1-4襲撃
親鳥が帰ってきたのは、すべてのカムフラージュが終わった直後だった。
魂も凍るような叫び声と、翼が起こす風音が聞こえ、俺達は息を止め、体を硬直させた。
卵の中に潜んでいるのを忘れて逃げ出したくなるほどの恐怖だ。準備が、あとほんの少しでも遅れていたら、卵の外で俺達は親鳥の餌食になっていたところである。
だが、まだ安心は出来ない。
親鳥が少しでも巣の様子に違和感を覚えて、卵をチェックしようものなら、俺達はその場で胃袋に収まるしかないのだ。
カムフラージュは万全のはず。とにかく徹底的に俺達の形跡は消してある。更に焚き火を誤魔化すために、周囲一帯の野原にも火をつけておいたのだ。
突然。
卵がごろりと転がされた。慌てて手足をばたつかせるグラーを、俺は後ろから羽交い締めにして押さえ込む。口を押さえることも忘れずにだ。
今、中に俺達がいることがバレたら、間違いなく食われてしまう。
卵が回転するのは想定内の出来事なのだ。鳥は日に数回、卵を嘴で転がす。それが行われただけのこと。グラーが俺の目を見て数回頷いたのを、状況を理解したと判断して、俺はようやくグラーを解放した。
親鳥は卵の中が俺達に入れ替わっていることに気付かず、卵の上に座ったようだ。これでハードルを一つ越えた。中身が無くなっていることに気付かれないかと、さすがの俺も緊張したが、飲み水を持ち込んでいることもあって重さに大きな変化はないはずなのだ。
ここを凌げれば、バレる可能性はほぼゼロだろう。
『あとは、朝になって親鳥が飛び立つか……別の動きがあるのを待つだけだ』
俺は、息だけで声を出し、グラーに話しかけた。
『べ……別の動き?』
グラーはおどおどした様子で、俺を見る。
下手くそめ。声を潜めているつもりだろうが、それじゃ聞こえちまうだろうが。
『しっ。声がでかい。俺みたいに息だけで話せ。さっき言ったろ。ヴェアバールどもだよ。おまえは黙って、様子を見ていればいい。ただ、ヒマだからって絶対に寝るなよ? イビキでも聞こえたら、親鳥に間違いなく食われるぞ』
『うひっ』
グラーは両手で自分の口を押さえ、卵の殻を透かす夕焼けの中で、何度も首をタテに振った。
数時間は、何事もなく過ぎた。
分厚い割に、不思議な透明感のある卵殻を透かして差し込んでいた夕日が消え失せると、卵の中は真の闇となった。しんと静まりかえった林の中、時折親鳥がごそごそと動く音だけが卵の中に響く。
俺達は、とにかく見つからないよう息を潜めていた。卵の中は広いとはいえ、二人で入るとかなり狭い。不自然な体勢で足腰が痛んだが、これは俺達の命を掛けた博打だ。
痛いの何のと言っていられないのだ。
だが、グラーはそろそろ限界のようで、もじもじと体を動かし始めている。普段から飲み食いだけは一人前でなかなか体を動かさないから、俺より体重がある上に、体力がない。
それでもグラーにしてはよく頑張っている方かも知れない。この状況がどれだけ危険か理解していなかったら、出来ないことだったろう。
(くそ……ヴェアバールどもめ。来るなら早く来いよ……)
少し読みが甘かった。
体勢がつらすぎるのだ。このまま朝を迎えるのは、グラーだけでなく、俺も体力的にきつそうだ。
この状況を打開できるのは、ヴェアバールの夜襲だけ。俺は、ほんの微かな音も聞き漏らさないよう、神経を研ぎ澄ませたまま、ヤツらを待った。
『ピシッ』
小さく枯れ枝の折れる音がした。それは、ほんの聞こえるか聞こえないかの音だったが、間違いない。落ち葉ならば風で動くこともあろうが、枝は風であんな音を立てたりはしないはずだ。
俺は体を強張らせ、グラーに合図を送った。
『おい、グラー、来たぞ。おい、おいったら』
いくら合図を送っても返事がない。
