処刑まであと10分。とりあえず拳で解決いたします。
息抜きに処刑RTA話を書こうと思ったのに、
気がついたら主人公が拳で全部解決してました。
「――処刑は、十分後です」
鉄格子の向こうから告げられた言葉に、
エレオノーラ・ハイリヒベルクはしばらく瞬きすらできなかった。
地下牢にいると、時間の感覚が曖昧になる。
高い位置に設けられた小さな明かり取りの窓から、
わずかに白い光が差し込んでいるだけだ。
冷たい石壁に囲まれた牢の中で、
エレオノーラは粗末な寝台へ腰掛けたまま、目の前に立つ牢番を見つめた。
「……申し訳ありません。もう一度、お願いできますか?」
聞き間違いであってほしい。
そう願って尋ねたが、牢番はひどく言いづらそうに眉を下げた。
「国王陛下より、刑を直ちに執行せよとのご命令が下りました。
十分後、刑場へ移送いたします」
「……十分後」
「……はい」
エレオノーラは静かに視線を落とした。
両手首には、魔力を封じるための重い枷がはめられている。
身につけているドレスも、三日前に捕らえられたときのまま。
さすがに髪だけは自分で簡単に整えたものの、
腰まで届く金色の髪は普段のように美しく結い上げられてはいない。
こんな姿をセルジュが見れば、きっと心配するだろう。
そこまで考えてから、エレオノーラは小さく息を吐いた。
セルジュ・アウレリア。
アウレリア王国の王太子にして、八年前からの婚約者。
そして三か月後には、夫となるはずだった人。
――少なくとも、三日前までは。
◇
エレオノーラがこの牢へ入れられた罪状は、聖女殺害未遂だった。
三日前。
王城を訪れていた聖女が突然倒れた。
高熱にうなされ、苦しみながら彼女が差し出したのは、
一枚の刺繍入りのハンカチだった。
『エレオノーラ様に、これをいただいて……』
ハンカチの隅には、ハイリヒベルク公爵家の紋章が美しく刺繍されていた。
さらに、その刺繍糸には強力な呪詛が込められていたという。
聖女がそのハンカチを身につけていたことで呪いに侵され、命を落としかけた。
聖教庁はそう断定した。
しかし、その前提からしてエレオノーラには身に覚えがない。
「……私は、そのようなハンカチをお渡ししていないのですが」
これも、もう何度口にしたか分からない。
エレオノーラは刺繍が得意ではない。
もちろん王太子妃教育の一環として一通りは習っているが、
自ら刺繍を施したハンカチを聖女へ贈った覚えなどなかった。
そもそも、聖女とは顔を合わせれば挨拶を交わす程度の間柄だ。
個人的に贈り物をするほど親しくもない。
それでも、誰もエレオノーラの言葉をまともに聞こうとはしなかった。
聖教庁がハンカチに込められた呪詛を認定し、
国王ミヒャエルが拘束を命じるまで、あまりにも早かった。
何が起きているのか理解する暇すらないまま、
エレオノーラはこの地下牢へ送られたのである。
それでも、まだ耐えられた。
セルジュが戻れば、きっと動いてくれる。そう信じていたからだ。
彼は現在、辺境伯との協議のため王都を離れており、
一週間ほど滞在する予定だと聞いている。
帰還までは、あと数日。
セルジュならば、まず自分の話を聞いてくれるはずだ。
聖女が倒れたと知れば心配はするだろうが、
それだけでエレオノーラを犯人だと決めつけるような人ではない。
証拠を確かめ、関係者の話を聞き、そのうえで判断する。
セルジュは、そういう人だ。
だからエレオノーラは耐えていた。
身に覚えのない罪で罪人と呼ばれても、魔力封じの枷をはめられても、
牢へ閉じ込められても、感情的になってはいけない。
騒ぎ立ててはいけない。
次期王太子妃たる者、どのような状況でも品位を失ってはならない。
幼い頃から何度もそう教えられてきたし、
十二歳でセルジュと婚約してからは、なおさらだった。
それ以前のエレオノーラは、今とはずいぶん違う少女だった。
木を見れば登り、高い場所を見つければよじ登って、
下から止める侍女の声にも構わず平然と飛び降りる。
セルジュの手を引いて王城中を駆け回り、
ときには護衛の目を盗んで、二人で城下町へ冒険に出かけたこともある。
あの頃は、何をするにも楽しかった。
けれど、王太子の婚約者となった。
いつか王妃になるのだから、いつまでもお転婆な公爵令嬢のままではいけない。
そう言われれば、その通りだと思った。
だから走るのをやめ、木に登ることもやめた。
声を上げて笑うことも少なくなった。
代わりに、背筋を伸ばして美しく歩くことを覚え、穏やかに微笑むことを覚えた。
どれほど心が揺れていても、それを表へ出さずに相手の話を聞くことも。
八年かけて、エレオノーラはどこへ出しても恥ずかしくない淑女になった。
そのはずだった。
◇
「……それで、私は、あと十分で死ぬということですね?」
エレオノーラはゆっくりと顔を上げた。
牢番が苦しそうに頷く。
「……はい」
「セルジュ様は?」
「王太子殿下については、私には……」
「そうですか」
答えた声は、自分でも驚くほど静かだった。
エレオノーラは膝の上に置いていた手へ視線を落とす。
白い手袋だけは、牢へ入れられる際にも取り上げられなかった。
公爵令嬢として当然の身だしなみだと思い、
昔からほとんど外すことのなかったものだが、今は妙にその白さが目につく。
あと、十分。
たったそれだけしかない。
たとえ今この瞬間にセルジュが王都へ戻ってきたとしても、
自分が投獄されていることを知り、処刑を止めるまでには到底足りないだろう。
それにしても、なぜ今日になって突然執行が早まったのか。
昨日までは、処刑の日すら正式に告げられていなかったはずなのに。
それが突然、十分後。
その言葉を改めて意識した瞬間、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
不思議と恐怖はなかった。悲しみとも違う。
ただ、ひどく腹が立った。
自分は何もしていない。
ハンカチも渡していなければ、聖女を呪ってもいない。
それでも投獄され、魔力を封じられ、ここまで大人しく従ってきた。
セルジュが帰ってくれば、きっと話を聞いてくれる。
きちんと調べてもらえれば、いずれ真実は明らかになる。
そう信じていたからこそ、耐えていたのだ。
それなのに。
「……なぜでしょう」
「エレオノーラ様?」
「なぜ私は、こんなにも大人しくしていたのでしょうね」
牢番が戸惑ったように瞬く。
エレオノーラは立ち上がり、ドレスの裾についた埃を軽く払った。
「私は何もしていないのに」
「……私は、詳しい事情までは」
「ええ。あなたを責めているのではありません」
牢番は命令を伝えに来ただけだ。
それくらいは分かっているし、彼を責めるつもりもない。
けれど、一度あふれ出した言葉を止めることはできなかった。
「何もしていないのに牢へ入れられて、何もしていないのに処刑される」
エレオノーラは両手を持ち上げた。
鉄製の枷が、じゃらりと重い音を立てる。
「それを、淑女だからという理由で黙って受け入れる必要があるのでしょうか」
「……え?」
これまでなら、枷を壊そうなどとは考えもしなかった。
罪人として拘束されている以上、勝手なことをしてはいけない。
それが当然だと思っていた。
けれど、どうせ十分後には殺されるのだ。
今さら行儀よくして、何になる。
「なんだか……吹っ切れたせいでしょうか」
胸の奥が熱い。
身体の中心から、
これまで感じたことのないほど大量の魔力が湧き上がり、全身へ満ちていく。
エレオノーラは不思議そうに首を傾げた。
「今日は、いつもより魔力の調子がいいような気がいたします」
「エレオノーラ様?」
牢番の戸惑った声を聞きながら、エレオノーラは試しに手首へ力を込めた。
ミシッ、と乾いた音がする。
視線を落とすと、鉄製の枷の表面に一筋のひびが入っていた。
牢番も同じものを見ているらしく、目を見開いたまま固まっている。
「なんとかなりそうですわね」
「なんとか!?」
今度はもう少しだけ魔力を込めてみる。
次の瞬間、バキンッと甲高い音を立て、
両手首を拘束していた枷が真っ二つに割れた。
破片が石床へ転がり、牢番の顔からみるみる血の気が引いていく。
「ま、魔力封じの枷が」
「壊れてしまいましたね」
「どうしてそんなに落ち着いていらっしゃるんですか!?」
エレオノーラは自由になった手首を軽く回した。
どこにも痛みはない。それどころか、枷がなくなったことで、
身体中を巡る力がさらに増したように感じる。
そこで、目の前を塞ぐ分厚い鉄格子へ視線を向けた。
「こちらも邪魔ですわね」
「お待ちください!」
「大丈夫です。あなたには何もしませんから」
「そういう意味ではございません!」
公爵令嬢として、最低限の護身術なら習っている。
暴漢に腕を掴まれた際の外し方や、急所の狙い方、相手との距離の取り方。
それに、拳を打ち込む基本的な姿勢くらいなら知っていた。
エレオノーラは右手を握り、一歩下がる。
「少し、離れていてくださいませ」
「何をなさるおつもりで――」
足を踏み込み、そのまま拳を突き出した。
ドゴォォォン!!
凄まじい轟音が地下牢に響き渡る。
鉄格子は根元から外れ、それだけでは済まず、
格子を固定していた石壁までまとめて吹き飛んだ。
石片と砂埃が廊下へ舞い散り、しばらくしてから、
ぱらぱらと小さな破片が床へ落ちる音だけが残る。
エレオノーラは拳を突き出した姿勢のまま、目の前の惨状を見つめた。
牢番も何も言わない。
やがてエレオノーラは、ゆっくりと拳を引いた。
白い手袋には傷一つついていない。
「思ったより壊れてしまいましたわ」
「思ったよりという範囲ではありません!!」
「そうでしょうか?」
「牢が半分なくなっていますよ!?」
どうやら、少しやりすぎたらしい。
とはいえ、後悔している時間はない。
エレオノーラは崩れた壁を跨ぎ、廊下へ出た。
「では、行ってまいりますね」
「ど、どちらへ!?」
「聖女様のところです」
「なぜ!?」
エレオノーラは振り返る。
「私が聖女様を呪い殺そうとしたことになっているのでしょう?
でしたら、まずご本人に聞くのが一番早いかと」
理屈としては間違っていない。
少なくとも、エレオノーラはそう思っていた。
「ですが、これは脱獄になります!」
「王城の外へ逃げるつもりはございませんよ」
「そういう問題ではないのです!」
「申し訳ありません。時間もありませんので、失礼しますわね」
エレオノーラは、淑女として八年間かけて身につけた完璧な微笑みを浮かべると、
そのまま地下牢を後にした。
◇
地下牢から地上へ出たエレオノーラは、当然ながらすぐに見つかった。
「エレオノーラ様!?」
王城本館へ続く通路を進んでいると、
騒ぎを聞きつけた数名の騎士が駆けつけてくる。
彼らはエレオノーラの姿を認めるなり足を止め、
地下牢へ続く通路の奥と、エレオノーラを何度も見比べた。
「牢は……」
「壊しました」
「壊した!? どうやってですか?」
「殴っただけですけど?」
しばし、誰も口を開かなかった。
やがて騎士たちの視線が、揃ってエレオノーラの右手へ集まる。
白い手袋に包まれた、小さな拳だった。
エレオノーラの身長は百六十センチほどで、身体つきもすらりとして華奢だ。
どう見ても、鉄格子と石壁をまとめて吹き飛ばすような体格ではない。
一人の騎士が困惑したように首を振り、気を取り直す。
「と、とにかくお戻りください。処刑前の罪人を自由にするわけにはいきません」
そう言いながら一歩前へ出た、そのときだった。
エレオノーラの目に、奇妙なものが映る。
「あら?」
近づいてきた騎士の身体に、黒いモヤのようなものがまとわりついていた。
ほんのわずかではあるが、確かに見える。
何より、ひどく気持ちが悪い。眺めているだけで、胸の奥がざわついた。
「どうされましたか?」
別の騎士に尋ねられ、エレオノーラは黒いモヤをまとった騎士を指す。
「そちらの方、少し変ですわ」
「私ですか?」
「はい。どこか具合がお悪いのでは?」
騎士は怪訝そうに自分の身体を見回したが、当然ながら何も見つからないらしい。
「いえ、特には。それよりも、牢へお戻りください」
再び距離を詰め、エレオノーラの腕を掴もうと手を伸ばしてくる。
その瞬間、考えるより先に身体が動いた。
掴まれる前に半歩ずれ、伸びてきた腕をかわす。
公爵令嬢として習った護身術の通りに間合いへ入り、そのまま一歩踏み込んだ。
「失礼いたしますね」
本当に軽く、相手を押し返す程度のつもりで腹部へ拳を入れた。
ゴッ!!
