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苦しまなくていいのに

 その知らせが尖塔に届いたのは、さらに春が深まり、森の緑が濃さを増し始めた頃だった。

 ユスティナは、王都へ送られた。名目は"保護"であるが、その実態は監視付きの隔離である。尖塔付近で起きた一連の異変――記憶の混濁、感情の鈍化、理由なき安堵。それらを異常として報告しなかった事実が、彼女の処遇の決め手となったらしい。

 そして、フラスニイルは所長職を辞した。表向きは健康上の事由での降格。だが実際には、研究資料の隠匿と、王国への報告義務違反を問われた結果だった。彼が最後に残した文書には、こう記されていたという。

『尖塔の少女は、善悪の外側にある。危険なのは力ではない。"彼女が救いだと信じていること"だ』

 その話を、ユイスはどこからか聞きつけてきた。

尖塔を包む夕闇が、窓から差し込む光を淡い菫色に染め上げていく。冷え切った石の廊下を、ソラスの軽い足音が、とんとん、とリズムを刻んで戻ってきた。

「おかえり」

「うん。ただいま」

 彼女の瞳は、朝露を映したかのように一点の曇りもない。そのあまりの清らかさに、ユイスは一歩踏み出した。

「……ユスティナのこと、知ってるよな」

 ソラスは、少しだけ瞬きをした。銀色の睫毛が、蝶の羽のように優雅に震える。

「うん。王都に行ったって」

「行った、じゃない。連れていかれたんだ」

「そうなんだ」

 その声は、驚くほど平坦だった。ユイスの胸の奥で、何かが軋む音がした。まるで、大切に守ってきたオルゴールの歯車が、一気に狂い出したかのような不快な響き。

「フラスニイル所長もだ。辞めさせられた。全部、あの村と……尖塔のせいで」

「でも」

 ソラスは首を傾げる。その無垢な仕草が、今は何よりも残酷な毒を含んでいるように見えた。

「誰も、苦しんでないよ?」

 その一言で、ユイスの中の堰が切れた。

「それが問題なんだよ!」

 声が、塔の壁に反響する。冷たい石造りの空間が、少年の悲痛な叫びを無慈悲に跳ね返した。

「苦しんでない? 感じなくなっただけだろ! 選ばなくてよくなって、悩まなくてよくなって、考えなくなって……それで救われたって言えるのかよ!」

「どうして、だめなの?」

 ソラスは本気で分からない、という顔をしていた。彼女を包む空気は、どこまでも澄み渡り、風ひとつ吹かない静止した湖面を思わせた。

「苦しいより、楽な方がいいでしょ。怒らなくていい。泣かなくていい。迷わなくていい。みんな、穏やかになる」

「それは、生きてるって言わない」

「言うよ」

 きっぱりと、ソラスは言った。その言葉は、研ぎ澄まされた薄氷の刃のように凛としている。

「だって、笑ってる」

「作り物の笑顔だ!」

「違う」

 彼女は、少しだけ眉を下げた。物分かりの悪い子供を諭す慈愛に満ちた雰囲気の、ひどく場違いな優しさを湛えながら。

「ユイスは、苦しむことに意味があるって言うけど……ほとんどの人は、生まれた意味なんて見つけられないまま、死ぬんだよ」

 その言葉は、静かだったが、鋭かった。透明な針が、ユイスの心臓の最も柔らかい部分を正確に貫いていく。

「だったら、せめて。苦しまないで終わる方が、いい」

 ユイスは、言葉を失った。目の前にいるのは、知っているはずのソラスなのに、どこか、決定的に違って見える。陽炎の中に立つ彼女の輪郭は、今にも光に溶けてしまいそうなほど曖昧で、けれど拒絶できない美しさを放っていた。

「……ソラス。変わったよ、君」

「そう?」

「前は、そんなこと言わなかった」

「前は、知らなかっただけ」

 ソラスは胸に手を当てた。その細い指先が、心臓の音さえも聞き漏らさないほど、深い沈黙を慈しんでいる。

「今は、わかるの。ここが、すごく静かだから」

「それが異常だって言ってるんだ!」

 ユイスは拳を握りしめる。溢れ出しそうな感情とは裏腹に、目の前の少女の周囲だけは、時が止まったように凪いでいた。

「ユスティナは、今も眠れないって聞いた。自分が正しいことをしたのか、分からなくて。フラスニイルだって……全部分かってたのに、止められなかったって」

「……かわいそう」

 ソラスは言った。だがその声音には、怒りも悲しみもほとんど含まれていなかった。あまりにも淡泊な同情。

「なら、もう苦しまなくていいようにすればよかったのに」

 ユイスは後ずさった。足元の闇が、自分を飲み込もうと波打っている。

「……君は、それを救いだと思ってるのか」

「うん」

 即答だった。

「私なら、できる」

 その瞬間、彼ははっきりと悟った。目の前の少女はもはや同じ場所に立っていない。彼女が求めているのは、色彩豊かな生の喜びではなく、全てが白に塗りつぶされた美しい虚無なのだと。