呆れたものだ。あれほど寝るなと言っておいたのに、グラーはいつの間にか寝入っているのである。このきつい体勢で、しかもこの緊張感の中で堂々と眠れる神経は見上げたものだが、今は感心している場合ではない。
俺は、グラーの口を手で押さえておいて、その尻を思い切りつねってやった。
『んー!!』
グラーは目を剥いて飛び起きた。
そして、自分の目ををのぞき込む俺の血走った目を見て、体を硬直させる。
『寝るな。と言ったはずだな? ラルギュースの餌にしてやってもいいんだぞ?』
凄みを効かせた声に、グラーはようやく俺の本気を感じ取ったのか、恐怖の表情を張り付かせてかぶりを振った。
『ご……ごめん……』
『まあいい。お客さんが来たみたいだ。打ち合わせ通りに静かにしてろ』
『お……お客さん?……ヴェ……ヴェアバール?』
『そうだ。そろそろ始まるぞ。だが、どっちが勝っても、最期に笑うのは俺達だ』
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、鋭く風を切る音が響き、ラルギュースが甲高い叫びを上げた。
ヴェアバールどもが矢を射かけたのだ。
親鳥の羽ばたきが聞こえ、飛び上がったのが分かったが、すぐに地響きが卵を揺らした。
飛び上がった直後に倒れたらしい。弓矢ごときで致命的な傷は与えられないだろうから、おそらく、前もって木の梢にロープを張り巡らせて飛び上がれなくしていたに違いない。
「殺せ!! あいつらの仇を討つんだ!!」
野太いしわがれ声は、聞き覚えがある。ヴェアバール一族の頭領だ。
周囲から一斉にあがる鬨の声と同時に、足音を響かせてヴェアバールの戦士達が駆け寄ってくる気配がする。火矢が射かけられたのか、卵を透かして赤い光がちらついている。
「…………ここまで圧倒的だとは思わなかったな」
俺はグラーに言った。もう声は潜める意味はない。
卵の殻に空けた隙間からそっと見ると、地面に倒れ伏した親鳥にヴェアバールどもが槍を投げつけているところだった。
槍で針ねずみになった親鳥は、しばらくは苦しげに翼を波打たせていたが、そのうち痙攣を始めた。
「まずい。おい、グラー出るぞ。ヴェアバールどもにカステラに手を出さないよう釘を刺さないと……」
「ええッ?! どういうこと!?」
「鈍いな。ヤツら圧勝したんだぞ? ここにあるモノは全部、戦利品にしちまうかも知れねえだろ」
嗅覚の鋭いヴェアバールが、地中のカステラに気付かないはずはない。
俺は卵の殻から抜け出すと、大げさに拍手しながらヴェアバールの頭領に歩み寄っていった。
「やあやあ頭領殿。実に見事な作戦でしたな。まさに圧勝。見事な敵討ちでした……ですが、亡くなられたお三方には心から弔意を表します」
「貴様か。よく情報を流してくれたの。おかげで敵討ちだけでなく、今冬いっぱいの食料まで手に入ったわ」
ヴェアバールの頭領は、俺の方を見もしないで言った。その憎しみのこもった目は、横たわったラルギュースの親鳥に注がれている。
仲間を食った怪物を、すぐに食料にしてしまうなど、さすが野蛮なヴェアバールだ。
「それは重畳。そこで、我々への報酬ですが……」
「そうだな。これだけの肉とカステラが手に入れば、お前らの肉を食わなくても冬は越せよう。命は助けてやる」
ヴェアバールの頭領は、冷酷な表情で言い放った。有無を言わせぬ威圧感。
だが、ここで退いては、俺達は備蓄食料の当てもないまま、厳しい冬を迎えなくてはならない。
「ご冗談を。カステラは私達が作ったもの。どうしてもご入り用でしたら、売って差し上げますが……」
「ふん。わしらがラルギュースを斃さねば、お前らはそのカステラを回収することも出来なんだのではないか? 命があっただけマシと思ってさっさと――」
言いかけた頭領の声を、突然の悲鳴が掻き消した。
