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名と役割のはざまで~覇道総裁中華財閥ロマンス~  作者: Furi0804
第1章 出会い

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第1章(14)老上海の店で

ロールスロイスの車内は、先ほどまでの百貨店の喧騒が嘘のように静かだった。

防音ガラス越しに、上海の街が夕闇に溶けていく。


妻は窓の外を眺めながら、ふと指先を見下ろす。

先ほど昊天が留めたブレスレットが、微かな音をたてる。


昊天はそれに気づいているのか、いないのか。

彼は背もたれに深く身を預け、目を閉じていた。


だが、完全に休んでいるわけではない。

仕事の合間に見せる仮眠とも違う。

——思考を、静かに整理している顔だった。


春節。

李家の屋敷。

一族の視線。

母のいない家で、長年“女主人不在”だった空間。


そこに、今日選ばせた衣装の妻が立つ。


(……守れるのか)


そう思い込んできたはずなのに、

鏡の前に立つ妻を見た瞬間、胸の奥で確かな感情が動いた。

李家のシンボル、龍をまとった女。


——あれは、李家の女主人だ。

——俺の、妻だ。


「……店は、騒がしくないところにした」


突然の言葉に、妻が振り向く。


「え?」


「今日は……静かなほうがいいだろう」


それは“会食”ではなく、

“二人で過ごすため夕食”を選んだ、という宣言に近かった。


「……はい。嬉しいです」


ロールスロイスは、夜の街へと滑り込んでいった。


---


車が停まったのは、旧租界の静かな並木道だった。

控えめな佇まいの洋館。

知らなければ、通り過ぎてしまうような店だ。


昊天が先に降り、妻に手を差し出す。


「足元、気をつけろ」


扉をくぐると、外の喧騒がすっと遮断された。

木と石を基調にした内装。

香辛料の匂いも強すぎず、どこか“家の食卓”に近い。


「李先生、いつもの個室をご用意しております」


名前も肩書きも出ない。

昊天は短く頷き、妻を先に通した。


個室は四人掛けほどの広さで、窓の外には中庭の灯りが揺れている。

柔らかな間接照明が、二人の影を落とした。


「……ここ、落ち着きますね」


「仕事の店ではない。

 騒がしいところも……今日は避けた」


料理は、昊天がほとんど指示せずに進んだ。

蒸し物、薄味の煮込み、季節の青菜。

華美な主張はないが、一品ごとに丁寧さがある。


「昊天さん、こういうお料理、お好きなんですね」


「……胃に負担が少ない。

 それと……」


言いかけて、言葉を切る。


「それと?」


「……梅が、昔こういうものを作っていた」


母の名は出さない。

妻は、それ以上踏み込まず、ただ微笑んだ。


「懐かしい味、なんですね」


「……ああ」


箸を進める速度が、自然と揃っていく。

会話は多くない。

だが沈黙は、気まずさではなかった。


料理を下げながら、個室担当が控えめに言う。


「お二人でのご利用は初めてでございますね」


一瞬、空気が止まる。


昊天は否定もしなければ、訂正もしない。


「……そうだな」


その一言で、妻の胸がじんわりと熱くなる。


食後、茶が運ばれる。

妻はカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。


「今日……すごく嬉しかったです」


「……何がだ」


「買い物も。

 こうして、一緒に食事できたことも」


昊天は視線を逸らし、しばらくしてから低く答える。


「……俺は、そういうことに疎い。

 だが……嫌ではなかった」


妻は、くすっと小さく笑った。


「それなら、十分です」


店を出ると、夜風が二人を包む。

昊天は自然に、妻の肩に上着をかけた。


「冷える」


その声は、

総裁ではなく、

夫のものだった。



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