第1章(20)妻の実家
春節2日目は妻の実家を訪れる日。
「お嬢様!」
門をくぐった瞬間、
はずんだ声が出迎えた。
「……小猫」
お仕着せを身に着けた小柄な若い女が駆け寄ってきた。
妻はその手を取り、背を抱いた。
「ただいま」
聞いたことのない、無防備な声。
昊天の胸がチリリと疼く。
だが。
「小猫。なんです、みっともない。」
玄関の奥から、冷えた声。
妻の母だった。
声量は低く、抑揚もない。
命令というより、「当然の処理」という調子。
小猫と呼ばれた女は一礼して下がった。
その一連の動きが、
あまりに滑らかで、
繰り返されてきた光景だとわかる。
妻は無表情で、何事もなかったように背筋を伸ばす。
昊天の胸に、わずかな違和感が残った。
(……今のは、なんだ)
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応接間。
古めかしくも完璧に整えられた空間。
温度も、香りも、距離感も。
父は、昊天と並んだ娘を見る。
——いや、値札を見るような目だった。
「李総裁。相変わらずお忙しいようで」
「まずまずです」
「お身内の混乱も、収束したと」
「はい」
「今をときめく龍騰グループと縁続きになれて、わが家も鼻が高い」
父は如才なく持ち上げるが、内心では実業家の李家を「成り上がり」と見下しているのだ。
「今年の祝宴はことさら華やかだったと聞きましたよ」
母の声。
「娘は、お役に立てましたかしら」
探りを入れるような響き。
“期待値を下回らなかったか”
それだけ。
「お飾りの妻」「マンション暮らしの妾扱い」という口さがない噂は、
上流階級の社交の場を通じて、実家まで届いたようだ。
昊天は静かに頷く。
「李家の妻として、立派に務めを果たしてくれました」
昊天の声にわずかな力がこもる。
「彼女は“役に立った”のではない。
采配したのは、彼女自身だ」
母が、ほんのわずかに眉を動かす。
「まあ、それほどお褒めいただいて、親として鼻が高いですわ」
娘は本宅に入れてもらえない、お飾りの妻なのではなかったか。
探るような目。
昊天は、淡々と返す。
「内情を掌握する力がなければ、評価などできません」
父は沈黙する。
計算が走る沈黙だ。
——娘をどう扱えば、最適か。
「ははは、ならば来年の春節はぜひ、孫の顔を見たいものですな」
父はわざと明るい調子で口を挟んだ。
続いてダイニングルームに案内され、午餐をとる。
その間、妻は一言も挟まない。
挟む余地がないことを、幼い頃から知っている顔だった。
昊天は、そこで初めて理解する。
(……ここでも、愛されるかどうかは、常に条件付きなのだな)
妻は三姉妹の末娘。一人息子の昊天とは違う息苦しさがあるのだろう。
期待されない、何者にもならなくていい、でも失敗は許されない立場。
玄関先で駆けよってきた小猫と、父と母の態度。
あまりにも、落差が大きい。
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帰りの車中。
妻は、窓の外を見たまま言う。
「わが家は、冷えましたでしょう。古い家ですから」
妻は微笑んだ。
諦めのような、哀しみのような。
理解して受け入れてしまった人間の笑みだった。
昊天は、その手を取る。
「……それでもおまえは、あの家を否定しない」
「否定したら、私がここまで生きてきた時間まで、全部否定することになるから」
妻は急に力のこもった声で、
「私、これからもっと御屋敷に顔を出しますね。
梅さんや皆さんにいろいろ教えていただかなきゃ」
その瞬間、
昊天の中で何かが、はっきりと形を持つ。
(守っているつもりでいたが——)
(彼女は、
自分自身を守り抜いて、
ひとりで立つのだ)
覇道の男は、
その強さに、初めて頭を垂れた。




