第2章(3) 第二波――揺らぐ信用
その日の午後。
龍騰大厦の執行フロアには、電話の呼び出し音が絶え間なく響いていた。
普段は抑制された動線が、わずかに乱れている。
「総裁、第二メインバンクからです。
“担保評価の再査定”を正式に要求してきました」
菲菲の声は冷静だが、言葉の内容は重い。
「……来たか」
昊天は、タブレットを閉じる。
担保評価の再査定。
それは、金融機関が口にする最初の撤退シグナルだった。
「一行だけではないな」
「はい。
他二行も“内部審査が必要”との回答です。
ただし——」
菲菲は、一瞬言葉を切る。
「そのうち一行は、叔父様の影響が強い取締役が、今朝から動いています」
「露骨だな」
昊天は、短く息を吐いた。
市場は数字よりも、空気で動く。
銀行が揺れれば、取引先が揺れる。
取引先が揺れれば、社員が揺れる。
——それを狙っている。
「IRは?」
「声明は予定通り出しました。
“当社は事実関係を精査中であり、開示が必要な場合は速やかに公表する”と。
株価は……さらに4%下落です」
「十分だ」
「……十分、ですか?」
菲菲が思わず聞き返す。
昊天は、窓の外に視線を投げた。
上海の空は曇っている。
「恐怖は、一定量を超えると質が変わる。
今は“疑念”。
だが、このまま下げれば——」
彼は、ゆっくりと言った。
「“誰かが責任を取るべきだ”という空気になる」
菲菲は理解した。
矛先は、現経営陣。
つまり——昊天自身。
「叔父派は、その瞬間を待っている」
「そうだ。
“市場の声”という名の刃を持ってな」
そのとき、内線が鳴る。
「総裁、面会要請です」
「誰だ」
「……叔父様の代理人です。
“非公式に、一言ご挨拶を”と」
菲菲の目が、一瞬だけ鋭くなる。
昊天は、少しだけ口角を上げた。
「通せ」
「——よろしいのですか?」
「ここで拒めば、“話し合いを拒否する独裁者”だ」
彼は、椅子から立ち上がる。
「向こうは、勝ちに来たと思っている。
なら、一度くらい——」
ネクタイを、きっちり締め直す。
「勝者の顔を、見せてもらおう」
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応接室に入ってきた男は、五十代後半。
柔らかな笑みと、完璧なスーツ。
「ご無沙汰しております、昊天総裁。
いや…若様、と呼ぶべきでしょうか」
「用件を」
昊天は、椅子に座りもしない。
男は肩をすくめ、余裕の声で言った。
「市場が、少々荒れておりますな。
龍騰ほどの企業が、外部資本に狙われるのは——
経営に“隙”がある証拠だ」
「結論は?」
「簡単な話です」
男は、書類を一枚差し出した。
「一時的に、経営の舵を
“経験ある年長者”に預けてはどうか、と」
——事実上の、退陣要求。
「そのほうが、
株価も、銀行も、世論も……安心する」
「昊天様は名誉職として会長に」
静寂。
昊天は、書類に目も落とさず、言った。
「叔父に伝えろ」
低い声。
「——龍騰は、
“安心”で動く会社ではない、と」
男の笑みが、わずかに引きつる。
「それと」
昊天は、一歩近づく。
「この買収、
途中で降りた海外ファンドがあったな」
「……何のことでしょう」
「彼らは、私の“次の一手”を知らない」
男の背中に、冷たいものが走る。
「だが、
叔父は——」
昊天は、はっきり言った。
「知っているはずだ」
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代理人が去ったあと、菲菲が静かに言う。
「……総裁。
そろそろ、仕込みが効いてきています」
「ああ」
昊天は、ようやく椅子に腰を下ろす。
「次は、
“こちらが動かざるを得ない”と
市場が思い込んだ瞬間だ」
タブレットに表示される、別の資料。
そこには——
龍騰が水面下で進めてきた、切り札の一端。
(もう少しだ)
嵐は、まだ終わらない。
だが、主導権はこちらの手にある。




