第9話:鉛色の世界
楽園の正体を理解した彦丸は、逃げるようにリィスエデンから飛び立った。
魔力のコントロールや、高度の調整も考えていない。ただ我武者羅に、あの光景から離れるためだけに彦丸は空を飛ぶ。真下に見える海原の荒波が自分の心情を表わしているようで、気味が悪い。迫り上がる胃酸を必死に押さえ込んだ。
夜空を突っ切り、視界の両端で雲が切り裂かれる。
額に汗を浮かべた彦丸は、再び宿屋へと帰還した。
「あらお客さん、夕食の準備は部屋に置いといたよ」
朦朧とする意識の中、狭まった視界では人影を老婦だと認識するのに遅れる。
語りかけてきた老婦に小さく会釈して、彦丸は部屋へと向かおうとした。
「ああ、それと。手紙を預かっていたわね」
「……手紙?」
「ええ」
一度カウンターの方へ戻った老婦に彦丸は苛立ちを覚えながらも、何とか表に出さないようにする。問答無用に当たり散らしたくはない。だが、下手に刺激されれば八つ当たりしてしまいそうな状態であるのは認めざるを得なかった。
「はい、これ」
老婦に手渡されたのは、この世界で見てきたどの紙よりも高価そうなものだった。
ギルドで配られた冊子よりも更に上等な紙……羊皮紙だろうか。平常であれば手触りを楽しんでいたかもしれないが、今は礼を言うだけで精一杯だ。
「お客さん、調子が悪いのかい?」
「いえ、大丈夫です……」
柄にもなく敬語を使う辺り、彦丸にしてはかなりの異常事態である。
見え透いた嘘に老婦も気づいた様子だったが、詮索は返って鬱陶しいと察したのだろう。それ以上は何も言うことなく、宿屋の主としての仕事に勤しむ。
老婦の心遣いに感謝しながら、階段を上る。
漸く部屋で一息つくことができた。
額の汗が全身に蔓延する。身体の至る所の毛穴が広がり、粟立った肌は外気に寒気を感じた。断絶した思考回路をなんとか呼び覚まし、ベッドに一直線に向かおうとする本能を抑制。腹が空いているから調子が悪いのだと、如何にも調子の良い考えを自己暗示のように脳へ訴える。すると、自然と空腹も感じてきた。
まだ暖かい夕食をガツガツと食す。
頬張った物が何かはわからない。ただ、美味しいことだけは理解できる。感じたことのない食感に箸が止まるのも一瞬、彦丸はひたすらに食べ続けた。
胃袋が満たされ、副交感神経が刺激される。
食事を終えた頃から眠気が押し寄せてきたが、反比例して混乱は落ち着いていた。
就寝する前に、まずは老婦から預かった手紙を開いてみる。
「……学園への招待状、か」
手紙は三枚に分かれていた。一枚目では、ソフィアが学園長へ彦丸を編入させる旨を伝えたこと。二枚目は手紙というよりも、学園側が発行した正式な招待状。そして三枚目は、この宿屋から学園への道筋を記した地図である。
クフェルト王立魔法学園と呼ばれるそこは、当然ながら彦丸の知る由ではない。
貴族の子息令嬢が通っているとのことなので、それなりに規模は大きいのだろう。
待ちに待った学園生活……本当ならば、興奮して眠れないところだ。
しかし、今の彦丸にとって、学園生活とは不安の種でしかなかった。
別の意味で眠れない夜がやって来る。
「どうするよ、俺……」
リィスエデンで見た楽園の正体は、どう足掻こうが真実そのものである。
認めたくはないが、楽園とは即ち、地球のことなのだ。
「何が楽園だよ、巫山戯んな……糞ったれ!」
単純な話、彦丸は――地球が大嫌いだった。
そこには数え切れない程の理由がある。親、友人などといった人間関係もあれば、国や社会などの枠組みそのものも。たかだが中学二年生というケツの青い年頃だが、良くも悪くも彦丸は想像力が人一倍豊かだ。連想し、推測し、仮定から生み出されるネガティブな結論は枚挙にいとまがない。
「あの世界は、面白くない」
刺激がない。未知がない。可能性がない。
失敗して踏み外せば矯正され、自ずと踏み外せば罵られる。一より全、自分よりも他人。窺い、譲歩し、自己犠牲こそがモノを言う世界――故に、自らを中心に添えてはならない世界。自己中心的という言葉が"悪い物"として認識されている以上、地球の住人は教育の過程で自分を世間の端に寄せることを強制される。
彦丸が自己中心的なのは、その風潮に対する反抗そのもの。
脇役で誰が満足するものか。ジコチュー上等、諦念して自らを隅に追いやる他の連中
が不思議でたまらない。そんなことして、一体何が面白いというのか。
地球は、その住人に敢えて面白くない道を渡らせようとしているのだ。
「あの世界は、生きている意味がない」
存在意義がない。生まれてきた意味も、使命もない。
両親は彦丸を愛していなかった。ともすれば、愛の結晶という理由で自分が産み落とされたのは有り得ない。しかし、かと言って他に彦丸を必要とする存在がいるわけでもない。どれだけ努力しようが、時間の金さえ注げば替えなんて幾らでも存在する。
不祥事の可能性を考慮して組み立てられた社会のシステムが、彦丸を苦しめた。
替えが存在するということは、自分でなくても構わないということだ。
それはつまり……必要とされていないことになる。自分にしかできないことなんて何もない。精々、社会の歯車の末端として生を浪費する日々が待ち受けているだけだ。
「それに比べて、この世界は……」
刺激がある。未知がある。可能性がある。
存在意義も、生まれてきた意味も、見つかるかもしれない。