「ぐっ!?」
鈍い音とともに、成人男性の身体が床から浮いた。
エレオノーラが目を見開く間にも、騎士はそのまま後方へ飛んでいく。
一メートル、二メートル。
やがて石床へ背中から落ち、さらに少し滑ったところでようやく止まった。
通路が静まり返る。
エレオノーラは自分の拳を見たあと、
二メートルほど先に倒れている騎士へ視線を移した。
「そんなに強く殴ったつもりはないのですが」
おっとりとした呟きに、誰も答えない。
他の騎士たちは完全に固まっていたが、やがて一人がそろりと一歩後ろへ下がった。
それを合図にしたように、隣の騎士も半歩、さらにもう一人も距離を取る。
気づけば、エレオノーラを囲んでいたはずの騎士たちとの間に、
妙に広い空間ができていた。
不思議に思って右へ顔を向けると、そちらの騎士たちが同じだけ右へ下がる。
ならばと左を見れば、今度は左側も距離を取った。
「皆様なぜ距離をとるのですか?」
「い、いえ。どうぞお気になさらず」
「お気になさらずと言われましても」
どう見ても気にするべき状況である。
そのとき、倒れていた騎士の身体から黒いモヤが一気に噴き出した。
「これは」
黒いものは一瞬大きく膨らんだものの、
エレオノーラの拳から漏れていた淡い光に触れた途端、煙のようにかき消えていく。
数秒後、倒れていた騎士が小さく呻いた。
「う、うう」
「大丈夫ですか?」
エレオノーラが近づこうとした瞬間、周囲の騎士たちが一斉にさらに一歩下がる。
「だから、なぜ下がるのです?」
「いえ!」
「その、とにかくお気になさらず!」
妙に必死だった。
いまひとつ納得できないまま、
エレオノーラは倒れている騎士のそばへしゃがみ込む。
「お加減はいかがですか?」
「エレオノーラ、様? どうしてここに……」
騎士は額を押さえながら、ぼんやりと周囲を見回した。
先ほどまでとは目つきが違う。
どこか焦点の合っていなかった瞳が、今ははっきりとこちらを捉えている。
「自分は、何をしていましたか?」
「私を牢へ戻そうとなさっていましたよ」
「……牢?」
騎士はしばらく考え込み、やがて困惑した表情を浮かべた。
「申し訳ありません。なぜか、ここ数日の記憶が曖昧で」
「記憶が?」
「はい。聖女様が王城へいらしてから、ところどころ思い出せないことがあって」
その言葉に、エレオノーラの表情が変わった。
聖女が王城へ来てから、記憶が曖昧になったという。
騎士の身体にまとわりついていた黒いモヤは、
拳を当てた途端に消え、本人の意識まで明瞭になった。
そして、自分が聖女へ贈ったことになっている、身に覚えのないハンカチ。
ここまで重なれば、偶然とは考えにくい。
「なるほど。少し分かってまいりました」
エレオノーラが立ち上がると、周囲の騎士たちが揃って身構えた。
「な、何がですか?」
「まだ確証はありませんが、やはり、
まずは聖女様ご本人に直接確認する必要がありそうです」
そう言って、聖女が滞在している祈祷室の方角へ視線を向ける。
騎士たちは顔を見合わせた。
「しかし」
一人が止めようと口を開いたところで、
エレオノーラは考えながら何気なく右手を握った。
それだけで、全員がぴたりと黙る。
なぜ全員が黙り込んだのか分からず、エレオノーラは小さく首を傾げた。
「あの、別に皆様を殴るつもりはございませんよ?」
「はい!」
返事だけは非常にいい。
「では、通していただけますか?」
騎士たちは今度こそ何も言わず、さっと左右へ分かれた。
まるで最初から彼女を通すつもりだったかのように、綺麗な道ができあがる。
「ありがとうございます」
エレオノーラは優雅に一礼し、その間を進んでいった。
背後から、抑えた声が聞こえてくる。
「さっき、二メートルは飛んだよな」
「飛んだ」
「エレオノーラ様って、あんなにお強かったのか?」
「知らん。だが逆らわないほうがいい。絶対に」
「同感だ」
エレオノーラは足を止めずに声だけ返した。
「聞こえておりますよ?」
背後が、一斉に静まり返った。
◇
祈祷室の前まで来たところで、エレオノーラは足を止めた。
扉の向こうに、何かがいる。
姿を見なくても分かるほど、ぞっとするような気配だった。
先ほどの騎士にまとわりついていた黒いモヤなど、比べものにならない。
あまりにも黒い。
「これは……」
エレオノーラは自分の胸元へそっと手を当てた。
それとは対照的に、自分の身体の奥には暖かな光が満ちている。
これまで意識したことなどなかったはずなのに、
今は不思議なほどはっきりと感じられた。
扉の向こうにあるものと、自分の中にあるもの。
それらはまるで正反対だ。
「聖女、でしたわよね」
小さく呟く。
聖なる力を持ち、女神の加護を受けた存在。
それが聖女だというのなら。
扉の向こうにいるものは、一体何なのだろう。
エレオノーラは扉へ手をかけ、そのまま開いた。
祈祷室の中には数人の神官と、長椅子へ腰掛けた聖女がいた。
エレオノーラの姿を認めるなり、聖女が大きく目を見開く。
「エ、エレオノーラ様!?」
「ごきげんよう」
習慣とは恐ろしいもので、牢を破壊し、
騎士を二メートルほど殴り飛ばしてきた直後でも、挨拶だけは完璧だった。
「なぜ、ここに……!?」
「牢から出てまいりましたの」
「出て……?」
「ええ。牢を壊して出てまいりました」
当然のように告げられた言葉に、
聖女の表情が固まり、周囲の神官たちも言葉を失う。
けれど、エレオノーラは気にせず目の前の聖女をじっと観察した。
やはり、黒い。
先ほどの騎士など比べものにならないほどだ。
何かが身体にまとわりついているというより、
聖女そのものが黒い何かで形作られているようにすら見える。
「あの」
「な、なんでしょう?」
聖女がわずかに身を引く。
その様子を見ながら、エレオノーラは不思議そうに小首を傾げた。
「一つお聞きしてもよろしいですか?」
「はい……?」
「あなた、本当に聖女ですの?」
祈祷室の空気が凍りついた。
長椅子に腰掛けていた聖女は目を見開き、その周囲にいた神官たちも息を呑んだ。
やがて、一人の神官が我に返ったように声を上げる。
「エレオノーラ様! いくらなんでも無礼が過ぎますぞ!」
「申し訳ありません。ですが、どうにも気になりまして」
素直に謝りながらも、エレオノーラは聖女から視線を外さなかった。
見れば見るほどおかしい。
先ほどの騎士にまとわりついていた黒いモヤは、
外から身体へ絡みついているように見えた。
だが、目の前の聖女はまるで違う。
黒いものが身体の内側から滲み出し、
人の姿そのものを形作っているようにすら見える。
対するエレオノーラの身体には、先ほどから暖かな力が満ちていた。
あまりにも正反対だ。
「聖女様というのは、女神様の加護を受け、聖なる力をお持ちの方なのですよね?」
尋ねると、神官は戸惑いながらも頷いた。
「もちろんです。聖女様は神聖力をもって我らを導く尊き御方。
現に陛下のお身体を癒やされたこともございます」
「では、やはりおかしいですわね」
「何がですか?」
「この方から、そのような力をまったく感じませんもの」
神官たちの間にざわめきが広がる。
その中で、聖女の表情がほんのわずかに引きつった。
一瞬だったが、エレオノーラはそれを見逃さなかった。
「エレオノーラ様」
聖女はゆっくりと立ち上がり、少し青ざめた顔でエレオノーラを見た。
潤んだ瞳と今にも泣き出しそうな表情は、いかにも傷ついた被害者そのものだった。
「私は……あなたに命を狙われたのですよ?」
責めるような口調ではない。
むしろ傷ついたような声音だったからこそ、
周囲の神官たちが一斉にエレオノーラへ視線を向けた。
これほど傷ついている女性を、なお疑うのか。
そう言いたげな目だった。
「私は、あなたからいただいたハンカチを大切にしていただけです。
それなのに、あの中には恐ろしい呪いが込められていて……」
聖女は震える手を胸元へ添えた。
「私は、エレオノーラ様が本当にそのようなことをなさったのか、
今でも信じたくありません。きっと、何か理由があったのだと……」
「理由も何も、私は、そのハンカチを差し上げておりませんけど」
エレオノーラは不思議そうに首を傾げた。
「何度も申し上げましたよね?」
「ですが、あれにはハイリヒベルク公爵家の意匠が刺繍されていました」
「ええ。ですから、誰かが似せて作ったのでしょう。
それに私、刺繍はあまり得意ではないのです」
「はい?」
「王太子妃教育で一通り習いましたが、好んでするほどではありません。
わざわざ自分で刺繍を施したハンカチを、個人的に親しくもない方へ贈りませんわ」
神官たちの表情がわずかに変わった。
聖女は一瞬黙り込み、それから悲しげに目を伏せる。
「覚えていらっしゃらないのですね。私へハンカチを渡した時のことを」
「ですから、覚えていないのではなく、渡していないのですが」
「きっと、呪いを施した際に、ご自身の記憶まで失ってしまわれたのでは……」
「なぜ私が、自分の記憶まで消す必要があるのです?」
「それは……」
聖女の言葉が詰まった。
エレオノーラは黙ってその顔を見る。
話せば話すほど、やはりおかしい。
以前の自分なら、ここで相手ではなく自分を疑ったかもしれない。
国が認めた聖女であり、聖教庁も彼女を本物だと認定している。
国王まで信じているのなら、疑う自分の方が間違っているのではないか。
王太子妃となる者が、感情だけで人を責めてはいけない。
そう考えて、何度も自分を抑え込んできた。
けれど今は、不思議なくらい迷いがなかった。
目の前の女は、おかしい。
そして何より――
エレオノーラは改めて聖女を上から下まで眺めた。
「あなた、さっきからものすごく黒いですわよ」
「え……?」
エレオノーラは、自分の周囲を示すように手を動かした。
「こう、全身から黒いどろどろとしたものが出ております」
「いったい何を仰っているのですか?」
「皆様には見えていないということでしょうか?」
神官たちは困惑した顔を見合わせる。
どうやら、本当に誰にも見えていないらしい。
エレオノーラは顎へ指先を添え、先ほどの騎士のことを思い返した。
あの騎士にも黒いものがまとわりついていた。
そして、殴った途端にそれが消え、曖昧になっていた記憶まで戻った。
それならば、目の前の女にも同じ方法を試せば、何か分かるのではないだろうか。
少々乱暴ではある。
とはいえ、あと十分で処刑すると告げられた身だ。
今さら多少罪状が増えたところで、大した違いはないような気もする。
「では」
エレオノーラは改めて聖女へ向き直った。
「とりあえず、一発ぶん殴ってみてもよろしいですか?」
「は?」
聖女が固まった。
周囲の神官たちも、揃って言葉を失う。
「エ、エレオノーラ様?」
「先ほど、同じような黒いものがついていた騎士を殴りましたら、綺麗になりましたので」
「なぜそこで、いきなり殴るという結論になるのですか!?」
「咄嗟でしたので」
「今は咄嗟ではないですよね!?」
「ですが、一度成功しておりますので再現性が高いかと」
「もう少し平和的な再現性を検討してください!」
神官の必死な制止を受け、エレオノーラは少し考える。
確かに、普通に考えれば聖女を殴るなど許されることではない。
ましてや自分は、彼女を呪殺しようとした罪で処刑されかけている身だ。
ここで本当に殴れば、自ら疑いを補強するようなものだろう。
普通なら。
「では、こちらへ来ていただけますか?」
「なぜです?」
「触れるだけで、何か分かるかもしれませんので。
今度は殴りませんから、ご安心ください」
我ながら、今度はずいぶん穏当な提案だ。
ところが、聖女の顔色が明らかに変わった。
ほんのわずかに後ずさりし、エレオノーラから距離を取る。
「私はまだ身体が本調子ではありません。どうか、近づかないでいただけますか?」
エレオノーラは、その反応をじっと見つめた。
先ほどまで、自分を信じたいとまで口にしていた。
それなのに、触れると言った途端に逃げた。
「やはり、怪しいですわね」
「何を――」
エレオノーラが一歩踏み出すと、聖女が同じだけ下がった。
もう一歩進む。
また下がる。
「どうして逃げるのですか?」
「逃げてなど!」
「でしたら止まってくださいませ」
「近寄らないで!」
鋭い声が祈祷室に響いた。
先ほどまでの弱々しい態度が一瞬で消え、神官たちも驚いたように聖女を見る。
本人も失言に気づいたのだろう。
すぐに表情を取り繕い、胸元へ手を添えた。
「申し訳ありません。やはり怖くて。
エレオノーラ様は、私を呪い殺そうとなさった方ですから」
「しておりません」
「ですが――」
エレオノーラは、聖女の身体を覆う黒いものへ目を向けた。
「それに、先ほどから私が近づくほど、黒いものがざわざわしておりますね」
目の前の闇は、こちらを拒むように激しく蠢いている。
あるいは、恐れているようにも見えた。
対するエレオノーラの胸の奥では、暖かな光がますます強くなっている。
なぜそうなるのかまでは分からない。
それでも、もう迷いはなかった。
この女は聖女ではない。
エレオノーラは白い手袋を、きゅっと締め直した。
それを見た聖女の顔が引きつる。
「何をなさるおつもりです?」
「決めました。やはり、一発だけぶん殴りますね」
エレオノーラは静かに拳を握った。
「だから、どうしてそうなるのです!?」
「確認のためですので」
「そんな野蛮な確認方法がありますか!?」
「先ほど成功しましたので、問題ありません」
神官たちが慌ててエレオノーラの前へ出ようとした、そのとき。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が響いた。
「エレオノーラ!」
聞き慣れた声に反射的に振り返ると、祈祷室へ駆け込んできたのはセルジュだった。
柔らかなクリーム色の髪は普段になく乱れ、呼吸もわずかに弾んでいる。
そのすぐ後ろには、同じく息を切らした側近のライナー・リンハルトの姿もあった。
三日ぶりに見る婚約者の姿に、エレオノーラの胸が一気に軽くなる。
「セルジュ様!」
その姿を認めた途端、胸が一気に軽くなる。
帰ってきてくれた。
エレオノーラが信じていた通りに。
セルジュの緑の瞳も、まっすぐエレオノーラを捉えた。
無事な姿を見つけた安堵と、なぜ祈祷室にいるのかという驚き。
そして彼女が拳を構えていることへの困惑が、一瞬のうちにその表情をよぎる。
「エレオノーラ、いったい何を――」
そこへ、聖女が駆け出した。
エレオノーラから逃げるように、まっすぐセルジュの方へ向かっていく。
「セルジュ殿下! 助けてください!」
助けを求めるように手を伸ばした瞬間、
その全身から黒いものが爆発するように溢れ出した。
まずい。
理由は分からない。
けれど、セルジュに触れさせてはいけない。
「セルジュ様、避けてください!」
「え?」
叫ぶと同時に、エレオノーラは床を蹴った。
護身術として習った、ごく基本的な踏み込みのはずだった。
ところが今の身体は、自分でも驚くほど軽い。
一歩で距離が縮まる。
振り返った聖女が、ぎょっと目を見開いた。
「なっ――」
エレオノーラは右腕を引く。
「少々、失礼いたしますわね!」
「待っ――」
そのまま、拳を振り抜いた。
ゴッ!!
