第1章(3)壊れる距離
ペントハウスの廊下は静かで、
夜景の灯りだけが足元を照らしていた。
妻は意を決して、
書斎の前に立った。
(……今日こそ話したい)
ここ数週間、
昊天は彼女を避け続けていた。
朝より早く家を出て、
夜遅くに戻ってきて、
そのまま書斎に閉じこもる。
“夫婦”という言葉があまりに遠い。
だから——今日は。
これまでの距離を、
少しでも埋めたかった。
妻はノックもできず、
扉にそっと手を添えた。
そのとき、中から低い声がした。
「……入るな」
まるで彼女の気配を感じ取ったように。
胸が小さく痛んだが、
後退るわけにはいかなかった。
意を決して扉を押す。
書斎には灯りが一つ。
昊天はデスクの脇に立っていた。
妻を見ると、
その眉がわずかに寄った。
「……何しに来た」
その声音には怒りはなく、
ただ、自分を守ろうとする鋭さだけがあった。
妻は震える指先を隠すように、胸の前で手を組んだ。
「昊天さん……少しだけ、話がしたいの」
沈黙。
昊天の喉が、ひくりと動く。
(やめろ。こちらを見るな)
(その声で、距離を詰めようとするな)
心で叫びながら、
彼はこぶしを握りしめていた。
「私……何か、怒らせたなら謝りたいの。
嫌われるようなこと、したのなら——」
「違う。」
昊天の声が、鋭く空気を切った。
妻は驚き、目を見開いた。
昊天自身も驚いていた。
声が出たことに。
「……違う。
お前が悪いわけじゃない」
その言葉が落ちた瞬間——
妻の胸の奥に、温かさと痛みが同時に広がった。
「じゃあ……どうして避けるの?」
昊天は視線を逸らす。
机の端、窓の反射、どこにも答えが見つからない。
「……近づくと、壊れる」
ぽつりと漏れた言葉は、
昊天が誰にも告げたことのない本音だった。
妻が息を呑む。
「壊れるって……何が?」
「……全部だ。」
昊天の声は震えていた。
「俺は人を幸せにできない。
関われば、必ず傷つける。
だから——来るな」
その一歩後ろに下がりかけた妻の手首を、
昊天は咄嗟に掴んだ。
自分でも信じられない動きだった。
「……来るな、って言ってるのに……」
声が壊れそうだった。
妻は、掴まれたまま静かに言った。
「私は……避けられるのがいちばん苦しい」
その瞬間、
昊天の中で長年閉ざしていた何かが揺れた。
目を逸らしたまま、
壁に手をつき、妻を逃がさないように囲ってしまう。
だが、力ではない。
苦悩と迷いと、触れたいのに触れられない男の姿。
妻は震えながら、昊天を見上げる。
「昊天さん……そんなに苦しんでるのに、
どうして何も言ってくれなかったの……?」
昊天の喉が、動く。
声にならない言葉がせり上がる。
そして——
衝動のように、
昊天は妻を抱き寄せ、
唇を重ね——
短く、震えるようなキス。
彼は妻を強く抱いた腕を放し、
大きく後退った。
「……すまない」
謝罪だけが呟きのように落ちていく。
妻の目に涙が溜まった。
「謝らないで……」
「……出ていけ」
昊天は顔を上げずに言った。
それが、自分の限界だった。
妻は唇を噛み、
一度だけ昊天を見つめ、
静かに部屋を出た。
扉の外で、
涙が頬を伝った。
書斎の中では、
昊天が息を殺していた。
(どうして……触れられない)
(どうして、傷つけることしかできない)
壁に背を預けて崩れ落ちる。
初めての接触は、
初めての衝突となり、
初めての涙を生んだ。
そして二人は気づく。
——心の距離は、
触れそうで、
触れられない場所にあるのだと。




