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名と役割のはざまで~覇道総裁中華財閥ロマンス~  作者: Furi0804
第1章 出会い

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第1章(7)坊ちゃんの帰る家

###老梅視点


上海の摩天楼を一望する豪奢なペントハウスの廊下は静かだった。

深夜でもないのに、人の気配が薄い。

老梅は、奥様がひとりリビングに立ち尽くしているのを見つけた。

大きな窓から差す夕景の光に、

奥様の肩が小さく沈んで見えた。

「奥様……?」

声をかけると、妻はゆっくり振り返った。

微笑んだように見えたが、

その目の奥に影が揺れた。

「梅さん……昊天さん、また今夜は帰ってこないそうです」


---


ふたりが夫婦になった夜。

溶け合うような温もりの中でもう離れないと誓ったはずなのに、翌朝昊天の姿はなかった。

そのまま海外出張になり、もう何日も家に戻ってこない。


---


“また”。

その一言で、老梅はすべてを察した。

(坊ちゃんはまた逃げているのですね)


昊天の母が早世した後、老梅は母代わりとなって育ててきた。

結婚した今も、こうして時折新居の手伝いにきている。


あの子は昔からそうだ。

欲しいものほど、手を伸ばせずに離れてしまう。

「奥様、お座りになってくださいな」

二人でソファに腰を下ろすと、

奥様はそっと胸に手を当てた。

「私が……何か、いけないのでしょうか。

あの人の迷惑になっている気がして」

その声が震えていて、

老梅の胸もきゅっと痛んだ。

(違いますよ、奥様。坊ちゃんは自分がだめなのだと思っているだけ)


でも、それをそのまま言っても伝わらない。

昊天が抱えているものは、

言葉にしたところで簡単に消えるものではない。

だから老梅は、

奥様の手をそっと包んで、静かに語り出した。


「坊ちゃんはね……人を傷つけてしまうのではないかと、

昔から、ずっと怖がっておいでなんですよ」

奥様がはっと目を上げる。

老梅は優しく笑った。

「奥様を避けているのは、嫌いだからではありません。

大事に思うからこそ……怖いのです。

大切なものほど、手を伸ばせなくなるんです」

奥様の瞳が揺れ、涙の光がかすかに浮かぶ。


「……私、どうしたらいいんでしょう」


その問いは弱さではなく、

あたたかい勇気から生まれたものだ。

だから答える。

「待っているだけでは、坊ちゃんは気づきません。

ご自分が幸せになってはいけないと思い込んでいますから」

それが切なくて、愛おしくて、悲しい真実。

「奥様。どうか、ひと言でいいんです。

“戻ってきてくれますか”と……

奥様の声で、坊ちゃんを呼んであげてください」

奥様は胸元をぎゅっと握りしめ、

息を整える。

「そんな一言で……昊天さん、変わるでしょうか」

老梅は微笑む。

ゆっくり、確信を込めて。

「変わりますとも。

坊ちゃんは、いつだって……

本当は家に帰りたい子ですから」


奥様はその言葉に目を伏せた。

ゆっくり、ゆっくりと決意の光が宿っていくのが分かった。

「……ありがとう、梅さん。

私、もう逃げません」

そのひと言に、老梅は胸が熱くなった。


(あぁ……坊ちゃん。

あなたには、この人が必要だったのですね)


昊天はまだ帰ってこない。

今夜も、明日も、逃げるかもしれない。

でも——

奥様が呼ぶなら、いつか必ず振り向く。

坊ちゃんは、

“帰る家”を持ったのだから。

老梅は静かに立ち上がり、

夕闇に沈む街を見下ろした。

(坊ちゃん……どうか、奥様のところへお帰りなさい)

その祈りは、

夜のはじまりに溶けていった。

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