鈍い音が祈祷室に響き、聖女の顔面へ見事な一撃が入ると、その身体が宙に浮いた。
「あら」
思わず、エレオノーラ自身から声が漏れる。
聖女は一メートル、二メートルとほとんど水平に吹き飛び、
床へ落ちたあともしばらく滑って壁にぶつかりようやく止まった。
神官たちは絶句し、セルジュもライナーも目を見開いている。
エレオノーラは自分の拳を見てから、床に倒れた聖女へ目を向けた。
「また、吹っ飛ばしてしまいましたわ」
「そこなのですか、エレオノーラ様……」
ライナーの低い声が飛んできた。
だが、その直後。
倒れていた聖女の身体が、びくりと大きく跳ねた。
「これは――」
先ほどの騎士とは比べものにならない量の黒いモヤが、一気に噴き出す。
祈祷室いっぱいに広がるほどの闇を前に、神官たちから悲鳴が上がった。
「な、何だこれは!」
「聖女様!?」
女の身体が歪んでいく。
肌は黒く染まり、人の輪郭が崩れ、長い髪も細い手足も煙のようにほどけていった。
やがてそこに残ったのは、人の姿すら保てない黒い塊だった。
『なぜ……』
低く、人間のものとは思えない声が響く。
『なぜ貴様が、その力を……!』
「やはり、聖女ではなかったようですね」
エレオノーラは自分の拳を見る。
白い手袋に包まれたそこから、淡い光が溢れていた。
黒い塊は、その光を恐れるように激しく蠢いている。
『貴様さえ、いなければ……!』
黒い塊がエレオノーラへ飛びかかろうとした。
しかし、その前に拳から溢れた光が大きく広がり、黒いものを一気に包み込み、
耳をつんざくような悲鳴が響いた。
次の瞬間、黒い塊は光の中で跡形もなく消え去った。
あとに残ったのは、誰もいない床だけだった。
祈祷室が静まり返る。
つい先ほどまで、この国の聖女だと信じられていた女が、
エレオノーラに殴られて二メートルほど吹き飛び、
人ではない何かへ姿を変え、そのまま消滅したのである。
普通なら、何から確認すればいいのかすら分からない状況だった。
そんな中、最初に動いたのはセルジュだった。
聖女がいた場所へ一度だけ目を向けると、
そのままエレオノーラのもとへ歩み寄った。
「セルジュ様。やはり、聖女は偽物でしたわ」
「うん。そのようだね」
驚くほど落ち着いている。
セルジュはエレオノーラの前で立ち止まると、
彼女の右手へ視線を落とし、少し眉を寄せた。
「とりあえず、手は大丈夫?」
エレオノーラは瞬いた。
少し離れたところで、ライナーも同じように瞬いている。
「セルジュ様?」
「かなり強く殴っていただろう? 痛めてない?」
「いえ」
思わず右手を持ち上げて確かめる。
白い手袋にも破れ一つなく、痛みもない。
「大丈夫です。手袋もしておりましたので」
「そっか。それならよかった」
セルジュは心底安心したように微笑んだ。
「殿下、今、聖女を名乗っていた何かが消滅しましたが」
とうとう耐えかねたらしく、ライナーが口を挟んだ。
「うん。見ていたよ」
「でしたら、まずそちらを気にしてください」
セルジュは少し考える。
「でも、もう消えたし」
「消えたから問題なのです!」
「エレオノーラが無事なのは確認できたし、別にいいだろう?」
「そういう話ではありませんよ!」
いつもの調子で言い合う二人を見ながら、エレオノーラは思わず小さく笑った。
三日ぶりだというのに、妙に懐かしい。
そしてようやく、本当に助かったのかもしれない。
そう思った途端、張りつめていたものが緩み、全身から力が抜けそうになった。
その変化に、セルジュはすぐ気づいた。
「エレオノーラ?」
「セルジュ様が来てくれたので、安心して少し気が抜けました」
息を吐きながらそう答えると、セルジュの表情が柔らかくほどけた。
「遅くなってごめんね」
「いいえ。帰ってきたら助けに来てくださると信じていましたので」
だからこそ、この三日間を耐えることができた。
もっとも、処刑まであと十分と告げられてからは、
さすがに待てなかったのだけれど。
エレオノーラは、偽聖女が消えた場所へもう一度目を向けた。
「セルジュ様。どうやら今回の件、かなりおかしなことになっているようですね」
白い手袋に包まれた拳を握ると、セルジュの緑の瞳が細くなる。
先ほどまでの柔らかな表情が消え、王太子としての顔へ変わった。
「ああ。僕もそう思って、君を助けに来たんだ」
声は穏やかだが、呼吸はまだわずかに乱れている。
改めて見れば、柔らかなクリーム色の髪も普段ほど整っておらず、
肩に羽織った外套には旅の埃が残っていた。
辺境伯領から戻り、着替える間も惜しんで王城を駆け回っていたのだろう。
「セルジュ様、いつ頃お戻りになったのですか?」
「ついさっきだよ。本当は一週間滞在する予定だったんだけど、
用事が早く済んでね。三日で切り上げて帰ってきたんだ」
そこでセルジュの表情が曇った。
「戻ってきたら、君が牢へ入れられていた。
しかも、聖女を呪い殺そうとした罪で処刑されると聞かされた」
緑の瞳がわずかに険しくなる。
「すぐに、あり得ないと思ったよ」
「何も言わずとも私のことを信じてくれたのですか?」
「当たり前でしょ」
迷いのない返事だった。
隣でライナーも当然のように頷く。
「殿下ですので」
「どういう意味ですの?」
「エレオノーラ様に関しては、昔からこうですよ」
何やら含みのある言い方だったが、セルジュは気にした様子もなく話を続けた。
「ともかく、まずは君に会おうとした。けれど、面会の許可が下りなかったんだ」
「セルジュ様にも?」
「ああ。父上直々の命令だと言われたよ」
エレオノーラは眉を寄せる。
セルジュは王太子だ。
その彼が、婚約者であり公爵令嬢でもあるエレオノーラとの面会すら許されない。
やはり異常だった。
「それで、次に父上へ直接話を聞こうとした。でも、それもなぜかできなかった」
「陛下にも?」
「ここ数か月、父上は以前ほど人に会わなくなっていたんだ」
セルジュは一度言葉を切り、考えるように目を細めた。
「今思えば、あれもおかしかったよね」
「いつ頃からでしょう?」
「数か月前かな。父上が体調を崩した頃からだ」
エレオノーラはすぐに思い当たった。
「聖女様が、治療をなさった頃ですか?」
「そうだね」
偽聖女が現れたのは、その少し前だった。
女神の加護を受けた聖女として聖教庁に認定され、
王城にも出入りするようになった頃、国王ミヒャエルが体調を崩した。
その際に聖女が自ら治療を申し出て、結果として国王の体調は回復したものの、
それ以降、少しずつ様子が変わっていったらしい。
「以前なら、僕が突然訪ねても笑って部屋へ入れてくれたんだけどね。
最近は面会するにも許可が必要になったし、政務について話していても、
聖女や聖教庁の意見を妙に重視するようになっていた」
「それは……」
エレオノーラの脳裏に、先ほど殴った騎士の姿が浮かぶ。
身体にまとわりついていた黒いモヤと、曖昧になっていた記憶。
そして、人の姿そのものが黒い何かで形作られていた偽聖女。
「やはり、陛下も偽聖女によって何か影響を受けているのでしょうか?」
「僕もそう考え始めている」
セルジュが頷く。
「帰ってきてから君の罪状について詳しく調べていたんだけど、その途中で――」
今度はライナーが言葉を引き継いだ。
「エレオノーラ様の刑が、突然繰り上げられたとの報せが入ったのです」
「やはり……」
エレオノーラの背筋に冷たいものが走る。
セルジュが予定より早く帰還し、事件そのものを疑い始めた。
国王へ会おうとまでしている。
だから、真相を暴かれる前に自分を消そうとした。
そう考えれば、突然「十分後」と告げられたことにも説明がつく。
「やはり、十分後というのは、いきなり決まったことだったのですね」
「そうだよ。異常すぎる」
セルジュの声が低くなる。
「だから僕もすぐ地下牢へ向かったんだ。ところが途中で、牢が壊されたと聞いて」
ライナーがちらりとエレオノーラを見る。
「正確には、壁ごと吹き飛ばされたと聞きました」
「少し壊しすぎましたわね」
「少しどころではありません」
即座に訂正された。
「しかも、こちらへ向かう途中で騎士が一人、
二メートルほど殴り飛ばされたとも聞きまして」
エレオノーラはそっと視線を逸らした。
「それは……」
「その報告を聞いた殿下が、何と仰ったと思います?」
ライナーに問われ、エレオノーラはセルジュを見る。
本人は少し考えてから、あっさり答えた。
「『エレオノーラが元気そうでよかった』だったかな」
「そうです。普通はそう思いません」
ライナーの声が少し低くなる。
「でも、エレオノーラが自力で牢から出られていたなら安心するだろう?」
「牢を壁ごと破壊しておりますが」
「昔から思い切りはよかったから」
「だからといって、普通は牢の壁は壊しません」
エレオノーラは思わず口元を押さえた。
笑っていいところなのか分からない。
けれど、胸の奥にずっと残っていた重いものが、少しずつほどけていく。
セルジュは、本当に何も変わっていない。
「それで祈祷室へ向かったら、君が聖女を殴ろうとしていた」
「正確には、殿下が到着なさったのとほぼ同時に殴っておられましたね」
ライナーが補足する。
「驚かれましたか?」
エレオノーラが恐る恐る尋ねると、セルジュは少し首を傾げた。
「まあ、少しは。昔の君みたいだなとは思ったけど」
「どういう意味ですか!?」
思わず声を上げると、セルジュがくすりと笑った。
「懐かしかったなあ」
