第1章(4)触れない指先
###昊天 & 妻視点
チャリティーガラの会場を出た瞬間、 夜風がひんやりと肌を撫でた。
昊天が差し出した手を、 妻はゆっくりと取った。
外にいる間、昊天は“完璧な夫”だった。
穏やかな笑顔。 形式的な触れ合い。
メディアの視線のなかで自然に肩を寄せ、 妻をエスコートし、 耳元に柔らかくささやいたりもする。
——そのすべてが “演技”だと分かっていても、 妻の胸は静かに疼いた。
車に乗り込むまでの数分だけ、 彼らは理想の夫婦だった。
リムジンの扉が閉まると、 演技は終わった。
車内の照明が落ち、 二人の影が遠くなる。
昊天は、 外で見せた笑みを一瞬で消した。 ネクタイを緩め、 窓の外に視線を投げる。
その横顔には、 疲れと焦りが滲んでいた。
妻はその表情を見つめた。 何か言いたかった。 でも言葉が喉で溶ける。
いつもなら—— ただ沈黙が落ちるだけの車内。 だが今夜は。
書斎の夜が胸に残っている。 触れそうで、触れられなかった距離。 抱き寄せられそうで、拒まれた腕。
あの痛みがまだ残っていた。 だから、 彼女は勇気を振り絞った。
「……今夜は、“出ていけ”とは言わないのね」
静かな声だった。 涙でも怒りでもない。 ただ“確かめたい”だけの声。
昊天の肩が、微かに揺れた。 彼は返事をしなかった。
しかし目を逸らしたまま、 ほんの僅かに、喉を鳴らした。
「……言えない。」
かすれた低い声が落ちた。 妻の胸に、 小さな灯りのようなものが灯る。
逃げることもできたはずなのに。 嘘をつくこともできたのに。 昊天は、誤魔化さなかった。
(……言えない、って…… 私を追い出すことが……できないということ?)
心の奥で、 かすかに希望が揺れた。
妻はそっと、 彼の袖を摘んだ。 ほんの指先。 布の端に触れるだけ。
昊天は一瞬、呼吸を止めた。 触れられることに慣れていない男。 それでも振り払わなかった。
その沈黙が、 妻には答えのように思えた。
昊天は小さく息を吐いた。 それは、 夜に溶けるような、弱い吐息だった。
「……重いんだ。」
「え?」
「お前が……重い。 俺の胸の……奥に。」
妻の心が、きゅっと掴まれた。
“重い”という言葉の痛さではない。 その声に宿る、 “触れたいのに触れられない男の苦しさ”のほうだ。
彼は続けた。
「俺は……近づくほど、 どうしていいか分からなくなる。」
それは 長年閉じ込めてきた 少年の痛みそのものだった。
妻は、 袖を離さなかった。
「……私は、 どうしても昊天さんのそばにいたい」
昊天は横を向いたまま、 瞳だけがわずかに揺れた。
言葉は返さない。 返せない。
それでも、 彼の肩の緊張が少しだけ解けた。
リムジンは夜の街を静かに走っていく。 二人の距離はまだ遠い。 触れない指先のまま。
けれど—— 今夜初めて、 昊天は拒絶しなかった。
その事実だけが、 妻の胸に小さな光を灯していた。
そして昊天もまた、 その光に気づいて戸惑っていた。
触れたら壊れると信じていた心に、 初めて温度が生まれそうだったから。




