第1章(11)契約結婚の義務
豪奢なペントハウスは静かすぎた。
昊天は今夜も帰らない。
書斎の灯りは消え、リビングのソファに座ったまま、私はスマホを握りしめていた。
深夜1時を回った頃、着信が鳴った。
母の名前。
珍しい。 普段はメールか代理人経由なのに。
「はい……お母様。」
声を出した瞬間、喉が少し詰まった。 母の声はいつも通り、事務的だった。
「なにやら近頃、李総裁の周囲が騒がしいようね。わが家のほうまで聞こえていますよ。
……で、跡継ぎはまだなの?」
一瞬、息が止まった。
「まだ……です。」
「まだ、ですか。」
母の声に、わずかな苛立ちが混じる。
「あなたも32歳にもなってようやく結婚したんだし、そろそろね。
うちの家としても、李家との結びつきを強くするためには、子が必要なのよ。
総裁はお忙しいんでしょうけど、 夫婦の時間くらい、ちゃんと作ったら?」
夫婦の時間。 その言葉が、胸に突き刺さった。
昊天は帰ってきても、ほとんど言葉を交わさない。 リビングで一瞬目が合っても、すぐに書斎へ。
寝室で隣にいる夜すら、ほとんどない。 触れ合うことなど、もっとない。
私が足りないから。 魅力がないから。
私を「妻」として必要としていないから……?
「……わかりました。 努力します。」
それだけ言って、電話を切った。
スマホをテーブルに置くと、手が震えていた。
母は、昊天の忙しさを「言い訳」として片付けた。
私の気持ちなんて、考えもしない。
両親にとって、私は「家の道具」。 跡継ぎさえ産めば、それで役割は終わり。
でも、私の心は…… あの人に、少しでも近づきたくて。
近づけたと思ったら、今は、夫婦の時間すらない。
帰ってきても、疲れた顔でソファに座り、 「寝ろ」とだけ言って書斎へ消える。
私は一人でベッドに入り、 あの人の匂いが残る枕を抱いて、静かに待つだけ。
跡継ぎ……。 それが、彼をさらに遠ざける理由になるかもしれない。
私が「義務」を押し付けたら、 あの人はもっと逃げてしまうかもしれない。
涙がこぼれそうになったけど、 ぐっと堪えた。
(……待つしかない。 あの人が、自分から帰ってきてくれる日を。)
窓の外、上海の夜景が冷たく輝いていた。