「昔の私は人を殴ってはいないと思いますが……」
「あの勢いが懐かしかったんだよ。殴った相手も偽物だったし、大丈夫」
「殴った時点では確定しておりませんよ!?」
「でも、結果的には当たっていただろう?」
「結果論です!」
エレオノーラが返すと、セルジュはますます楽しそうに目を細める。
その表情を見たライナーが、小さく息を吐いた。
「殿下。嬉しそうですね」
「そう見える?」
「見えます。エレオノーラ様が昔のように遠慮なく振る舞っておられるのが、
よほど嬉しいのでしょう」
「ライナー!?」
頬が一気に熱くなる。
だが、セルジュは否定するどころか、あっさり頷いた。
「うん。ちょっと嬉しい」
「セルジュ様!」
「でも、今は先に父上だね」
すぐに表情を引き締めたセルジュに、エレオノーラも頷く。
「はい」
冗談を言っている場合ではない。
国王が偽聖女の影響を受けている可能性は高く、
それも治療を受けてから数か月が経っている。
先ほどの騎士より、はるかに深く侵されているかもしれない。
「現在、陛下はどちらに?」
「私室だ。今日も体調が優れないという理由で、誰にも会わないらしい」
「では、参りましょう」
エレオノーラがすぐに歩き出そうとすると、セルジュが呼び止めた。
「エレオノーラ、待って」
「はい?」
「その前に、もう一度確認させて。本当に痛くない?」
セルジュはまた彼女の右手を取り、白い手袋に包まれた拳をじっと確認する。
「先ほども申し上げましたでしょう?」
「でも、二人も殴ったよね。あと牢も」
「大丈夫です。傷ひとつついておりませんわ」
「なら良かった。無理だけはしないでね」
そのやり取りを、ライナーが黙って見ていた。
「何?」
セルジュが尋ねると、ライナーは遠い目をする。
「いえ。こういうところは、
八年前からお二人とも変わっておられないなと思いまして」
◇
国王ミヒャエルの私室へ向かう途中、何人もの騎士や官吏とすれ違った。
そのたびに、エレオノーラの目には黒いものが映る。
もちろん全員ではない。
何もまとっていない者もいれば、ごく薄くモヤがかかっている程度の者もいる。
中には、先ほど殴った騎士のように、
はっきりと黒いものが身体へ絡みついている者もいた。
「思ったより多いですわね」
小さく呟くと、隣を歩いていたセルジュがすぐに聞き取った。
「影響を受けている人?」
「そうだと思います。ここへ来るまでに見かけた方の、三人に一人ほどでしょうか」
「そんなにいるのか」
セルジュの表情が曇る。
周囲を警戒しながら歩いていたライナーも、険しい顔で口を開いた。
「偽聖女は王城へ頻繁に出入りしていました。
接触する機会が多かった者ほど、強く影響を受けている可能性がありますね」
「先ほどの騎士の方も、聖女様が王城へいらしてから、
ところどころ記憶が曖昧になっていると仰っていました」
「記憶にまで影響するのか」
エレオノーラは先ほどの騎士を思い返しながら、少し考えた。
「もしかすると、影響が深くなるほど、
偽聖女の言葉に逆らえなくなるのかもしれません」
「だとしたら、父上はかなり危険な状態かもしれないな」
偽聖女から直接治療を受け、その後も何か月も近くにいたのだ。
三人は顔を見合わせると、自然と歩みを速めた。
やがて国王の私室がある区画へ入ったところで、その足が止まる。
廊下の先には、道を塞ぐように近衛騎士たちが並んでいた。
「王太子殿下」
先頭に立つ近衛騎士が一礼した。
「陛下はご休息中です。本日は、どなたともお会いになりません」
「国王陛下の御身に関わる緊急事態だ。会わせてほしい」
セルジュが静かに告げるが、騎士は首を横に振った。
「申し訳ございません。それでも、お通しすることはできません」
セルジュの眉がわずかに寄る。
その隣で、エレオノーラは並んでいる騎士たちを一人ずつ確認した。
先頭の男。その右隣。そして後方に二人。
「セルジュ様」
声を潜めて呼ぶ。
「先頭の方と、その右隣。それから後ろのお二人が黒いです」
ライナーの表情が引きつった。
「四人ですか。残りは?」
「何も見えません。綺麗ですわ」
セルジュは一瞬だけ考え、すぐに頷いた。
「分かった」
「では、行ってまいりますわね」
エレオノーラが白い手袋を整えると、ライナーが即座に止めた。
「お待ちください。まさかとは思いますが、また殴るおつもりですか?」
「はい。それが一番早いですので」
「即答しないでください。ほかの方法も考えましょうよ」
エレオノーラは少し考える。
「では、まず触れてみます。
先ほども、それだけで何か分かるかもしれないと思いましたので」
「そうしてください。まずは平和的に――」
ところが、エレオノーラが一歩近づいた瞬間、
黒いモヤをまとった騎士が剣へ手をかけた。
「近づくな!」
先ほどまでの礼儀正しい態度が一変し、明らかな敵意が向けられる。
エレオノーラは足を止めた。
「やはり、駄目そうですわね」
「エレオノーラ様、お気を付けください」
ライナーも剣へ手を伸ばす。
だが、それより早くエレオノーラが踏み込んだ。
「失礼いたしますわね!」
ゴッ!!
拳を受けた騎士の身体が宙に浮き、そのまま後方へ飛んでいく。
一メートル、二メートル。石床へ落ちたあともしばらく滑って、ようやく止まった。
残った近衛騎士たちの顔が、一斉に引きつる。
「また吹っ飛んだ……」
ライナーが低く呟いた。
エレオノーラも自分の右手へ目を落とす。
「やはり、私の拳は少々重いのでしょうか」
「少々という表現はやめましょうか」
その間にも、倒れた騎士の身体から黒いモヤが噴き出した。
エレオノーラの拳から漏れる淡い光に触れると、たちまち煙のように消えていく。
それを見た瞬間、黒いものをまとっていた残り三人が一斉に動いた。
「捕らえろ!」
一人目が腕を伸ばしてくる。
それを半歩ずれてかわし、そのまま腹部へ拳を入れる。
ゴッ。
一人目が飛んだ。
二人目は剣を抜こうとしたが、
その前に手首を取って体勢を崩し、空いた胴へ一撃を入れる。
ドッ。
二人目も飛んだ。
最後の一人へ向き直ったところで、ライナーの声が飛ぶ。
「もう少し加減をしてください!」
「していてこれなのです!」
ゴッ!!
三人目も綺麗に宙を舞った。
静かになった廊下で、
倒れた騎士たちから黒いモヤが次々と抜け、淡い光の中へ消えていく。
一方、最初から黒いものが見えていなかった近衛騎士たちは、
誰に言われるでもなくエレオノーラから数歩距離を取っていた。
その様子に気づき、エレオノーラがそちらを見る。
すると、さらに半歩下がる。
「私は皆様を殴るつもりはございませんよ?」
「はっ! 承知しております!」
返事だけは非常に良い。
隣でセルジュが小さく笑った。
「何がおかしいのです?」
「いや。さっきも同じようなことをしていたよね」
「……否定は致しませんわ」
二人の横をライナーがさっさと通り抜ける。
「お話はそれくらいにして、陛下のところへ行きましょう」
「はい」
「はい」
二人揃って返事をした。
◇
国王ミヒャエルの私室へ入った瞬間、エレオノーラは息を呑んだ。
これまで見た誰よりも、黒い。
大きな窓を背にして座る国王の身体は、
まとわりついているという表現では足りないほど濃いモヤに覆われていた。
以前より頬はこけ、瞳にもほとんど生気がない。
「父上」
セルジュが呼ぶと、ミヒャエルはゆっくり顔を上げた。
「セルジュか」
「お話があります。エレオノーラへの処刑命令についてです」
国王の視線が、セルジュの隣に立つエレオノーラへ向く。
その瞬間、身体を覆う黒いものが大きく蠢いた。
「なぜ罪人がここにいる」
「彼女は無実です。
それに、聖女を名乗っていた女なら、先ほど人ならざるものだと判明しました」
セルジュはわずかに言葉を選ぶようにしてから続けた。
「聖女を騙るものは、エレオノーラに殴られて消滅しました」
ミヒャエルが黙る。
エレオノーラも思わずセルジュを見た。
「セルジュ様。もう少し別の説明はございませんでした?」
「事実だからね」
「事実ですが!」
そのやり取りを遮るように、ミヒャエルが低い声を上げた。
「嘘だ。聖女様は正しい」
黒いモヤがさらに濃くなる。
「聖女様に逆らう者は、処刑せねばならぬ」
セルジュの表情から笑みが消えた。
「父上は、根拠もなく人を処刑せよと仰る方ではありません」
「黙れ!」
ミヒャエルが立ち上がる。
足元はふらついているのに、黒いものに操られるようにこちらへ進もうとした。
エレオノーラはその姿を見つめ、小声でセルジュを呼ぶ。
「セルジュ様。陛下、ものすごく黒いです」
「やっぱり?」
「はい。先ほどの騎士たちとは比べものになりません」
ライナーが嫌な予感を察したように眉間を押さえた。
その横で、エレオノーラは白い手袋をきゅっと締め直す。
「では、浄化してまいりますね」
「エレオノーラ様。念のため伺いますが、どうやって?」
「もちろん、殴ります」
「やはりですか」
ライナーがセルジュを見る。
止めてください、と顔に書いてある。
セルジュは少し考えた。
「エレオノーラ、父上だから、できるだけ加減してね」
「もちろんですわ」
「殿下まで殴る前提で進めないでください!」
ミヒャエルが苛立ったように声を荒らげる。
「何を話している! 近づくな!」
「申し訳ございません、陛下。少々失礼いたしますわね」
エレオノーラは一歩踏み込み、今まで以上に慎重に力を抑えた。
狙うのは頬。
なるべく軽く。
「えいっ」
ゴッ!!
