出し、指の根本をクイと曲げて待ち構える。
終始苦笑いだった駄女神は戸惑いながらも、要望通り……彦丸の足元に穴を開けた。
「うぉっほぉぉぉぉぉお――――っ!?」
奇声を上げて落下する彦丸。
眼下に広がる大自然の光景に彦丸はその口角を釣り上げる。
やがて、駄女神の視界からその姿は完全に消え去った。
◆
「堕女神ー! 聞こえてるんでしょー!」
ドタドタと聞こえる足音に、女神ヴィシテイリアは周辺に施していた偽造を解いた。他人からの関心を遮断する不可思議な力は働きを止め、すぐにこの一室の全貌は露見される。時間が足らず、床だけは偽造できていなかったが、幸い彦丸はこれといった違和感を覚えることもなく、この場を去ってくれた。
ヴィシテイリアと彦丸の立っていたその空間を、グルリと鉄の棒が囲う。
ここは"牢獄"。二人は、先程までこの檻の中で会話をしていた。
「罪神のくせに、無視するんじゃないわよ」
無骨な扉が開かれ、苛立った顔を見せる看守。
彦丸と話していたときとは打って変わり、ヴィシテイリアは無表情で口を噤む。
「変なこと、企んでいるんじゃないでしょうね?」
「……何もしていません」
「はっ。そう言って、また世界を壊すつもりなんじゃないの?」
どうせ疑うならば、最初から質問する必要はない。
否、看守は単に、罪神との掛け合いに愉悦を見出しているのだ。思う存分見下し、思う存分疑い、思う存分暴力を振るう。相手は手を出せないと知っているから、看守にとってヴィシテイリアは体の良い玩具だ。
「食事、ちゃんと食べなさいよ? 処刑前に死んじゃったら意味ないし」
「……ありがとうございます」
彼女にとって、処刑とは一種の見世物の類なのだろう。
足音を響かせ、看守が檻の前から立ち去ったのを確認すると、ヴィシテイリアは唇を強く噛み締めた。
「お願い。どうか、世界を救って……ヒコマル」
神として、本来なら伝わる筈のその念は……敢えて伝えない。
あれだけ楽しそうにしていた彦丸だ。ここで重大な使命を与えることは野暮以外の何物でもない。それに……どのみち、彦丸は背負うしか無いのだ。
ヴィシテイリアは、彦丸の行く末を祈った。