第2章(5)それぞれの地獄
### 妻視点/実家
カーテン越しの光が、やけに白かった。
時刻はまだ昼だというのに、部屋の空気は夜のように重い。
この部屋に入ってから、どれくらい経っただろう。
ここから出られないことだけは、はっきりしていた。
そのとき、足音に続いて扉が開いた。
「……まだ理解していないようね」
入ってきたのは、長姉だった。
実家の実権を握る総領娘。
親の決めた相手と結婚し、家名を守り、
父母からも使用人からも、
当然のように一段高い位置に立つ女。
「あなたの夫、李昊天。
――無策よ」
挨拶も、前置きもない。
「市場は疑心暗鬼。
銀行は距離を取り始め、
役員は保身に走っている」
淡々と、
だが“断罪”する声。
「危機に際して何もしない?
それを“胆力”だと思っているなら、
経営を知らなすぎる」
妻は、黙って聞いていた。
怒りより先に、
胸の奥で、ひどく冷たいものが沈んでいく。
――まただ。
昊天を、
“わかったつもり”で裁く視線。
「血筋を気にし、情に縛られ、
決断の速度を失う」
「同族企業にありがちな失敗よ」
長姉は一歩、距離を詰めた。
「あなたも同罪」
「“名門の女”という立場を理解していない」
その瞬間まで、
妻は、言葉を選ぼうとしていた。
だが――
ふと、胸の奥で何かが切れた。
「……姉さん」
自分でも驚くほど、
声は静かだった。
「昊天が“無策”だと、
どうして言い切れるの?」
長姉の眉が、わずかに動く。
「何もしない、という判断を、
“逃げ”だと決めつけているだけじゃない?」
「――何を」
「父が亡くなった十五のときから、
彼は“次は自分だ”と言われ続けてきた」
言葉が、止まらない。
「担ぎ上げられ、
周囲の期待も、恐怖も、
全部ひとりで受けてきた」
「“今すぐ切れ”
“見せしめに叩け”
そんな声に、
従うほうが簡単だったはずなのに」
長姉は、冷ややかに言った。
「結果がすべてよ」
妻は、顔を上げた。
「ええ。だからこそ」
はっきりと。
「“まだ結果が出ていない”段階で、
無策だと断じるのは、
あなたたちの“保身”でしょう」
空気が凍る。
「……何ですって?」
「負けそうな男を、
先に切り捨てて、
“正しかった”と言いたいだけ」
「それは――」
「違わない」
妻は、初めて真正面から長姉を見据えた。
「昊天は、誰にも媚びていない」
「だから、あなたたちには不安なのよ」
沈黙。
長姉の目に、
怒りと――
わずかな苛立ちが混じる。
「……愛だの信頼だの、寝言を言う立場じゃない」
その言葉と同時に、
乾いた音が響いた。
「――あなたは、何も背負わずに生きてきたくせに」
声が、低くなる。
「三女だから。
期待も、責任も、
失敗の後始末も――
全部、私たちが引き受けてきた」
思わず、息をのんだ。
それは、
理屈でも、家訓でもない。
長姉自身の、
積もりきった感情だった。
「私は、
“家の顔”として、長女として、
笑顔ひとつにも意味を持たせて生きてきた」
「間違えれば、家そのものが揺らぐ立場で」
一歩、また近づく。
「それなのにあなたはどう?」
「好きだの、信じるだの、
そんな言葉を使える場所に、
ずっと、いられた」
――違う。
そう言いかけて、飲み込んだ。
否定すればするほど、
この人の怒りは、
もっと深くなるとわかっていたから。
「あなたはね」
長姉の目が、鋭く光る。
「“選ばれなかった側”なのよ」
「だからこそ、今さら“覚悟”の真似事をされるのが、
我慢ならない」
沈黙。
「……そうかもしれない」
長姉の目が、わずかに見開かれる。
「私は、姉さんほどのものを、
背負ってこなかった」
「でも」
視線を逸らさず、続ける。
「だからこそ、“選ぶ”ことだけは、
逃げずにやった」
「昊天を選んだのは、
誰かに決められたからじゃない」
「怖さも、
不安も、
全部わかった上で――
それでも、
彼の隣に立つと決めた」
長姉の表情が、硬直する。
「……愚かね」
吐き捨てるように。
「その“覚悟”がどれだけ脆いか、
思い知ることになる」
頬が、熱を持つ。
「……それでも」
かすれた声で、
しかし確かに。
「私は、“無策な男”の妻ではありません」
長姉は、しばらく何も言わなかった。
そして、背を向ける。
「頭を冷やしなさい。
――妹として」
静寂。
(私が選んだのは、
“正しさ”じゃない)
(あの人の、
沈黙ごと、引き受けること)
それだけは、
もう、揺らがなかった。




