第1章(13)李家の女主人
### 妻視点
年が明けた週末の午後3時。 朝から外出していた昊天から珍しいメッセージが届いた。
「午後から予定を空けた。迎えに行く」
(昊天が……自分から誘ってきた?)
マンションの車寄せで待っていると、黒のロールスロイス・ファントムが静かに停まる。
運転手がドアを開け、後部座席に乗り込んだ。 今日はいつもの黒スーツではなく、ダークグレーのカジュアルジャケットに白シャツ。 ネクタイなしで襟を開けていて、少しだけ柔らかい雰囲気。
ついたのは上海のランドマーク級高級百貨店。
(買い物なら、外商を呼べばいいのに…)
季節ごとの衣類や日頃の付き合いで必要な贈答品などは、昊天の好みや服のサイズを熟知した百貨店の外商担当者が、自宅まで運んでくる。
「まあ、李総裁、奥方様。いらっしゃいませ。本日はいかがいたしましょう」
入り口に立つと、昊天たちを見つけたデパートの店員があわてて近づいてきた。
視界のはしでは別の店員が外商の担当者を呼びに駆けていくのが見えた。
「今日は、妻の用だ」
「えっ」
思わず顔を上げる。
「来月、春節は一族の者が屋敷に集まる。……お前は、李家の女主人にふさわしい装いを選べ」
百貨店の店員は明るい声で、
「まあまあ、さようでございましたか。では、奥方様、李総裁どうぞこちらへ。ちょうど今なら春節のご衣装を多数とりそろえてございます」
駆けつけてきた外商の担当者とともにVIPルームに案内されながら、こっそりと
「どうして……。私の買い物でしたら、外商の劉さんにお願いしましたのに」
こちらは毎日自宅で暇をもてあます身。多忙な昊天がわざわざ店に足を運ぶまでもない。
すると昊天は目をそらして、言いにくそうにしながら
「その……女はああだこうだ言いながら、あれこれ見て回るのが楽しいのだろう?」
「えっ!?」
「俺にはまったく理解ができんが……昊明が女の買い物とはそういうものだとうるさいから……」
「まあ」
驚いて目をまるくしたとたん、ちょうどVIPルームの扉がひらき、赤や金色を基調とした鮮やかな色彩が洪水のように目に飛び込んできた―ーー
VIPルームの中は、春節の華やかさを凝縮したような空間だった。
赤と金が基調のドレスやチャイナドレス、伝統的な刺繍の入った旗袍、そして現代的なシルエットのイブニングドレスが、柔らかい照明の下でずらりと並んでいる。
外商の劉さんが、にこやかに
「奥方様、李総裁。本日は春節のご家族のお集まりのためのご衣装をお求めとお聞きしましたので、特に李家にふさわしい上品で気品のあるものを中心にご用意いたしました。どうぞごゆっくり」
突然の来訪にもかかわらず、さすがに一流百貨店のベテラン外商だ。手際が良い。
昊天はソファに腰を下ろし、腕を組んで
「……好きに選べ。
俺はここで待つ」
最初に勧められたのは、深紅のベルベット素材のロングドレス。
肩が少し落ちたデザインで、胸元に繊細な金糸の刺繍が施されている。
試着して出てくると、劉さんが目を輝かせて
「まあ! 奥方様、完璧ですわ。本当にお似合いです」
妻は鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。
確かに、上品で華やか。
でも、少しだけ派手すぎる気がした。
昊天の視線が、静かに妻に向けられる。
一瞬、無表情のまま固まって、
「……悪くない」
「本当? でも、もう少し落ち着いた色の方が……」
「……なら、次を見せろ」
劉さんが次々とドレスを持ってきてくれる。
翡翠色のふんわりとした雰囲気のドレス。
少し若すぎる気がする。
その次は淡い金色のシルクチャイナドレス。
伝統的なスタンドカラーに、胸元と裾に龍の刺繍が控えめに輝く。
試着して出てくると、昊天の目がわずかに細くなる。
「……これだ」
昊天がソファから立ち上がり、ゆっくり近づいてくる。
妻の肩越しに鏡を覗き込み、
「この色が、お前の肌に合う。
刺繍の龍も、李家にふさわしい」
頰が熱くなる。
劉さんが「では、アクセサリーも合わせてみましょうか」と言い、翡翠のイヤリングと、細い金のブレスレットを勧めてくる。
