第1章(8)逃げない夜
### 昊天&妻視点
メッセージを送ったのは、
夜の11時を回ったころだった。
『今夜、帰って来られますか。少し、話したいことがあります』
送ったあと、手が震えていた。
頼るような、縋るような言葉を選ばないように。
でも強すぎてもいけない。
ただ“向き合いたい”と伝えるための
ぎりぎりの文章。
「送信完了」妻はゆっくり息を吐いた。
(……逃げてもいい。でも、今日だけは向き合ってほしい)
梅さんの言葉が胸を支えていた。
——坊ちゃんは、自分が幸せになってはいけないと
思い込んでいるんですよ
あの言葉で、
妻は初めて「逃げる理由」に触れた気がした。
---
昊天は本社ビルの執務室で、
資料を手にしたまま動けずにいた。
今日もまた、妻の顔を見ていない。
机に置いたスマホが
一度だけ震えた。
昊天は、
その名前を見るだけで胸がざわつく。
(……なぜ、今)
開くべきでない。
見れば揺らぐ。
読んだら、帰りたくなる。
恐怖に近い感情が指先を止める。
けれど、
逃げ続ける重圧に疲れ切った心が、
ほんの少しだけ沈黙を破った。
通知を開く。
『今夜、帰って来られますか。少し、話したいことがあります』
昊天は息を呑んだ。
胸の奥のどこかが、
静かに崩れるような感覚。
(……話したい?
俺と?)
逃げる理由は、
自分が壊れているからだ。
妻を傷つける未来が見えてしまうからだ。
だから距離をとってきたのに——
妻の言葉は、
昊天の逃げ道を優しく塞いでいた。
(……帰らなくては)
昊天はゆっくり息を吸って、
スーツの上着をつかんだ。
---
カードキーを翳すと、
軽い電子音が鳴った。
昊天はドアを開け、
ゆっくり歩いてくる。
ペントハウス2階のここは夫婦だけのプライベートなスペース。
ソファにいる妻と目が合う。
昊天が口を開く。
「……来た。」
本当に幼い子どものような声で。
妻の胸に何かがせり上がる。
「ありがとう。」
昊天は眉を寄せ、視線を逸らす。
その姿に、
妻ははっきりと気づいた。
(ああ……この人は、怖いんだ)
自分ではなく、
自分が「家族」になることが。
「話はなんだ。」
昊天が座り、前を向いたまま言った。
妻は頷いた。
「うん。……昊天さん、
ずっと私のこと避けてたよね。」
昊天は息を殺す。
「嫌いなの?」
「違う」
間髪入れず返ってきたその一言に、
妻の胸が熱くなる。
「じゃあ……なぜ?」
昊天は顔を手で覆った。
「……俺は、人を幸せにできない」
「そんなこと——」
「ある!」
強い声だった。
昊天自身の痛みが裂けて出た声。
妻の胸がぎゅっと締めつけられた。
「だから、
おまえを巻き込みたくなかった。
……おまえが俺のそばで苦しむのが怖い」
その言葉——
すべてが答えだった。
妻はゆっくり首を振る。
「そんなふうに、ひとりで決めないで」
涙が一粒だけ落ちた。
「昊天さんは私が怖くて逃げてるんじゃない。
……私のこと、大事だと思ってるから逃げてるんでしょう?」
昊天の呼吸が止まる。
「違うって言える?」
彼は……言えなかった。
妻は近づき、
そっと昊天の手に触れた。
「ねぇ……
私はあなたが怖がることも、
逃げることも、
全部知りたい」
昊天は小さく震えた。
「……俺は……
どうしたら、いい?」
その問いは、
少年のような声だった。
妻は微笑んだ。
「まずは、戻ってきて。ここは、あなたの家」
昊天は顔を上げた。
目の奥が揺れていた。
彼はゆっくりと、
とてもゆっくりと
妻の手を握り返した。
その瞬間、
二人の間に流れていた長いすれ違いが
ふっと消え去り
あたたかいものが
静かに二人を包んだ。
妻の首に手を回し、ゆっくりと口づける。
顔を離し、見つめあう。
そしてまたゆっくりと、長く、唇をあわせる。
身じろぎをし、身を横たえる。
妻の吐息が耳をくすぐる。
まるで溶け合うようだ。
昊天はぼんやりと思った。
和解の夜は、
静かで、深く。
そして確かな未来へ向かって
ゆっくりと動き出した。