ミヒャエルの身体が横へ飛び、一メートルほど先の長椅子へ倒れ込んだ。
「父上!」
セルジュがすぐに駆け寄る。
一方、エレオノーラは自分の拳を見下ろした。
「かなり加減したのですが、なぜ吹っ飛ぶのでしょう」
「かなり加減しても一メートルなんですか……」
ライナーが呆然と呟く。
「普段の半分だね」
「殿下、距離を基準にしないでください」
その直後、ミヒャエルの身体が大きく仰け反った。
全身を覆っていた黒いモヤが、一気に噴き出す。
「父上!」
室内へ広がろうとした闇を追うように、エレオノーラの身体から淡い光が溢れた。
光に触れた黒いものは、焼けるような音を立てながら次々と消えていく。
やがて最後の一筋まで消えると、ミヒャエルの身体から力が抜けた。
「父上?」
セルジュが呼びかける。
数秒後、ミヒャエルがゆっくりと目を開いた。
焦点の定まっていなかった瞳に、少しずつ光が戻ってくる。
「セルジュ?」
「父上」
その声を聞いて、セルジュの肩から目に見えて力が抜けた。
「よかった」
ミヒャエルはしばらく周囲を見回していたが、やがて眉を寄せた。
「私は、今まで何をしていたんだ?」
「少し長くなりますが、お話します」
「そうか。それよりも……」
ミヒャエルは頬へ手を当てた。
「なぜか、頬が痛い」
エレオノーラは少し迷ったものの、正直に答えることにした。
「私が殴りましたので」
ミヒャエルの動きが止まった。
「陛下を浄化するために」
「……拳で?」
「はい」
国王はしばらくエレオノーラを見つめ、それから息子へ視線を移した。
セルジュは迷いなく頷く。
「エレオノーラが父上を浄化してくれました」
「お前は止めなかったのか?」
「父上が正気に戻るなら、その方がいいかと思いまして」
「そういう問題なのか?」
少し離れたところで、ライナーが静かに頷いた。
「陛下の疑問はもっともだと思います」
◇
事情を説明すると、ミヒャエルの顔色はみるみる悪くなっていった。
「私は、エレオノーラを処刑しようとしていたのか?」
「はい。十分後に、と告げられました」
「十分後だと?」
セルジュの表情が険しくなる。
ミヒャエルは額を押さえ、しばらく記憶を辿るように目を閉じた。
「おそらく、最後の方はほとんど自分で判断していなかった。
数か月前、体調を崩した際に聖女の治療を受けてから、
少しずつおかしくなっていったんだ」
身体は確かに回復した。
だが、それ以降は聖女の言葉が妙に正しく思え、
彼女が勧める者を重用し、反対する者を疎ましく感じるようになったという。
「しまいには、セルジュと会うことすら煩わしいと思っていた。
そんなこと、一度もなかったのにな」
苦しげに吐き出された言葉に、セルジュは黙って父を見つめた。
「先ほどの騎士も同じような状態でした」
エレオノーラが口を開く。
「偽聖女と関わるようになってから記憶が曖昧になっていたそうです。
それに、王城には同じ黒いものが見える方がほかにも大勢いらっしゃいました」
「黒いもの?」
エレオノーラは、自分にだけ見えているらしい黒いモヤについて簡単に説明した。
偽聖女や汚染された者たちに見えること。
そして、それが消えると本人の意識も正常に戻ること。
「どうやって消した?」
ミヒャエルに問われ、エレオノーラは素直に答えた。
「殴りました」
国王が黙った。
「ほかに方法はないのか?」
「今のところ、それしか試しておりませんので」
「私も別の方法を探すべきだと申し上げております」
ライナーがすぐさま同意する。
一方、セルジュは首を傾げた。
「確実に浄化できるなら、それでもいいんじゃない?」
「殿下。一度、エレオノーラ様から離れて考えてください」
「なぜ?」
ライナーは返事を諦めた。
そのとき、ミヒャエルが顔を上げる。
「聖教庁だ」
三人の表情が変わった。
「偽聖女を聖女だと認定したのも、
エレオノーラが呪詛を行ったと断定したのも聖教庁だ。
私のもとへあの女を連れてきたのも、彼らだった」
聖女認定。
呪詛認定。
国王への接触。
そこまで重なれば、答えは一つしかない。
「聖教庁そのものが、かなり深く汚染されている可能性がありますね」
ライナーの言葉に、セルジュも頷いた。
エレオノーラは少し考え、自分の右手を見る。
その動きをセルジュは見逃さなかった。
「エレオノーラ。今、何を考えた?」
「聖教庁へ行けば、かなりの人数を殴ることになるのではないかと」
ライナーが視線を逸らし、ミヒャエルが絶句する。
セルジュだけは穏やかに頷いた。
「そうかもしれないね」
「止めませんの?」
「悪いものの影響を受けているなら、放っておけないだろう?」
「それはそうですが」
「ただし、今度こそ手を痛めないようにね」
「大丈夫です。手袋をしておりますので」
「ならよかった」
ライナーが深く息を吐いた。
「よくありません」
けれど、聖教庁へ向かうこと自体に反対する者はいなかった。
エレオノーラは白い手袋を、きゅっと締め直す。
「では、聖教庁を綺麗にしてまいりましょう」
◇
聖教庁へ到着したエレオノーラは、正門をくぐったところで足を止めた。
隣を歩いていたセルジュが、すぐにその様子に気づく。
「どうしたの?」
「セルジュ様」
エレオノーラは、目の前に広がる荘厳な建物を見上げた。
白い石造りの大神殿を中心に、
大小いくつもの礼拝堂や聖職者たちの居住棟が並んでいる。
床も壁もよく磨かれ、整えられた庭には枯れ葉一枚落ちていない。
清廉という言葉がよく似合う、美しい場所だった。
少なくとも、普通の人の目には。
「ここ、ものすごく汚いです」
ライナーが周囲を見回す。
「掃除は行き届いているように見えますが」
「そちらではありません」
「ですよね」
ここまでくれば、ライナーも何を指しているのか分かっているらしい。
エレオノーラは、行き交う聖職者たちへ順に目を向けた。
黒いモヤをまとっている者が、あまりにも多い。
中には何も見えない者もいるが、王城とは明らかに割合が違った。
薄くまとっている程度の者から、身体を覆うほど濃い者までいる。
「かなりの方が影響を受けていますね」
「どのくらい?」
セルジュに尋ねられ、エレオノーラは改めて周囲を見渡した。
「半分……いえ、それ以上かもしれません」
「そこまでか」
セルジュの表情が険しくなり、ライナーも息を呑む。
そのとき、こちらに気づいた神官の一人が慌てて駆け寄ってきた。
「王太子殿下!? それに、エレオノーラ様まで!」
エレオノーラは反射的にその神官を見る。
かなり黒い。
神官が次の言葉を発するより先に、
エレオノーラは白い手袋をきゅっと締め直した。
「申し訳ありません。少々、失礼いたしますわね」
「はい?」
ゴッ!!
神官の身体が宙に浮き、そのまま二メートルほど後方へ吹き飛んだ。
石畳の上を滑り、ようやく止まる。
辺りが静まり返った。
近くにいた聖職者たちは、一斉にエレオノーラを見る。
当の本人は自分の拳を見下ろしてから、
二メートルほど先に倒れている神官へ目を向けた。
「やはり、慎重に加減しないと二メートルほど飛びますわね」
ライナーが深いため息をつく。
「そろそろ距離を測るのはやめませんか」
その間にも、倒れた神官の身体から黒いモヤが噴き出した。
それはエレオノーラから溢れる淡い光に触れると、煙のように消えていく。
やがて神官が呻きながら目を開けた。
「私は……?」
「ご気分はいかがです?」
エレオノーラが様子を見ようと近づいた瞬間、
周囲にいた聖職者たちが一斉にざっと距離を取った。
「皆様?」
「い、いえ。お気になさらず!」
王城でも見た反応だった。
少々納得はいかなかったものの、エレオノーラは倒れている神官へ視線を戻す。
「ここ数日の記憶に、曖昧なところはございませんか?」
「記憶ですか……」
神官は額へ手を当て、しばらく考え込んだ。
「聖女様がこちらへ頻繁にいらっしゃるようになってから、
そういえば、ところどころ思い出せないことが……」
やはり、王城の騎士と同じだ。
エレオノーラが立ち上がったところで、別の聖職者が声を張り上げた。
「何をしているのです! 神聖なる聖教庁で暴力など――」
振り返ると、その聖職者にも黒いモヤがまとわりついていた。しかも、かなり濃い。
「あなたもですね。失礼いたしますわね」
「待ちなさ――」
ゴッ!!
二人目の神官も、綺麗に後方へ吹き飛んだ。
エレオノーラはその身体から黒いモヤが抜けていくのを確認すると、周囲を見回す。
「では、次ですわね」
「ちょっとお待ちください、エレオノーラ様!」
ライナーが慌てて止めに入った。
「まさか、このまま黒いものが見える方を全員殴って回るおつもりですか?」
「そうですけど?」
「一人ずつですか? 人数をご覧ください」
「だからこそ、急いだ方がよろしいでしょう?」
「そういう話ではありません!」
そこへ、セルジュが横から口を挟む。
「エレオノーラ、疲れたらちゃんと休んでね」
「お気遣いありがとうございます」
エレオノーラの表情が少し和らいだ。
ライナーだけが頭を抱える。
「殿下。今は止めるところかと」
「でも、今のところ一番確実な方法だろう?」
「だからこそ、もっと穏当な方法を探しましょう!」
「今から?」
「今からです!」
その間にも、騒ぎを聞きつけた聖職者たちが次々と集まってきた。
そして、黒いものを濃くまとっている者ほど、
エレオノーラの姿を見るなり露骨な敵意を向けてくる。
「罪人がなぜここにいる!」
「聖女様を害した悪女め!」
「王太子殿下、お離れください!」
一方で、何もまとっていない者たちは状況が理解できず、
ただ困惑した様子で周囲を見回している。
「ずいぶん分かりやすいですわね」
エレオノーラは黒い者たちを順に見た。
「セルジュ様。黒い方だけ殴っていきますね」
「分かった。気をつけてね」
「殿下!」
ライナーの声を背に、エレオノーラは一歩前へ出た。
そこからは、少々慌ただしかった。
「失礼いたします!」
ゴッ!
一人目。
「こちらの方も」
ドッ!
二人目。
「まだ少し残っていますわね。もう一度失礼いたします」
バキッ!
「エレオノーラ様! なぜ二度も!?」
「黒いものがまだ残っておりましたので!」
殴る。
飛ぶ。
黒いモヤが抜ける。
そして、正気に戻る。
それを何度か繰り返すうちに、さすがに周囲の聖職者たちも、
ただ暴れているわけではないと理解し始めた。
「おかしい……」
正気に戻った神官の一人が、呆然と呟く。
「私は、なぜエレオノーラ様をあれほど憎んでいたのでしょう」
別の者も青ざめた顔で自分の頭を押さえた。
「聖女様の仰ることなら、何でも正しいと思っていた。
疑うことすら、おかしいと……」
次々と我に返った聖職者たちは、
自分たちに何が起きていたのか理解できないまま、その場へ座り込んでいった。
一方、まだ黒いモヤをまとっている者たちは、状況を察して逃げ始めた。
「逃げました!」
エレオノーラが指差すと、セルジュもすぐに反応する。
「右の廊下へ三人!」
「はい!」
「殿下、なぜ自然に連携しているのです!」
ライナーの声を背に、
エレオノーラはドレスの裾を軽く持ち上げ、そのまま走り出した。
人目も気にせず全力で走るのは、本当に久しぶりだ。
昔なら当たり前だったのに、王太子妃教育を受け始めてからは、
廊下を駆けることなど一度もなかった。
それなのに今は、不思議なくらい身体が軽い。
「お待ちください!」
前を逃げる神官たちが振り返る。
「待てと言われて待つものか!」
「それはそうですわね!」
ならば、追いつけばいい。
エレオノーラはさらに速度を上げた。
「速い……」
後ろからライナーの声が聞こえる。
「昔からだよ。僕もよくああやって引っ張り回されてたから」
「今それを懐かしんでいる場合ですか!?」
エレオノーラは先頭の神官へ追いつくと肩を掴み、振り返ったところへ拳を入れた。
「失礼いたします!」
ゴッ!!
一人目が飛ぶ。
残った二人は慌てて左右へ分かれた。
「セルジュ様!」
「左は僕が止めるよ!」
「はい! お願いします!」
エレオノーラが右へ走り、
セルジュは長い脚で一気に距離を詰めて、左へ逃げた神官の進路を塞いだ。
「王太子殿下!?」
「ごめんね。少しここで待ってて」
セルジュは穏やかに微笑む。
その直後、右の廊下から鈍い音が響いた。
「ひっ!?」
神官の肩が跳ねる。
ほどなくして、廊下の角からエレオノーラが戻ってきた。
「お待たせいたしました」
「早かったね」
「はい。綺麗になりましたので」
何が、とは聞かない方がよさそうだった。
神官が青ざめた顔で後ずさる。
「ま、待ってください!」
「申し訳ありません。あなたも黒いので」
エレオノーラは静かに拳を構えた。
「失礼いたしますね!」
「ひっ――」
ゴッ!!
最後の一人も綺麗に吹き飛んだ。
少し離れたところから一連の光景を眺めていたライナーは、額へ手を当てる。
「いったい何を見せられているんだろうか……」
◇
大神官が姿を現したのは、聖教庁内の黒い者たちをかなり浄化した頃だった。
「何事です!」
威厳ある声とともに、純白の法衣をまとった大神官が複数の神官を従えて現れる。
「王太子殿下! これは一体――」
エレオノーラは彼を見た瞬間、思わず足を止めた。
「あら」
大神官が眉をひそめる。
「何です?」
「大神官様も、かなり黒いですわ」
「は?」
国王に次ぐほど濃い黒いモヤが、全身を覆うように蠢いている。
セルジュもすぐに察した。
「大神官も影響を受けているんだね」
「そのようですわ」
「先ほどから何を意味不明なことを!」
大神官が声を荒らげた。
「そもそもエレオノーラ様は、聖女様を呪い殺そうとした罪人でしょう!