昊天が無言でブレスレットを手にし、留め具をカチッと留めた。
指先が手首に触れる瞬間、妻の心臓が跳ねる。
買い物を終えてVIPルームを出るとき、
昊天が自然に妻の手を握る。
エレベーターの中、二人きりになると、
昊天が低く呟く。
「……今日は、悪くなかった」
「私も。昊天さんと一緒に買い物なんて、夢みたい」
「……次は、もっと時間を取る。
……お前が喜ぶなら」。
運転手に促されてロールスロイスの後部座席に乗り込むと、 昊天はちらりと時計に目をやり、
「もうこんな時間か。ここまで出てきたのだから、馴染みの店で夕食もとっていくか」
運転手は心得たように頷き、ゆっくりと車を発進させる。
上海の夕闇に滑り込んでいくように。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
### 昊天視点
「今年の春節の祝宴は、奥様にご指図を仰げばよろしいのでしょうか」年が明けてすぐ、菲菲が尋ねた。
春節か……。中華圏最大の年中行事である春節には、本家たる李家屋敷に一族の者が集い、結束を固める。
本来ならそうした行事の差配は、当主の妻が屋敷の女主人として取り仕切るのだが、李家では昊天の母が病弱かつ早世し、父は妾を屋敷に入れることも、新たに後妻を迎えることもなかったため、その後はメイド頭の老梅が差配していた。
そんな彼女も昊天の結婚が決まり、「私も年ですから、坊ちゃまがこの度お迎えになる奥様にお役目お譲りしたく」と引退を申し出た。
昊天はこれまでの恩に報いるべく彼女が老後を過ごす家を用意してやり、そちらに移った。
ただ、住み込みは止めた今でも、あるじがいない李家屋敷を中心に、内向きの監督をしてくれている。
多忙な昊天は顔を合わせたことはないが、時折マンションのほうにも様子見にきているらしい。
妻は名家の出。任せれば、きちんと差配を振るうこともできるだろう。しかし。
(結婚以来、屋敷に入らなかった奥様が突然やってきた)
(李家の妻として役目も果たしていないのに)
(新婚さんだもの、大勢の使用人に囲まれた屋敷より旦那様とふたりきりで過ごしたかったのでしょうよ)
(まあ、ずいぶんわがままな奥様。名家の出と聞くけど妻の役目もわきまえず)
(しかし、メイドもいないマンション暮らしなんて、こう言っちゃなんだけど、妾扱いよね……)
結婚を機に屋敷を出ると決めたのも、自宅に人を増やしたくない、通いのメイドで十分だと決めたのも昊天だ。
しかし、矛先は確実に妻へむかう。
「菲菲。今年の祝宴はおまえが執事どもに計らって差配しろ。梅も少しは頼れるだろうし、必要な品は外商の劉が心得てる。妻は……時期ではない」
(時期ではない……)
菲菲は少し眉を上げただけで「かしこまりました」と答えた。
時計をみると、昼を少し回ったところ。今日は週末で、差し迫ったスケジュールもない。
「午後は妻と出かける。車をまわせ」
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「午後から予定を空けた。迎えに行く」妻には手短にメッセージを送る。
自宅で合流し、ついたのはなじみの高級百貨店。
「まあ、李総裁、奥方様。いらっしゃいませ。本日はいかがいたしましょう」
入り口に立つと、昊天たちを見つけたデパートの店員があわてて近づいてきた。
視界のはしでは別の店員が外商の担当者を呼びに駆けていくのが見えた。
「今日は、妻の用だ」
「えっ」
思わず妻が顔を上げる。
昊天は呼吸をおき、来訪の目的を告げる。
「来月、春節は一族の者が屋敷に集まる。……おまえは、李家の女主人にふさわしい装いを選べ」
李家の女主人。たんなる李昊天の妻、ではない。
伝統としがらみにがんじがらめにされた、重く、暗い、李家屋敷を取り仕切る要。
内向きの支えとなり、当主の、ひいては一族を栄えに導く者。
その地位につく女として、お前にふさわしい装いを。
それは、この家で戦う華やかな鎧となるから。
なにも知らない百貨店の店員は明るい声で、
「まあまあ、さようでございましたか。では、奥方様、李総裁どうぞこちらへ。ちょうど今なら春節のご衣装を多数とりそろえてございます」
