第1章(14)老上海の店で
ロールスロイスの車内は、先ほどまでの百貨店の喧騒が嘘のように静かだった。
防音ガラス越しに、上海の街が夕闇に溶けていく。
妻は窓の外を眺めながら、ふと指先を見下ろす。
先ほど昊天が留めたブレスレットが、微かな音をたてる。
昊天はそれに気づいているのか、いないのか。
彼は背もたれに深く身を預け、目を閉じていた。
だが、完全に休んでいるわけではない。
仕事の合間に見せる仮眠とも違う。
——思考を、静かに整理している顔だった。
春節。
李家の屋敷。
一族の視線。
母のいない家で、長年“女主人不在”だった空間。
そこに、今日選ばせた衣装の妻が立つ。
(……守れるのか)
そう思い込んできたはずなのに、
鏡の前に立つ妻を見た瞬間、胸の奥で確かな感情が動いた。
李家のシンボル、龍をまとった女。
——あれは、李家の女主人だ。
——俺の、妻だ。
「……店は、騒がしくないところにした」
突然の言葉に、妻が振り向く。
「え?」
「今日は……静かなほうがいいだろう」
それは“会食”ではなく、
“二人で過ごすため夕食”を選んだ、という宣言に近かった。
「……はい。嬉しいです」
ロールスロイスは、夜の街へと滑り込んでいった。
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車が停まったのは、旧租界の静かな並木道だった。
控えめな佇まいの洋館。
知らなければ、通り過ぎてしまうような店だ。
昊天が先に降り、妻に手を差し出す。
「足元、気をつけろ」
扉をくぐると、外の喧騒がすっと遮断された。
木と石を基調にした内装。
香辛料の匂いも強すぎず、どこか“家の食卓”に近い。
「李先生、いつもの個室をご用意しております」
名前も肩書きも出ない。
昊天は短く頷き、妻を先に通した。
個室は四人掛けほどの広さで、窓の外には中庭の灯りが揺れている。
柔らかな間接照明が、二人の影を落とした。
「……ここ、落ち着きますね」
「仕事の店ではない。
騒がしいところも……今日は避けた」
料理は、昊天がほとんど指示せずに進んだ。
蒸し物、薄味の煮込み、季節の青菜。
華美な主張はないが、一品ごとに丁寧さがある。
「昊天さん、こういうお料理、お好きなんですね」
「……胃に負担が少ない。
それと……」
言いかけて、言葉を切る。
「それと?」
「……梅が、昔こういうものを作っていた」
母の名は出さない。
妻は、それ以上踏み込まず、ただ微笑んだ。
「懐かしい味、なんですね」
「……ああ」
箸を進める速度が、自然と揃っていく。
会話は多くない。
だが沈黙は、気まずさではなかった。
料理を下げながら、個室担当が控えめに言う。
「お二人でのご利用は初めてでございますね」
一瞬、空気が止まる。
昊天は否定もしなければ、訂正もしない。
「……そうだな」
その一言で、妻の胸がじんわりと熱くなる。
食後、茶が運ばれる。
妻はカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。
「今日……すごく嬉しかったです」
「……何がだ」
「買い物も。
こうして、一緒に食事できたことも」
昊天は視線を逸らし、しばらくしてから低く答える。
「……俺は、そういうことに疎い。
だが……嫌ではなかった」
妻は、くすっと小さく笑った。
「それなら、十分です」
店を出ると、夜風が二人を包む。
昊天は自然に、妻の肩に上着をかけた。
「冷える」
その声は、
総裁ではなく、
夫のものだった。