なぜここにいるのですか!?」
「その聖女なら偽物でしたよ。エレオノーラに殴られて消滅しました」
セルジュが淡々と答える。
「殴られて……? 何を仰っているのですか!?」
「セルジュ様、やはり毎回その説明をなさるのですね」
「分かりやすいからね」
エレオノーラは小さく息を吐き、それから大神官へ向き直った。
「とにかく、一度殴らせていただけますか?」
「なぜそうなるのです!?」
エレオノーラは、白い手袋をきゅっと締め直す。
大神官が後ずさる。
その瞬間、身体を覆っていた黒いモヤが激しく蠢き、周囲の神官たちへ伸びた。
近くにいた者たちが苦しげに頭を押さえる。
エレオノーラの表情が変わった。
「それはいけませんわ」
「何を――」
一気に距離を詰める。
「少々、失礼いたします!」
ゴッ!!
拳が大神官の顎へ入った。
「ぐっ!?」
大神官の身体が床から浮き、そのまま二メートルほど後方へ吹き飛ぶ。
絨毯の上を転がって止まったところで、ライナーが小さく息を吐いた。
「大神官様も、やはり二メートルですか」
エレオノーラは自分の拳を見下ろす。
「手加減しなければもっと飛ぶのでしょうか」
「検討しないでください」
「大神官様!」
周囲が騒然となる。
だが次の瞬間、大神官の身体から大量の黒いモヤが噴き出した。
エレオノーラの身体から溢れた光がそれを包み、黒いものは次々と消えていく。
やがて、大神官がゆっくりと目を開けた。
「ここは……」
「大神官様。ご気分はいかがですか?」
エレオノーラがそばへしゃがみ込むと、
大神官は何度か瞬きをしたあと、ゆっくりこちらへ焦点を合わせた。
「エレオノーラ様? なぜここに……」
そう呟いてから、ふと顎へ手を添える。
「あの、なぜ顎が痛いのでしょうか」
エレオノーラは少し考えたが、隠すことでもない。
「私が殴りました。浄化のために」
大神官の動きが止まる。
「エレオノーラ様が、拳で?」
「はい。拳で」
大神官はしばらくエレオノーラを見つめたあと、ゆっくりセルジュへ顔を向けた。
「王太子殿下。なぜ止めてくださらなかったのですか」
「浄化のためですから。実際正気に戻ったでしょう?」
「そういう問題ではありません!」
声を上げた拍子に顎が痛んだのか、大神官が顔をしかめる。
エレオノーラは申し訳なさそうに眉を下げた。
「かなり加減したつもりなのですが、やはり吹っ飛びますね」
「二メートルほど飛んでおられました」
ライナーが即座に補足する。
「それは加減したとは言いません!」
「ですが、これでも加減したのですよ。以前よりは」
「前例があるのですか!?」
「ここ一時間ほどで、何度か」
「一時間!?」
「詳しい話は後にしましょう」
セルジュが穏やかに話を戻した。
「それより、聖女について覚えていることは?」
その言葉に、大神官の表情が変わる。
「聖女……そうだ。私は……」
記憶を辿るうちに顔色が青ざめていき、やがて呆然と呟いた。
「聖女認定の儀式を、していない」
周囲の神官たちがざわめく。
「本来なら複数の聖具を用いて、数日にわたり神聖力を確かめなければなりません。
それなのに、あの娘を見た瞬間から、疑う必要などないと思い込んでいた……」
「やはり、聖教庁はかなり早い段階から影響を受けていたのでしょうね」
ライナーの言葉に、大神官は苦しげに頷いた。
そのとき、彼の目がエレオノーラの身体を包む淡い光へ向く。
「それより、その神聖力は……」
「これですか?」
エレオノーラが自分の手を見る。
白い手袋に包まれた拳からも、淡い光が漏れていた。
大神官の目が大きく見開かれる。
「これほどの神聖力を、なぜ今まで誰も気づかなかったのです」
「私にも分かりませんわ」
「本来なら、幼少期に聖女候補として見つかっていてもおかしくないほどです」
エレオノーラは少し考えた。
魔力なら、昔から強かった。
けれど王太子妃になるのだからと、
感情も行動も、そして力までも抑えることが当たり前になっていた。
牢の中で、もう耐えるのはやめようと思うまでは。
「そのことも、後ほど調べよう」
セルジュがそう言ったところで、エレオノーラはふと大神殿の奥へ顔を向けた。
胸の奥がざわつく。
聖教庁へ入ったときから感じていた嫌な気配。
その中でも、大神殿のさらに奥にあるものだけは桁が違った。
「まだ、何かあります」
「何がです?」
「とても黒いものが」
エレオノーラは気配を辿るように歩き出した。
セルジュとライナーが続き、大神官も顎を押さえながらその後を追う。
大神殿の最奥。
巨大な扉を開いた先には、天井近くまで届くほど大きな白い女神像が立っていた。
慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、両手を広げて人々を迎え入れるような姿。
大神官がほっと息を吐く。
「あれは我らが女神様の御神像です。王国建国時からこの地に伝わる大切な――」
「これですね」
説明が止まった。
「はい?」
エレオノーラは女神像を見上げる。
真っ白で、美しい。
けれど、その石の奥深くでは、これまで見たどんなものよりも濃い闇が蠢いていた。
「この女神像」
エレオノーラは眉を寄せ、大神官を見る。
「ものすごく黒いですわ」
その言葉に、大神官はしばらく女神像とエレオノーラを見比べたあと、
慌てたように首を横に振った。
「お、お待ちください。何を仰っているのです。
その御神像は、王国建国時からこの地に祀られている由緒正しき女神像ですぞ!」
「存じております。ですが、由緒があっても黒いものは黒いです」
エレオノーラは女神像を見上げた。
白い石肌に穏やかな微笑み。人々を迎え入れるように広げられた両手。
どこから見ても、聖なる女神を象った美しい像にしか見えない。
けれど、その内側では、これまで見たどんなものよりも濃い闇が蠢いていた。
国王ミヒャエルを覆っていた黒いモヤすら、霞んで見えるほどだ。
「セルジュ様。恐らく、この中に今回の原因がございます」
セルジュには黒いものなど見えていない。
それでも女神像を見上げると、迷うことなく頷いた。
「エレオノーラがそう言うなら、調べよう」
「王太子殿下!?」
大神官がぎょっとする。
「まさか、エレオノーラ様の仰ることだけで御神像を――」
そこでエレオノーラが、白い手袋をきゅっと締め直した。
大神官の顔が引きつる。
「エレオノーラ様。なぜ手袋を直されたのです?」
「念のためです」
「何の!?」
「もちろん、殴るためですが?」
「お待ちください!!」
大神官の声が大神殿に響き渡った。
「御神像ですよ!? なぜすぐ殴ろうとなさるのです!」
「今のところ、それが一番確実ですので」
「まだ中に邪悪なものがいると確定したわけではありません!」
「では、なおさら殴れば分かるかと」
「その確認方法をやめてください!」
大神官が女神像を庇うように両手を広げる。
さすがにライナーも、今回は大神官に同意した。
「エレオノーラ様。一度、別の方法を試されてはいかがでしょう。
聖具で調べるなり、浄化の術式を使うなり――」
「別の方法ですか」
エレオノーラがもう一度、女神像へ目を向ける。
その瞬間だった。
像の奥に潜んでいた黒いものが、わずかに蠢いた。
まるで、自分たちの会話を聞いていたかのように。
エレオノーラの表情が変わる。
「いけませんわ」
セルジュがすぐに反応した。
「どうしたの?」
「中のものが、逃げようとしています」
「逃げる?」
大神官が振り返った、その瞬間。
真っ白な女神像の表面に一本の黒い筋が走り、胸元から首へと一気に広がっていった。
まるで血管のように這う亀裂を見て、大神官の顔から血の気が引く。
「御神像が……!」
「大神官様、退いてください!」
エレオノーラが声を上げると、
まだ女神像を庇おうとする大神官の腕をセルジュが掴み、その場から引いた。
「父上も、聖教庁の人たちも、あれに操られていた可能性がある。
それに、エレオノーラが間違っているとは思えない」
迷いなく言い切られ、エレオノーラの胸が一瞬だけ温かくなる。
だが、それどころではなかった。
女神像全体が大きく揺れ、黒い亀裂からどろりとした闇が滲み出していく。
大神殿そのものが軋み始めたかと思うと、低く歪んだ声が像の内側から響いた。
『ついに見つけたか、愚かな聖女め』
エレオノーラは目を細める。
「やはり、いらっしゃいましたわね」
『貴様さえ目覚めなければ――!』
次の瞬間、黒いものが女神像から一気に溢れ出した。
闇は床や壁を這い、触手のように三人へ襲いかかる。
ライナーが剣を抜き、セルジュもすぐさまエレオノーラの前へ出た。
「エレオノーラ、僕たちもいる。何でも一人でやる必要はないだろう?」
「はい、お願いします!」
セルジュの剣が迫る闇を斬り払う。
すると、切断された黒いものから淡い光が弾けた。
『なぜお前にもこの力が!?』
セルジュ自身も驚いたように剣を見る。
エレオノーラには分かった。
彼の身体にも、ごく淡くだが、自分と同じ暖かな光が宿っている。
「セルジュ様にも、私と同じ光が少し宿っているようです」
「僕にも?」
「恐らく、長く一緒にいたからでしょうか」
幼い頃から、ずっと。
その言葉に、邪神が怒りに満ちた声を響かせた。
『だからか! あの女がどれほど誘惑しても、貴様だけは堕ちなかった!』
セルジュが眉を寄せる。
「誘惑?」
ライナーが一瞬だけ遠い目をした。
「殿下。偽聖女はかなり分かりやすく、あなたへ近づいておりましたよ」
「そうだった?」
「本当にお気づきでなかったのですか」
「僕にはエレオノーラがいるからね」
当然のように返され、エレオノーラの頬がわずかに熱くなる。
「殿下。今は戦闘中です」
「そうだった」
ライナーの冷静な指摘と同時に、再び黒い触手が押し寄せた。
セルジュとライナーが前へ出て斬り払い、その隙間をエレオノーラが駆け抜ける。
近づくほど、はっきり分かった。
邪神の核は、女神像の胸の奥にある。
『来るな!』
黒い触手が集中して襲いかかるが、
一つをかわし、もう一つはセルジュが斬り落とした。
「行って!」
「はい!」
女神像まで、あと数歩。
そのとき、背後から大神官の悲痛な声が飛んできた。
「エレオノーラ様! せめて御神像を壊さない方法を!」
走りながら像の内部を見る。
邪神の核は、完全に石像の中だ。
「無理ですね!」
「そんなぁ!?」
大神官の叫びを背に、エレオノーラは女神像の前で大きく踏み込んだ。
右拳を引く。
すると、身体中を巡っていた力が自然とそこへ集まり始めた。
魔力も。暖かな神聖力も。
そして、牢の中で取り戻した自分自身の意志も。
白い手袋に包まれた拳が、淡い金色の光を放つ。
『やめろ! 貴様は王妃になる女だろう!
淑女として振る舞わねばならぬのではないか!』
その言葉に、八年間の日々が脳裏をよぎった。
走らず、騒がず、感情を抑え、
いつか王妃となる者に相応しくあろうと努力してきた。
それが間違いだったとは思わない。
これからも必要なときには、王太子妃として、王妃として相応しく振る舞うだろう。
「……だからといって、
何も悪くないのに大人しく殺される理由にはなりませんわ」
拳をさらに強く握る。
「それに、もう我慢するのはやめましたので」
『やめろ――!』
「嫌です。消えてくださいませ!」
エレオノーラは全力で拳を振り抜いた。
ドゴォォォォン――!!