新婚夫婦が新年の晴れ着を選びにきたとでも思ったか。それくらいの配慮がむしろ心を少し軽くする。
駆けつけてきた外商の劉とともにVIPルームに案内されながら、
「どうして……。私の買い物でしたら、外商の劉さんにお願いしましたのに」
妻がささやく。
たしかに、長年李家の外商を務める劉なら、妻の立場にふさわしい装いをみつくろい、自宅に届けるだろう。
では、わざわざ妻を伴って、百貨店などにやってきたのはなぜだ。
急に、足もとがおぼつかないような、不安定な心持ちにさせられた。
「その……女はああだこうだ言いながら、あれこれ見て回るのが楽しいのだろう?」
「えっ!?」
「俺にはまったく理解ができんが……昊明が女の買い物とはそういうものだとうるさいから……」
我ながらへたくそな言い訳だ。しかし嘘ではない。日頃から昊明は「奥さんを独りぼっちにするのはよくないよ。買い物くらい付き合ってあげなよ」などとうるさい。
驚いた妻が目をまるくしたとたん、ちょうどVIPルームの扉がひらき、赤や黄色を基調とした鮮やかな色彩が洪水のように目に飛び込んできた―ーー
VIPルームの中は、春節の華やかさを凝縮したような空間だった。
赤と金が基調のドレスやチャイナドレス、伝統的な刺繍の入った旗袍、そして現代的なシルエットのイブニングドレスが、柔らかい照明の下でずらりと並んでいる。外商の劉がにこやかに近づいてきて、
「奥方様、李総裁。本日は春節のご家族のお集まりのためのご衣装をお求めとお聞きしましたので、特に李家にふさわしい上品で気品のあるものを中心にご用意いたしました。どうぞごゆっくり」
突然の来訪に面食らっても、ここに着くまでにこれだけの品をとりそろえておくのは流石の手腕だ。
昊天はソファに腰を下ろし、腕を組んで
「……好きに選べ。
俺はここで待つ」
最初に劉が勧めたのは、深紅のベルベット素材のロングドレス。
肩が少し落ちたデザインで、胸元に繊細な金糸の刺繍が施されている。
劉は目を輝かせて
「まあ! 奥方様、完璧ですわ。本当にお似合いです」
妻は鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。
確かに、上品で華やか。
でも、少しだけ派手すぎる気がした。
「……悪くない」
「本当? でも、もう少し落ち着いた色の方が……」
言わずとも、わずかな雰囲気で察することができる妻。
「……なら、次を見せろ」
劉が次々とドレスを持ってくる。
翡翠色のふんわりとした雰囲気のドレス。
その次は淡い金色のシルクチャイナドレス。
伝統的なスタンドカラーに、胸元と裾に龍の刺繍が控えめに輝く。
試着して妻が出てきたとき、昊天は目をわずかに細めた。
「……これだ」
ソファから立ち上がり、ゆっくり近づいて
妻の肩越しに鏡を覗き込み、
「この色が、お前の肌に合う。
刺繍の龍も、李家にふさわしい」
妻の頰が赤くなる。
劉が「では、アクセサリーも合わせてみましょうか」と言い、翡翠のイヤリングと、細い金のブレスレットを勧めてくる。
昊天は無言でブレスレットを手に取り、留め具をカチッと留めた。
指先が手首に触れる瞬間、妻が一瞬ふるえた。
買い物を終えてVIPルームを出るとき、
自然に妻の手を握っていた。
エレベーターの中、二人きりになると、
昊天が低く呟く。
「……今日は、悪くなかった」
たしかに、あれほど買い物が苦手で、必要なものはすべて劉に任せてきたのに、今日はなぜか心が軽い。
「私も。昊天さんと一緒に買い物なんて、夢みたい」妻が顔を赤らめる。
握った指に思わず力がこもる。
「……次は、もっと時間を取る。
……お前が喜ぶなら」
心が軽くなったら、少し空腹を感じた。
運転手に促されてロールスロイスの後部座席に乗り込み、
「もうこんな時間か。ここまで出てきたのだから、馴染みの店で夕食もとっていくか」
日頃、仕事の会食や、体調を整える以外食事に重きをおかない昊天にしては珍しいことだ。
運転手は心得たように頷き、ゆっくりと車を発進させる。
上海の夕闇に滑り込んでいくように。