魔物という人類の明確な敵。謎と神秘に満ち溢れた、様々な現象。
脳裏を過るは、この世界に来た直後の光景。駄女神に穴から落とされた彦丸が見たのは、幻想的で心躍るものだった。
元から妄想が叶ったという理由でもこの世界を気に入ってはいたが、それ抜きにしても気に入るようになった決定的な起因は、公爵家姉妹の救助にある。
あのとき、もしも彦丸が存在していなかったら、ソフィアとカリーナはどうなっていただろうか。剣士が転送陣を発動させ、黒スーツの男と姉妹はどこか遠い地へと逃亡していただろう。そして、隷従の首輪に縛られた彼女たちは、命令に背くことができずに守護者との戦いに駆り出された筈だ。
ただでさえ屈辱である上に、敗色も濃厚。彦丸が存在しなかったら、彼女たちはどうなったか。その答えは火を見るよりも明らかだ。
あのとき、あの場で、彼女たちを救えたのは彦丸の存在があったからである。
つまり、彦丸は――あの瞬間、確かに存在意義を有していたのだ。
他の誰にもできない、替えの利かない唯一無二の役割。中心から逸れた末端の歯車ではなく、他の何かを活かすための中心そのものの歯車と彦丸は化した。
求めていた"面白味"と"存在意義"があるこの世界。
言ってしまえば、彦丸にとってはこの世界こそが"楽園"である。
だが、他の誰かはそうは思っていない。
地球こそが楽園だと信じて止まず――そして、彼らはそこへ行くためなら如何なる手でも利用する。そこに善悪が入り込む余地はない。
「ソフィアもカリーナも、地球に行くための戦力として攫われた。なら、二人以上の実力を持っている俺が拉致されてもおかしくない。……公爵家の家系が攫われているくらいだし、カリーナの話もある。拒否権はないと考えた方がいいか」
国が一丸となって捕らえに来る。
最悪、隷従の首輪を使ってでも、守護者と戦わせる。
カリーナの言葉を思い出した彦丸は、そのあまりに妄信的な方策にゾッとした。
連中にとって、楽園とは絶対の存在なのだ。この世界は楽園を中心に回っているとは言い得て妙。そのためには、どのような犠牲も全て崇高なものと考えられる。
「だからと言って、俺が守護者を倒しちまえば……地球に、出てしまう」
それだけは嫌だ――と、想像した未来を拒絶する。
同時、彦丸は学園への招待状を、部屋の照明に翳して眺めた。
「カリーナの話によれば、学園は行事という形で楽園への挑戦を援助しているってことだ。となれば、生徒と楽園の関係が深くなるのは必須か?」
とは言え、どこにいようが彦丸の実力が露見してしまえば、守護者討伐に利用されるのは間違いない。寧ろ、木を隠すなら森の中とも言うし、学園に生徒として紛れ込んだ方が安全という可能性もある。世間体で高い実力を保持していると噂であるソフィアとカリーナの通う学園ならば、同程度の実力者も幾人かいるだろう。
「ううむ……冷静になれよ、俺」
先程叩きつけた枕の表面を撫で、心情に落ち着きを取り戻させる。
この状態で、未だに学園=青春モノだと考えている自分に喝を入れようとするも、それは長い間の積み重ねによって根付いた性。今更根絶できやしない。
いずれにせよ、好意を無碍にするのは後味が悪い。
それに、ソフィアは自分のことを慕ってくれている、謂わば彦丸を取り巻く物語において、ヒロインの立場にいる存在だ。自らを主人公に見立て、妄想がこの世に具現していることを意識してしまえば、どうしてもソフィアは蔑ろにできなくなる。
学園への招待を断れば、彼女との接点は消えてしまうだろう。
その場合、彦丸の妄想が一つ、砕け散ることになる。
地球への嫌悪感と、妄想の実現という下心。
二つの感情が彦丸の中で揺れ動くが、決着はすぐだった。
「取り敢えず、暫くは通ってみるか」
学園の生徒になると言っても、永遠に縛られるわけではないのだ。
自己満足が済めば退学すれば良いし、それまでにソフィアと確固たる絆を結んでいれば、二人して学園を抜け出しアバンチュールを楽しめるかもしれない。
下心の勝利に終わった、彦丸の回答。
だが、まだ最大の問題が残っている――。
「やるしか、ねぇかな……」
考えなしに彦丸が実力を発揮してしまえば、世界中から注目を浴びることになる。何せ、人類最強の力だ。歴史に名を刻むこと間違いなしの実力が保障されており、誰よりも強いということは……誰よりも期待されることになる。
だが、楽園という存在に嫌悪を抱く彦丸にとって、その期待は苦痛に他ならない。
楽園から遠ざかるには、守護者との戦闘に期待されては駄目なのだ。
つまるところ、守護者討伐を強制されない方法は、一つ。
「――無能を演じる」
守護者との戦いでは一切役に立たないと、他者に見せかける。
人類最強の力を隠し通し、どこにでもいる一般人を装ってみせる。
そうすることによって、楽園との関わりを遠ざける。
人類最強の力を悟られてはいけない。
目指すべきは寧ろ対極の立場――そう、落ちこぼれだ。
「ま、どうにかなるだろ」
どうにかしてみせる――。
似ているようで異なる決意を内心で浮かべ、彦丸は張っていた緊張を解いた。
妄想の果てに、夢にまで見た異世界生活だ。糞みたいな地球如きに、これ以上侵害されてはたまったものではない。自由に動けて、刺激を楽しめて、己の存在意義を見つけるための絶好の舞台で、どうして閉じこもっていられようか。
黒闇の帳が見下ろす世界――彦丸にとっての楽園は、ゆっくりと時を刻んでいた。