凄まじい轟音が大神殿を揺らした。
金色の光をまとった拳が女神像の胸へ叩き込まれた瞬間、
真っ白な石像全体へ無数の亀裂が走る。
「御神像が……!」
大神官が青ざめた顔で呟いた、その直後。
女神像が爆ぜた。
白い石片が四方へ飛び散り、セルジュとライナーが咄嗟に大神官を庇う。
エレオノーラの周囲にも淡い光の壁が広がり、降り注ぐ破片を弾いた。
そして、砕け散った女神像の中心から、巨大な黒い塊が引きずり出される。
『ぎ、あああああああ!!』
邪神の絶叫が大神殿に響き渡った。
エレオノーラの拳から放たれた光が黒い塊を貫き、その内側から闇を焼いていく。
逃れようと激しく蠢いても、光に絡め取られたように離れることができない。
『こんな……はずでは……! 我は……神だぞ……!』
「そうですか」
エレオノーラは首を傾げた。
「ですが、悪い神様なのでしょう?」
『貴様ぁぁぁぁ!!』
最後の叫びとともに、眩い光が弾けた。
視界を埋め尽くすほどの白い光が大神殿を満たし、やがて静かに収まっていく。
あとにはもう、黒いものは一片も残っていなかった。
◇
静寂が戻った大神殿に、砕けた石片がぱらぱらと床へ落ちる音だけが響いていた。
エレオノーラはしばらく拳を突き出したまま立っていたが、
やがて右手を開いて閉じ、もう一度確かめるように開く。
「大丈夫そうですわね」
「エレオノーラ!」
セルジュがすぐさま駆け寄ってきた。
「怪我はない? 手は?」
「大丈夫ですわ」
「とりあえず、見せて」
「またですか?」
そう言いつつも素直に右手を差し出すと、
セルジュは白い手袋の上から指先、手の甲、手首まで真剣に確認した。
傷一つないことを確かめ、ようやく安心したように息を吐く。
「よかった」
「セルジュ様。先ほど、邪神が消滅しましたよ?」
「そうだね。エレオノーラはすごいね」
「女神像も破壊してしまったのに、最初に私の手の心配なのですか?」
セルジュは当然のように答えた。
「もちろん。君の方が大事だからね」
エレオノーラは言葉を失い、頬だけが熱くなる。
少し離れたところで、ライナーが呆れたように息を吐いた。
「この状況でも平常運転ですね」
そのとき、低い呻き声が聞こえた。
三人が振り返ると、大神官が床へ膝をつき、
震える両手を握り締めながら目の前に広がる瓦礫を見つめていた。
「大神官様?」
エレオノーラが声をかけても返事がない。
やがて大神官はゆっくり顔を上げた。
その目には、うっすらと涙まで浮かんでいる。
「王国建国時より、この大神殿で代々守られてきた……女神様の御神像が……」
再び瓦礫へ視線を落とし、ついに耐えきれなくなったように叫んだ。
「女神像がぁぁぁぁぁぁ!!」
二度目の轟音のような絶叫が大神殿中へ響き渡り、
エレオノーラは思わず肩を揺らした。
「も、申し訳ございません!」
「何百年もの歴史がある御神像なのですよ!?」
「ですが、邪神が入っておりましたので!」
「それは分かります! 分かりますが、もう少し何か方法があったのでは!?」
「ありませんでした」
「即答しないでください!」
セルジュは粉々になった瓦礫を眺める。
「新しいものを作ればいいんじゃないかな?」
大神官が勢いよく顔を上げた。
「王太子殿下まで!!」
「だって、邪神が入っていたものをそのまま使い続けるわけにもいかないだろう?」
「理屈ではそうですが!」
珍しく大神官に同情したのか、ライナーがそっと肩へ手を置いた。
「お気持ちはお察しいたします」
「リンハルト卿……!」
「ですが、ここまで粉々になってしまえば諦めるしかありませんね」
「慰めになっておりません!」
エレオノーラも申し訳なさそうに瓦礫を見る。
確かに粉々だった。原形を留めている部分は、ほとんど見当たらない。
「私、やっぱり、少し拳が重すぎるのかもしれません」
大神官が何とも言えない顔でこちらを見る。
ライナーは静かに頷いた。
「ようやくお気づきになりましたか」
「全力を出すのは危険ですわね」
「全力を出さないでください!」
「邪神でしたので」
「そうでした!」
大神官が再び頭を抱えた、そのとき。
粉々になった女神像の跡から、ふわりと白い光が昇った。
その場にいた全員が振り返る。
白い光はゆっくりと人の形を作り、
やがて長い髪と穏やかな瞳を持つ、美しい女性の姿へ変わった。
先ほどまでそこに立っていた女神像によく似ている。
大神官が息を呑み、その場へ勢いよく跪いた。
「女神様……!」
セルジュとライナーも頭を下げ、エレオノーラも慌ててそれに倣う。
「お初にお目にかかります」
王太子妃教育で身につけた通り、美しい礼をする。
先ほど拳一つで女神像を粉砕した人物とは思えないほど、完璧な所作だった。
女神はそんなエレオノーラをしばらく見つめ、それからちらりと右拳へ目を向けた。
なぜだろう。
少しだけ、呆れられている気がする。
『エレオノーラ・ハイリヒベルク。まずは礼を言いましょう』
「はい」
『方法はどうあれ、
長くこの地に巣食っていた邪神を滅ぼしてくれたことには感謝します』
「方法はどうあれ……」
『どうあれ、です』
女神の視線が粉々になった御神像へ向く。
エレオノーラはそれ以上追及しないことにした。
『そして、そなたこそ我が加護を受けた真なる聖女です』
「私が?」
『本来ならば幼い頃に見出されていたはずでした。
しかし、聖教庁は長く邪神の影響を受け、聖具や人々の認識まで歪められていた。
そのため、そなたの資質は見逃され、
偽りの聖女まで入り込むことを許してしまったのでしょう』
大神官が深く頭を下げる。
「私が不甲斐ないばかりに、申し訳ございません……」
『そなた一人の責ではありません』
女神は静かに首を振り、今度はセルジュへ目を向けた。
『王太子が邪神の影響をほとんど受けなかったのも、
幼い頃から長くエレオノーラのそばにいたことで、
彼女の加護を受けていたためでしょう』
「なるほど」
セルジュが素直に頷く。
エレオノーラも、自分の手を見つめた。
牢の中で吹っ切れた途端に強くなったと思っていた力は、
突然生まれたものではなかったらしい。
『そして、エレオノーラ。
そなたの浄化の力について、一つ伝えておかなければなりません』
女神の視線が再び右拳へ落ちる。
『浄化は、殴らなくてもできます』
エレオノーラはゆっくり自分の拳を見た。
「そうなのですか? 触れるだけでも?」
『できます』
「手をかざすだけでも?」
『できます』
「祈るだけでも?」
『もちろんです』
今日一日で殴った人々の姿が、次々と脳裏をよぎった。
騎士、偽聖女、国王、神官たち、大神官。
最後には女神像まで粉砕した。
エレオノーラは恐る恐る尋ねる。
「では、なぜ殴っても浄化できたのでしょう?」
『そなたが無意識に拳へ神聖力を込めたからです』
「まあ」
『まあ、ではありません』
女神の声が少し強くなり、エレオノーラはわずかに肩を縮めた。
『私は浄化の力を授けましたが、拳で殴れとは一言も言っていません』
「はい……」
返す言葉もない。
そこへ、セルジュが口を開いた。
「でも、殴っても浄化できるんですよね?」
女神が黙って彼を見る。
「危険な相手なら、先に動きを止めた方が安全な場合もあると思うのですが」
『王太子、あなたが甘やかすからです』
ライナーと大神官が同時に頷いた。
「その通りです」
「まったくでございます」
「二人とも?」
セルジュだけが不思議そうな顔をしている。
エレオノーラも少し考えてから、そっと口を開いた。
「私も、少し甘やかされすぎている気はしております」
「そうかな?」
「そうです」
『そうです』
女神まで重ねた。
それでもセルジュは納得しきれないようで、しばらく考えた末に言う。
「でも、エレオノーラが無事ならそれでいいと思うけどね」
女神は諦めたように息を吐いた。
『もう結構です』
女神は最後に大神官へ視線を向けた。
『聖教庁は、邪神の影響が完全に取り除かれたか確認しなさい。
偽聖女を認定した経緯と、
エレオノーラにかけられた嫌疑についても改めて調べるのです』
「必ず」
大神官が深く頭を下げる。
『エレオノーラ。そなたにかけられた罪も、すぐに晴れるでしょう』
「ありがとうございます」
エレオノーラが礼をすると、女神の姿が少しずつ淡くなり始めた。
そこで大神官が、はっと顔を上げる。
「女神様! あの、御神像は……」
床一面に散らばった白い破片へ視線を落とす。
女神もそれを見て、ほんの少し間を置いた。
『邪神が巣食っていた以上、仕方ありません。新しいものを作りなさい』
「はい!」
大神官の顔がぱっと明るくなり、エレオノーラも胸を撫で下ろした。
「よかったですわね」
「本当にですよ!」
まだ少し涙目の大神官を見てから、女神は最後にエレオノーラの右拳へ目を向ける。
『ただし、次からはまず殴らない方法を試してください』
「善処いたします」
『善処ではなく』
「努力いたします」
『……まあ、よいでしょう』
どこか疲れたような声を残し、女神は白い光とともにゆっくり消えていった。
しばらく誰も口を開かなかったが、やがてセルジュが隣のエレオノーラを見る。
「つまり、危ないときは殴ってもいいということかな」
「王太子殿下!」
大神官が即座に振り返った。
「今の女神様のお言葉を、どう聞けばそうなるのです!?」
ライナーも深いため息をつく。
「殿下。お願いですから、これ以上エレオノーラ様をそちらへ導かないでください」
「僕は何もしてないけど」
「全肯定しておられます」
「エレオノーラだからね」
また当然のように言われ、エレオノーラは少し困ったあと、ふっと笑った。
ほんの少し前まで、自分はあと十分で死ぬのだと思っていた。
それが今では邪神は消え、偽聖女もいない。
国王も正気を取り戻し、自分にかけられた罪もこれから正式に晴らされる。
そして何より、セルジュがいつものように隣にいる。
「帰ろう。エレオノーラ」
「はい」
差し出された手を取ったところで、後ろから大神官が慌てて声を上げた。
「エレオノーラ様!」
「なんでしょう?」
「本当に、次からはまず触れるだけにしてくださいね!」
エレオノーラは少し考えてから答えた。
「相手が大人しくしてくだされば」
「条件をつけないでください!」
すっかり清浄な空気を取り戻した大神殿に、大神官の悲鳴が響き渡った。
◇
事件の後処理は、驚くほど早く進んだ。
まず、エレオノーラ・ハイリヒベルクに下されていた処刑命令が即時撤回され、
翌日には国王ミヒャエル自ら、
聖女殺害未遂の嫌疑が完全な冤罪であったことを公表した。
証拠とされたハンカチは偽物で、
ハイリヒベルク公爵家の意匠を模倣したものに過ぎず、
縫い込まれていた呪詛もエレオノーラとは何の関係もなかった。
さらに、聖女と呼ばれていた女が邪神の眷属であり、
長い時間をかけて聖教庁や王城の人々へ影響を及ぼしていたことも明らかになった。
国王自身もその被害者であり、
数か月前に治療を受けたことをきっかけに正常な判断力を失っていたという。
そして、もう一つ。
エレオノーラこそが女神の加護を受けた、
真の聖女であることも大々的に発表された。
◇
数日後。
「ここまでは、よろしいのです」
王城の庭園で、エレオノーラは新聞を両手に持ちながら静かに言った。
向かいではセルジュが紅茶を飲み、
その少し後ろにはいつものようにライナーが控えている。
「私が冤罪だったことも、偽聖女が邪神の眷属だったことも、
皆様が邪神の影響を受けていたことも。私が本物の聖女だったことも、事実です」
「うん。そうだね」
「では、なぜ」
エレオノーラは新聞をテーブルへ置いた。
一面には、大きな文字でこう書かれている。
――真なる聖女エレオノーラ、聖なる拳にて邪神を浄化。
「なぜ拳のことまで公表したのです!?」
セルジュは新聞へ目を落とした。
「これも、事実だからじゃない?」
「もっと別の言い方があったでしょう!? 神聖力によって浄化した、とか!」
「でも実際には殴ったよね」
「殴りましたけれど!」
「女神像ごとね」
「そこまで詳しく言わなくてもよろしいのです!」
少し後ろで、ライナーの肩が揺れた。
「ライナー。笑っておりますわね?」
「滅相もございません」
そう答えながらも、その口元は笑っていた。
しかも記事には、邪神を拳で打ち払っただけではなく、
浄化する際に成人男性が二メートルほど吹き飛んだという証言まで載っていた。
「二メートルまで書かれておりますわ!」
「具体的で分かりやすいね」
「そこを評価しないでください!」