ヴェアバールの戦士達から次々に上がった悲鳴は、次第に近づいてくる。その悲鳴に押されるように、黒い毛皮を持つヴェアバールがこちらへ向かって走ってきた。
「何事だ!! 戦士のクセに狼狽えるな!!」
「頭領!! オスです!! もう一羽いたんですッ!!」
そのヴェアバールの戦士は、言い終わると同時に、ふいっと空中に持ち上げられて虚空に消えた。
夜空には満天の星。
しかし、その一部分だけ異様に黒い。
その黒い部分がうねるように動き、ヴェアバールの頭領を咥えて呑み込んだ。
「うひッ!! ひゃ――――」
頭領の悲鳴が途中で途切れる。
「グラー!! 卵の中だ!!」
俺は叫ぶと、呆然と立ちつくしているグラーの肩をひっつかんで走り出した。
メスの危機に感づいて、オスが帰ってきたのだ。
手に手に槍を持ち、巨大な黒い影に立ち向かっていくヴェアバール達が、次々に悲鳴を上げて消えていく。いくら戦士とはいえ、無謀すぎる。ラルギュースのオスは、メスの二回り以上はでかいのだ。全身が黒で赤いトサカを持ち、口元から不気味な肉垂れを垂らした巨鳥は、胸に槍の雨を浴びながら一向に攻撃の手を緩めようとはしない。
どう見ても敵うわけはないにもかかわらず、それでも向かっていくヴェアバールは、バカなのか勇敢なのか。
俺は、過去に俺達の村を襲った悲劇を思い出していた。
あの時、五十人近くいた村人はすべて一羽のラルギュースに食い尽くされたのだ。ヴェアバールどもが食い尽くされるのも時間の問題だろう。
(……それに、ヤツは連れ合いを殺されてアタマに来ている。卵の中だって安全とは言えないな)
それでも身を隠せる場所は、潜んでいた卵の他にない。
俺達はヴェアバールどもに気付かれないよう、さっとフタを開けて卵の中に飛び込んだ。
『うぎゃあああ!!』
『ひいい!!』
『来るなっ来ないでっ!!』
頭領を失って総崩れとなったヴェアバール達は、ついに逃げ出したようだが、ラルギュースは攻撃の手を休めない。卵の周囲は阿鼻叫喚の地獄と化しているにちがいないが、殻を通して聞こえるせいか、それはどこか遠くの出来事のように俺達には感じられた。
「グーリ……どうしよう。このままじゃ俺達も食われちまうんじゃないかな……?」
殻を透かす外の炎に照らされたグラーの表情は、これまでにないくらい情けなく見えた。
「バカ。そんな声出すな。そんな顔するな。きっと大丈夫だ」
「いやだ。俺まだ死にたくねえ。だって、せっかく作ったカステラ、食べたいもの……」
あきれた食いしん坊だが、グラーの気持ちは痛いほど分かる。
ここまでなんとか生き延びてきたってのに、結局ラルギュースに食い殺されたんじゃ、俺達の人生、空しすぎる。
「…………逃げるか」
俺は、グラーの顔を見つめて言った。
「逃げる? 逃げるって……ここを出てどうやって?」
「出ないで、だ」
「え? え? え?」
「説明しているヒマはねえ。このまま四つんばいで走り出せッ!!」
俺がかけ声をかけると、グラーはわけも分からぬまま卵の中を走り出した。
俺達の入っていた卵は、ゆっくりと転がりだした。
卵は巣の上に置かれたままだったから、重心が移動すると、当然転がり出すわけだ。
どこに進むかも分からないまま、俺達は転がる卵の中を必死で駆けた。卵はすぐに勝手に転がりだし、回転速度について行けなくなったグラーが、ボールのように体を丸めて転がり出すと、俺も走るのを諦めて体を丸めた。
転がっている間は凄まじく長い時間のように感じたが、おそらく、十数秒のことだっただろう。激しい水音とともに卵の回転は止まり、俺達は頭をぶつけ合って目を回した。
どうやら、近くの川に落ちたらしい。
ラルギュースのオスは、卵のことまで頭が回らないのか、追ってきているは様子はない。
だが、これ以上の恐怖に耐える体力も気力も、もうありはしない。俺達はそのまま息を殺して、卵の船に揺られて川を下ることにしたのだった。