「……もう、僕には止められないな」

 そう言うとユイスは踵を返し、自室の扉に手をかけた。扉の冷たい手触りが、かろうじて彼を現実の側に繋ぎ止めていた。

「今日は、話したくない。顔も見たくない」

「ユイス」

 呼び止める声に、彼は一瞬だけ動きを止めた。振り返ることこそしなかったが、背中越しに、彼女の気配を感じる。夜の香りを纏った、甘く、けれど逃れられない牢獄のような気配を。

「大丈夫だよ」

 その声は、いつもより少し低く、静かだった。次の瞬間、ソラスは歌い出した。それはユイスもよく知っている唄だった。冬の夜、窓を叩く吹雪を怖がって泣いていたユイスに、彼女がよく口ずさんでいた、あの唄。

「『ねむれ ねむれ

 かぜはみちをしっている

 あゆむひとも まよわぬよう

 ただ ながれにまかせればいい』」

 柔らかな旋律が、尖塔の石壁に染み込む。銀鈴を転がすような歌声は、たゆたう霧のように廊下を満たし、抗いがたい眠りへと精神を誘う。

「『いたみは ゆきにとけ

 なみだは かわにかえる

 なにもえらばず なにももたず

 あさは ちゃんとくるから』」

 ユイスの指が、扉の縁に食い込んだ。かつては安らぎであったはずのその歌が、今は恐怖しか感じない。

「だから――」

「やめろ!!」

 叫びは、ほとんど悲鳴だった。ユイスは振り返り、初めて正面からソラスを睨みつけた。

「その唄を、今、歌うな!」

 ソラスは、きょとんと目を見開いたまま、歌を止めた。その瞳に、彼を傷つけたという自覚は欠片さえ見当たらない。

「……どうして?」

「わからないのか?」

 ユイスの声は震えていた。

「それは、安心させる唄じゃない。全部、奪う唄だ」

「奪ってないよ」

 心外とばかりに、ソラスは首を振る。風に揺れる銀髪が、月明かりを捕まえて妖しく光り輝いた。

「重たいものを、降ろしてあげるだけ」

「それが怖いって言ってるんだ!」

 ユイスは一歩下がった。

「考えることも、迷うことも、苦しむことも……全部いらないって顔で言うな!」

 ソラスは、しばらく黙って彼を見つめていた。やがて、ほんの少しだけ、残念そうに眉を下げる。それは、子どもが壊れたおもちゃを慈しむ時に見せる、ひどく孤独な眼差し。

「……まだ、眠れないんだね」

 その言葉に、ユイスの背筋が凍った。背後の闇が、冷たい腕を伸ばして自分を抱きしめようとしている感覚に襲われる。

「僕を、眠らせるな」

 彼は低く言い、ばたん、と今度こそ扉を閉めた。続いて、かちり、と鍵の音。階段に残されたソラスは、しばらくその扉を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

「うまくいかないな」

 ぽつりと呟く。黒猫がいつの間にか彼女の足元に現れ、尾を揺らす。猫の黄色い瞳が、夜の帳を反射して怪しく煌めいた。

「でも、いいよ」

 ソラスは微笑んだ。その微笑みは、もはや誰の手も届かない高みへと消えていく、儚い幻。

「そのうち、分かってくれる」

 みゃあお。

 尖塔の中で、夜が静かに降りてきた。


⬛︎


 尖塔の内に、夜が深い藍色を溶かし込んでいく。あれから小一時間ほども経つというのに、ソラスはただ、固く閉ざされた扉を延々と見つめていた。窓の外では止みかけた雪が、月明かりを浴びて淡い真珠のように煌めきながら、ゆっくりと地面へ吸い込まれていく。怒鳴られた耳の奥には、じん、と心地の悪い熱情が居座り続けていた。

「……」

 彼女は、ゆっくりと胸の中の熱を吐き出した。悲しみ、怒り、寂しさ。かつてはもっと鮮明に指先に触れていたはずの感情が、今は濃霧の向こう側にあるように、どうしてもその正体を掴むことができない。代わりに浮かんだのは、ひどく単純な思いだった。

 ユイスは、今、とても苦しそうだった。

「……大丈夫なのに」

 呟きは、石造りの冷たい壁に触れて、音もなく消える。ソラスは床に落ちたままの椅子を丁寧に起こし、そこに腰を下ろした。膝の上に置いた指先が微かに震えている。けれどそれは、恐怖でも怒りでもない。静かな森の枝先が、風もないのに小さく揺れるような、ただの反射に過ぎなかった。