エレオノーラはがっくりと肩を落とした。
「私の八年間は何だったのでしょう……」
「八年間?」
「王太子妃教育です!」
十二歳で婚約してから、立ち方も歩き方も、笑い方も話し方も学んできた。
木登りも、高いところから飛び降りるのも、
セルジュの手を引いて王城中を走り回るのもやめた。
誰が見ても、
未来の王太子妃として恥ずかしくない淑女になろうと努力してきたのだ。
「城下町へ勝手に出ることもやめましたのに!」
「また行こうか?」
「そういう話ではありません!」
セルジュが楽しそうに笑う。
エレオノーラはしばらく彼を睨んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「私は、王太子妃に相応しい人間になりたかったのです。
セルジュ様に恥をかかせないように。
いつか王妃になったとき、誰からも後ろ指をさされないように」
だから、お転婆だった自分を少しずつ押し込めてきた。
セルジュはしばらく黙って聞いていたが、やがてカップを置いた。
「エレオノーラ。君が八年間頑張ってきたことは、ちゃんと知ってるよ。
それも全部、今の君の一部だと思ってる」
緑の瞳が、まっすぐ彼女を見る。
「でも、それ以外の君を全部捨てる必要はないだろう?」
「それ以外、ですか?」
「木に登っていた君も、僕の手を引いて走り回っていた君も、
勝手に城下町へ出かけた君も」
「最後のものは反省しておりますわ」
「僕は全部好きだったよ」
エレオノーラは言葉に詰まった。
こういうことを、セルジュは昔から何の躊躇もなく言う。
「だから、無理に自分を押し込めなくていいんだよ」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど、エレオノーラには一つだけ言いたいことがあった。
「ですが、それにしたって殴る王妃は駄目でしょう?」
セルジュは少し考え、にこっと笑った。
「浄化だから大丈夫だよ」
「大丈夫ではありません!」
とうとうライナーが吹き出した。
「ライナー!」
「申し訳ございません」
まったく反省していない顔で笑っている。
エレオノーラは頬を膨らませた。
「お二人とも他人事だと思って」
「他人事ではないよ」
セルジュが穏やかに言う。
「三か月後には、君は僕の妻になるんだから」
「そうでしたわ」
事件があまりにも大きすぎて、一瞬忘れかけていた。
本来なら三か月後、二人は結婚する予定だった。
一度は失われたと思った未来が、
再び何事もなかったように目の前へ戻ってきている。
「今回の件もあったし、結婚式は延期する?」
「なぜですか?」
「聖女としてのことも色々決めないといけないだろう?」
「三か月もございますもの。全部終わらせますわ」
セルジュが笑った。
「そう言うと思った」
「八年も婚約しておりますのに、今さら延期などいたしません」
「それならよかった。式が楽しみだね」
エレオノーラは返事ができず、熱くなった頬を隠すように新聞へ目を落とした。
「ところで、この記事は本当にこのまま残るのでしょうか」
「残るんじゃないかな」
「歴史資料にも?」
「たぶん」
嫌な予感がする。
「私、後世で妙な呼び方をされませんよね?」
「妙な呼び方?」
「例えば……『聖なる拳の聖女』とか」
セルジュは新聞を眺めた。
「格好いいと思うよ?」
「嫌です!」
「じゃあ、『聖拳の聖女』」
「短くすればいいわけではありません!」
そこへライナーが静かに口を挟む。
「三か月後には結婚されますし、
将来的には、『聖拳の王妃』になるかもしれませんね」
「やめてください!!」
庭園に、エレオノーラの悲鳴が響き渡った。
◇
三か月後。
セルジュ・アウレリアとエレオノーラ・ハイリヒベルクは、
当初の予定通り結婚式の日を迎えた。
邪神による騒動のあと、王城も聖教庁も慌ただしい日々が続いた。
精神汚染を受けていた者たちの確認と治療、
偽聖女が関わった案件の再調査、聖教庁の体制見直し。
さらに、真の聖女として正式に認定されたエレオノーラも、
大神官たちとともに神聖力の扱い方を学ぶことになった。
もっとも。
「エレオノーラ様。まずは手をかざしてください」
「はい」
「拳を握らないでください」
「まだ何もしておりませんけれど」
「念のためです」
なぜか毎回そう注意されるようになったこと以外は、特に問題もなかった。
そうして三か月。
婚礼の日程が変更されることもなく、
エレオノーラが十二歳の頃から少しずつ準備されてきた王太子の婚礼は、
予定通り執り行われることになった。
その日、王都は朝から祝福の声に包まれていた。
純白の花々で飾られた大聖堂。
高い天井から柔らかな光が差し込む中、エレオノーラはセルジュの隣に立っていた。
金色の髪は丁寧に結い上げられ、
宝石を散りばめたヴェールが背へ柔らかく流れている。
白を基調とした婚礼衣装は華奢な身体によく似合い、
すらりと伸びた背筋から指先まで、その所作に隙はない。
どこから見ても、完璧な淑女だった。
――少なくとも、黙って立っている分には。
隣のセルジュもまた、王太子に相応しい正装を身につけていた。
柔らかなクリーム色の髪に穏やかな緑の瞳。
暖かな金と深い赤を取り入れた礼装が、その長身によく映えている。
やがて誓いを終え、正式に夫婦となった二人へ、大聖堂いっぱいの拍手が送られた。
その中で、セルジュがエレオノーラへ少し顔を寄せる。
「綺麗だよ、エレオノーラ」
「ありがとうございます」
「とても王太子妃らしいね」
「当然です」
エレオノーラは少し得意げに微笑んだ。
「何年、王太子妃教育を受けてきたと思っているのです?」
「八年だね。でも――」
嫌な予感がした。
「何でしょう」
「昔、木から飛び降りて泥だらけになっていたときも可愛かったよ」
エレオノーラは笑顔を崩さないまま、ほんの少しだけ目を細めた。
「今日それを思い出す必要がございました?」
「なんとなく」
「忘れてくださいませ」
「それは無理かな」
セルジュは楽しそうに笑っている。
数歩後ろに控えていたライナーは、いつものように遠い目をしていた。
今日くらい何も聞かなかったことにしてくれればいいのに。
そう思ったところで、祝福の鐘が鳴り響いた。
これから王都を巡る祝賀パレードが始まる。
エレオノーラは小さく息を吐き、大聖堂の出口へ目を向けた。
今日から、自分は正式にアウレリア王国の王太子妃となる。
あの牢の中で、あと十分で人生が終わるのだと思った日から三か月。
失いかけた未来へ、ようやく辿り着いた。
そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
◇
王都の大通りは、王太子夫妻を一目見ようと集まった人々で埋め尽くされていた。
建物の窓という窓から人々が身を乗り出し、
沿道からは祝福の声が絶え間なく飛んでくる。
その中を進む馬車の上で、
エレオノーラは王太子妃らしい優雅な笑みを浮かべながら、国民へ手を振っていた。
「セルジュ様。すごい人ですね」
「みんな君を見たかったんだと思うよ」
「セルジュ様もでしょう?」
「僕より君の方が人気がある気がするけどな」
「そんなこと――」
そのとき、沿道のどこかから大きな声が上がった。
「聖女様ー!!」
エレオノーラはそちらへ笑顔を向ける。
「エレオノーラ様ー!」
「ご結婚おめでとうございます!」
胸元へ手を添え、丁寧に一礼する。
王国を救った聖女として慕ってもらえるのは、素直にありがたいことだった。
ところが、その直後。
「聖拳の聖女様ー!!」
エレオノーラの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
聞き間違いかと思ったが、すぐに別の方向からも声が飛んでくる。
「聖拳の王太子妃様ー!!」
「王国を救ってくださってありがとうー!」
「聖なる拳に祝福をー!」
どうやら、聞き間違いではないらしい。
それでもエレオノーラは笑顔を崩さず、優雅に手を振り続けた。
今日から自分は王太子妃なのだ。
どのような状況であろうと、国民の前では穏やかな微笑みを保たなければならない。
「セルジュ様、聞こえました?」
「聞こえたよ。聖拳の王太子妃様」
やはり聞き間違いではなかった。
「なぜ、もう定着しているのですか?」
「新聞にも載っていたからじゃないかな」
「聖拳とは書かれていませんでしたよね!?」
「聖なる拳が略されたんじゃないかな?」
「そういう問題ではありません!」
小声で抗議している間にも、
「聖拳の聖女様」「聖拳の王太子妃様」と呼ぶ声はどんどん増えていく。
しかも、誰一人として面白がっている様子はない。
皆、心から尊敬している。
王国を救った聖女として、自分を称えてくれているのだ。
だからこそ、怒るに怒れなかった。
「私、後世に本当に『聖拳の王妃』と書かれる気がしてまいりました」
「たぶん書かれると思う」
「そこは否定してください!」
「でも、いい呼び名だと思うよ。強そうだし」
「私は王妃になる予定なのですよ!?」
「強い王妃でいいじゃないか」
「そういう話ではありません!」
セルジュは楽しそうに笑い、
人々からは見えない位置でそっとエレオノーラの手を取った。
「僕は好きだよ。聖拳の王太子妃」
「セルジュ様」
「もちろん、エレオノーラそのものも」
さらりと言われ、返事に詰まる。
この人は、どうしていつもこうなのだろう。
「本当に、私を甘やかしすぎです」
「女神様にも言われたね」
「少しは反省してください」
「考えておくよ」
「絶対に反省なさいませんね?」
「エレオノーラが元気なら、それでいいかな」
やはり、まったく反省していない。
それでもエレオノーラは笑った。
今度は王太子妃として作った微笑みではなく、昔のように自然な笑顔で。
沿道から、さらに大きな歓声が上がる。
「聖拳の王太子妃様ー!!」
「お幸せにー!」
今度はもう、訂正しなかった。
◇
その後、セルジュは国王となり、エレオノーラは王妃となった。
二人の治世は長く穏やかに続き、
エレオノーラも教育制度の整備や孤児・貧困家庭への支援、聖教庁の改革、
神聖力を持つ者たちの保護制度など、王妃として数多くの功績を残した。
外交においてもセルジュを支え、
後世の歴史書には賢明な王妃として数多くの記録が残されている。
――にもかかわらず。
彼女を語る際、最も広く知られることになった呼び名は、やはり。
『聖拳の王妃エレオノーラ』
だった。
◇
それから、さらに長い年月が流れた。
アウレリア王国、聖教庁。
朝の祈りを終えた若き聖女が、
純白の聖女服に身を包み、大神殿の修練場へ立っていた。
その両手には、白い手袋。
「では、始めましょう」
指導役の神官が声をかける。
「まずは基本姿勢から。
聖拳の王妃エレオノーラ様より伝わる、聖なる浄化の構えです」
「はい!」
若き聖女は足を開いて腰を落とし、両拳を構えた。
「脇を締めて、神聖力を拳へ集中! 邪を祓う心を忘れずに!」
「はい!」
一歩踏み込み、まっすぐ拳を突き出す。
「せいっ!」
ドンッ!!
訓練用の標的が大きく揺れ、神官が満足そうに頷いた。
「よろしい。聖拳の王妃エレオノーラ様も、このように拳へ神聖力を集中させ、
邪神を打ち倒されたと伝えられています。聖女たる者、
いつ邪なる存在と遭遇してもよいよう、日頃から鍛錬を怠らぬように」
「はい!」
大神殿の壁には、歴代聖女たちの肖像画が並んでいる。
その中央に最も大きく飾られているのは、金色の髪と青い瞳を持ち、
美しいドレスに白い手袋を身につけた女性。
エレオノーラ・アウレリア。
聖拳の王妃。
なぜかその肖像画でも、彼女はしっかりと拳を構えていた。
そして隣には、かつて砕けたものに代わって新しく作られた女神像が立ち、
慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、今日も聖女たちの鍛錬を見守っている。
――ただし。
天上からその光景を眺める女神本人は、ひどく遠い目をしていた。
隣に控えていた天使が、恐る恐る声をかける。
「女神様?」
女神は長いため息をついた。
『私は、浄化の力を授けましたが、拳で殴れとは、一言も言っていません』
ちょうどそのとき、地上から元気な声が響いてくる。
「次、正拳突き百回です!」
「はい!」
女神は静かに目を閉じた。
『なぜ、こうなったのでしょう……』
その問いに答える者はいなかった。
そして今日も、アウレリア王国では。
若き聖女が、白い手袋をきゅっと締める。




