第1章(7)坊ちゃんの帰る家
###老梅視点
上海の摩天楼を一望する豪奢なペントハウスの廊下は静かだった。
深夜でもないのに、人の気配が薄い。
老梅は、奥様がひとりリビングに立ち尽くしているのを見つけた。
大きな窓から差す夕景の光に、
奥様の肩が小さく沈んで見えた。
「奥様……?」
声をかけると、妻はゆっくり振り返った。
微笑んだように見えたが、
その目の奥に影が揺れた。
「梅さん……昊天さん、また今夜は帰ってこないそうです」
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ふたりが夫婦になった夜。
溶け合うような温もりの中でもう離れないと誓ったはずなのに、翌朝昊天の姿はなかった。
そのまま海外出張になり、もう何日も家に戻ってこない。
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“また”。
その一言で、老梅はすべてを察した。
(坊ちゃんはまた逃げているのですね)
昊天の母が早世した後、老梅は母代わりとなって育ててきた。
結婚した今も、こうして時折新居の手伝いにきている。
あの子は昔からそうだ。
欲しいものほど、手を伸ばせずに離れてしまう。
「奥様、お座りになってくださいな」
二人でソファに腰を下ろすと、
奥様はそっと胸に手を当てた。
「私が……何か、いけないのでしょうか。
あの人の迷惑になっている気がして」
その声が震えていて、
老梅の胸もきゅっと痛んだ。
(違いますよ、奥様。坊ちゃんは自分がだめなのだと思っているだけ)
でも、それをそのまま言っても伝わらない。
昊天が抱えているものは、
言葉にしたところで簡単に消えるものではない。
だから老梅は、
奥様の手をそっと包んで、静かに語り出した。
「坊ちゃんはね……人を傷つけてしまうのではないかと、
昔から、ずっと怖がっておいでなんですよ」
奥様がはっと目を上げる。
老梅は優しく笑った。
「奥様を避けているのは、嫌いだからではありません。
大事に思うからこそ……怖いのです。
大切なものほど、手を伸ばせなくなるんです」
奥様の瞳が揺れ、涙の光がかすかに浮かぶ。
「……私、どうしたらいいんでしょう」
その問いは弱さではなく、
あたたかい勇気から生まれたものだ。
だから答える。
「待っているだけでは、坊ちゃんは気づきません。
ご自分が幸せになってはいけないと思い込んでいますから」
それが切なくて、愛おしくて、悲しい真実。
「奥様。どうか、ひと言でいいんです。
“戻ってきてくれますか”と……
奥様の声で、坊ちゃんを呼んであげてください」
奥様は胸元をぎゅっと握りしめ、
息を整える。
「そんな一言で……昊天さん、変わるでしょうか」
老梅は微笑む。
ゆっくり、確信を込めて。
「変わりますとも。
坊ちゃんは、いつだって……
本当は家に帰りたい子ですから」
奥様はその言葉に目を伏せた。
ゆっくり、ゆっくりと決意の光が宿っていくのが分かった。
「……ありがとう、梅さん。
私、もう逃げません」
そのひと言に、老梅は胸が熱くなった。
(あぁ……坊ちゃん。
あなたには、この人が必要だったのですね)
昊天はまだ帰ってこない。
今夜も、明日も、逃げるかもしれない。
でも——
奥様が呼ぶなら、いつか必ず振り向く。
坊ちゃんは、
“帰る家”を持ったのだから。
老梅は静かに立ち上がり、
夕闇に沈む街を見下ろした。
(坊ちゃん……どうか、奥様のところへお帰りなさい)
その祈りは、
夜のはじまりに溶けていった。