 と、足元を黒猫が横切った。みゃあ、と鳴くこともせずに、ただ無言でソラスを見上げている。

「ねえ」

 ソラスは、膝のそばにいる黒猫へと声を落とした。尖塔の中はどこまでも静かで、激しい風の音さえ、遠い異界の出来事のように頼りない。暖炉の火が小さく弾けるたび、柔らかな橙色の光が、壁の上で長い影をゆっくりと揺らしている。

「どうして、あんなに嫌がったんだと思う?」

 猫は答えない。ただ、光を宿した金色の瞳を細め、尻尾の先を、時を刻む振り子のようにゆるやかに左右へ振った。

「……唄、嫌いだったのかな」

 そう言ってから、ソラスは小さく首を傾げる。違う。唄そのものではない。ユイスは以前にも、同じような顔をしていたことがあった。

 吹雪の夜。事情聴取から戻った時。ソラスが"大丈夫だよ"と言った、その直後。

 胸の奥で、冷たいパズルのピースが静かに噛み合う音がした。ユイスは、唄を聴いたから怯えたのではない。唄のあとに訪れる、すべてを白く塗りつぶすような"安心"を――恐れていたのだ。

「そっか」

 ソラスは、ひとり納得したように微笑んだ。その笑みは、春の陽だまりに咲く花のように柔らかく、どこか幼い。

「安心すると、だめなんだ」

 黒猫が喉の奥で低く唸った。それは、迫りくる嵐を告げる生き物の気配に近い。けれどソラスの意識は、もうそこになかった。

「ユイスはね、たぶん」

 指先が、無意識のうちに膝の上で絡まる。解けてはまた結ばれ、複雑な模様を編み上げていく。

「苦しいままで、いたいんだよ」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で、何かが静かに"ほどけた"。霧が晴れたような、不思議な開放感。理解してしまったのだ。この世界には、痛みを抱きしめることでしか自分を保てない人もいる。そしてそれは、ソラスにとって、たまらなく痛ましく、救いが必要なことに思えた。

「……なら」

 ソラスは、導かれるように立ち上がった。石の床に落ちる彼女の影が、燭台の光を背にして、螺旋階段の方へと長く伸びる。その先には、頑なに鍵の閉じられた扉。ユイスが閉じこもる、小さな、けれど孤独な聖域。

「苦しまなくて、いいのに」

 声は穏やかで、責める響きはどこにもない。それは、夜更けに目を覚ました子供をあやす、慈愛に満ちた調べだった。

 黒猫が、彼女の進路を遮るように立ち塞がる。逆立った背中の毛が、窓から差し込む青い月光を浴びて、銀色に尖って見えた。尾は硬く揺れ、主を止めようと懸死の警告を発している。

「だいじょうぶ」

 ソラスは、その小さな命をふわりと抱き上げた。温もりは頼りなく、抵抗もほとんどない。彼女はゆっくりと、螺旋階段の一段一段を噛みしめるように登り始めた。足音が壁に反響し、塔の深淵で眠っていた静寂を呼び覚ます。

 一歩登るたび、彼女の口からは新しい唄が漏れ出していた。それは先ほど歌ったものよりも、ずっと深くて甘い、魂の芯までを溶かしてしまいそうな旋律。

「『痛みは雪の底へ

 迷いは夜の向こうへ

 もう 何も持たなくていい

 何も選ばなくて いいんだよ』」

 階段の踊り場にある窓から、冷たい森の空気が忍び込んでくる。木々は月明かりに照らされて、銀色の彫刻のように静止していた。風も、獣の気配も、今のソラスにはただ、自分を祝福する拍手のように感じられた。

 ユイスの部屋の前に辿り着いたとき、塔全体が、大きな生き物のように低く、重く震えた気がした。石の隙間から溢れ出す冷気が、ソラスの頬を優しく撫で、その瞳に宿る光をより一層、透明に研ぎ澄ませていく。

「ユイスは優しいから。全部、ひとりで背負おうとするんだね」

 彼女は扉にそっと手を触れた。冷たい木の感触が、彼女の熱に反応して、どこか柔らかくなったような錯覚に陥る。

 彼女は確信していた。この扉の向こう側にある、尖り、傷ついたユイスの心。それを、自分が編み上げる真っ白な安寧で包み込んであげなければならないと。

「……だって、苦しいまま生きるなんて、可哀想でしょう?」

 その声は、もはや人間の言葉というより、凍てついた森の囁きのようだった。抱き上げられた黒猫が、ついに張り裂けんばかりの声で、夜の闇を切り裂いた。

 ――みゃあああああああ。

 それは、失われていく人間の輪郭を惜しむような、あまりに悲しい慟哭。けれどソラスは、ただ幸せそうに目を細めた。彼女の視線の先には、もう痛みも迷いもない、永遠に穏やかな真っ白な世界が広がっていたからだ。

 尖塔の影が、雪原の上にどこまでも長く伸びていく。すべてを優しく、静かに、無へと誘うように。

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