第1章(10)後悔
### 昊天視点/スイスのヴィラにて
青春時代を過ごしたスイスでの妻との10日間。
彼は久しぶりに、
“総裁”ではなく“ひとりの人間”として過ごした。
朝は湖畔をゆっくりと歩き、昼はめいめい過ごし、夜はワインを開け、そのまま肌を重ねる。
笑い、
触れ、
寄り添い、
眠る妻の横顔に安堵すら覚えた。
「叔父派の残党が動いてる。兄さん、まずい」
もっとも信頼するいとこ、昊明からの緊急連絡が飛び込んだ瞬間、
昊天の血の気が引いた。
昊天は短く返事を返し、
妻を見る。
妻は心配そうに彼を見つめていた。
——その目が痛い。
(……俺が隙を作ったせいだ)
スイスの幸福が、
昊天には“罪”に感じられた。
なにが覇道総裁だ。これではたんなる腑抜けではないか。
「……すぐ上海に戻る」
妻は一瞬驚き、
すぐ小さく頷いた。
「昊天兄さん! 遅いよ!」
空港の滑走路で待ち構えていた昊明は、
兄の険しい顔を見た瞬間、
全てを理解した。
「残党、動きマジでやばいよ。
……で、奥さんは?」
昊天は答えなかった。
そこに——
白いストールを胸に抱えた女性。
「はじめまして。兄さんの奥さんでしょ。あ、結婚式で会ってるから初めてじゃないんだけど。いとこの昊明です」
「……急ぐぞ」
逃げるように歩き出す兄の背に、
昊明は心の中でそっと呟いた。
(……兄さん、それはないでしょ)
昊明は心の中で大きくため息をついた。
だが声に出したのは明るく軽い調子だった。
「兄さん、奥さん泣いちゃうよ〜?」
昊天の肩がわずかに震えた。
迷いを振り切るように、昊天は大股で歩き出す。
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###菲菲視点
昊天の表情は厳しく、冷たく、いつも通りだった。
菲菲の胸は痛んだ。
だが、同時に深い安堵がよぎる。
(……総裁が、“総裁”に戻った)
そのときだった。
空港ロビーで、白いストールを握りしめて立ち尽くす女性の姿が、視界の端に映った。
雨に濡れたガラス越し、滲んだ光の中で。
彼女はひとり、昊天の背中が遠ざかるのを見つめていた。
泣いてはいない。
ただ、痛むように胸元を押さえていた。
菲菲の呼吸が、一瞬止まる。
(……奥様。あなたは悪くないのに)
昇りかけたエレベーターの扉が閉まりかけ、菲菲は拳を握った。
「菲菲、行くぞ。」
昊天が振り返りもせず言う。
「はい、総裁。」
返事の声は揺れていなかった。
揺れてなど、いけなかった。
エレベーターが完全に閉まる直前。
菲菲は、最後にもう一度だけ外を見た。
奥様は、雨の中、まっすぐ立っていた。
まるで昊天の帰りを信じるように。
(……どうしてそんな目で、総裁を見られるのですか)
問いを飲み込む。
影が光に問いかけることは許されない。
菲菲は昊天の背後、ほんの半歩後ろに立つ。
それが自分の居場所だ。
そして、決して隣には並べない。
(総裁が幸せになるなら、それでいい。
たとえその幸せに、私はいらなくても)
胸の奥がじん、と熱い。
けれど涙は出ない。
泣く資格など、最初からない。
暗いエレベーターホールへと降りていく中で、
菲菲は静かに目を閉じた。
──影は、光を照らせない。
ただ、その光が消えないよう、側で見守るしかない。
それが、彼女の恋のすべてだった。




