祝福
何もかもが凍てついてしまうような冬は過ぎ、やがて春がやってきた。まず感じたのは、雪解けの水が染み込んだ草と土の匂い。暖かい日の光に包まれて、生き物という生き物は活気づき、草木や花々が芽吹き始める。黒煉瓦をした尖塔の周辺には、ピンクや黄色、白などの色とりどりの花が咲き始め、一種のキャンパスのような様相を呈していた。
少女ソラスは、春の陽光に包まれながら、ネグリジェ姿で青い薄毛布を纏って、寝台ですぅすぅと寝息を立てていた。顔つきは端整だがあどけなく、見様によっては、十歳にも見えるほどである。寝る時だけ、銀髪はひとつに纏めてあり、丁度馬の尻尾のような髪型になっていた。
ぎぃ、と扉が開く。小さな黒猫が、彼女の部屋に入ってきたのである。目的はいたずらでも、かといってネズミ探しでもなく、ただ単に彼女を起こすために来たのであった。
黒猫は、とことこ、と寝台のところまで赴くと、ぴょん、と飛び乗ってソラスの耳元のところに座り込んだ。それから、みゃあ、と何度か鳴いてみせた。
「ん……」
少女は唇の端から声を漏らすと、重い瞼を開けて、ゆっくりと上半身を起こした。黒猫はもう一度、みゃあ、と一鳴き。
「おはよ」
ソラスは左手で目を擦り擦り、右手で小さな黒猫の耳の間を撫でて、ほとんど呟くようにそう言った。それから、ふわあ、と大きくあくびをして、彼女は寝台から床に靴下を履いた足を付ける。華奢な体つきと同様に、小さな足である。
それからやや経った後、彼女はネグリジェ姿から着替え始めた。春夏用の上着に彼女が持っているのは、水色のロングチュニックと、動きやすそうな前掛けの二枚だけである。彼女は村に出るときはもっぱら、茶色の前掛けと、それから白いワンピースを着て出かけていた。尖塔に籠る時や、村に行かない時は、水色のロングチュニックである。今日は行商服を着るらしい。
「よし」
前掛け姿に着替え終えて、彼女は自分の頬を両の手で軽く、ぱん、と叩くと、部屋を出て直ぐ目の前にある扉をノックする。こんこん、と小気味の良い音が響く。黒猫はその間に、階段を下りてしまったようだ。
彼女がノックした部屋は、ユイスの個室であった。ソラスの部屋には、彼女が鍵をかけていないせいか、ユイスはしょっちゅう、ややすると無遠慮に入ってくる。しかし、ソラスがユイスの部屋に入ろうとしても、ほとんど常に鍵をかけているせいで入ることは出来ない。二人が塔に住み始めて、もう一年と少しが経っているというのに。ユイスがソラスを部屋に招いたことも、或いは鍵をかけ忘れたこともなく、ソラスは、ユイスの部屋の中というのを見たことがなかった。
がちゃり、とドアが開く。ユイスは何を隠しているのか、頭一つ分程度の隙間から顔を出した。
「ご飯?」
「うん。食べましょ」
「わかった。先行ってて。すぐ行くからさ」
ぼさぼさな銀髪を掻きながら、ユイスはドアを閉じた。次に、かちり、と鍵の閉じる音。どうしても中を見せたくないらしい。
「いつものことだけど、何でだろ」
ソラスは苦笑いしながら、階段をちょこちょこと下り始めた。
朝ご飯を食べて、彼女は冬の間に編んでいた春物の衣類を入れた布袋を背負い、いつものように行商に出かけた。玄関のところで、みゃあ、と黒猫が見送る声。ソラスは台車を引きながら振り返り、それに応えた。
がらがらがら、と台車の車輪が転がる音がソラスの耳を包み込む。雪で地面が覆われていた冬に比べて、春はずいぶんと台車の走りも良い。ソラスは良い機嫌で、いつものようにわらべ唄を紡ごうと、口を開いた。ひゅるり、と春風が吹いて、ソラスの銀髪を撫でる。
「『ここにお聞かせ致すのは
一人の男の冒険譚
風と共に山を行き 風と共に森を去る
風と生きた者の名は
"風の勇者 グレフリン"
いざ伝えんや 男の御業
いざ伝えんや 男の御名を』」
彼女がつい先日に読んで、気に入ったわらべ唄の冒頭部分である。彼女は、どちらかと言えば、このように元気な調のわらべ唄が好きだった。勇気の溢れる様な、そんな唄が。
ぴちゅん、ぴちゅん、と小鳥がソラスの直ぐ上を飛び、ソラスは少しの間驚き止まった。珍しいこともあるものだな、と思いつつ、更に歩を進める。すると今度は、ごうっ、と華奢なソラスが軽く流されてしまいそうな程に強い風が流れた。森の囁き声を上げる音が、遠くに聞こえる。ソラスは一瞬空を見上げて、雲の量を見た。空は青々としていて、雲一つない天気である。それでほっとしたソラスは、また唄を続けた。
⬛︎
村の広場に着くと、ソラスはいつもの場所に台車を止め、布袋から春物の衣類を取り出して並べ始めた。雪解け水でぬかるんだ地面に、春の陽光が頼りなく反射している。淡い色合いのショールや、子ども向けの軽い外套。編み目は相変わらず丁寧で、村の女たちは遠巻きにそれを眺めている。彼女たちの視線には、かつてのような露骨な拒絶よりも、どこか底の知れないものを恐れるような、奇妙な静けさが混じっていた。
「……ねえ」
最初に声をかけてきたのは、顔見知りの若い母親だった。赤子を背負い、少し疲れた様子をしている。その顔色は土色に近く、背負われた赤子の重みが、彼女の細い肩を無慈悲に削っているように見えた。
「この前の、あの手袋なんだけど」
「はい」
ソラスは、柔らかな微笑みを浮かべて顔を上げた。春の光を透かす彼女の瞳は、磨き上げられた水晶のように濁りがない。
「夜泣きが、止まったのよ」
母親の震える声は、福音を授かった喜びというよりも、未知への戸惑いに近かった。その目線が、我が子の柔らかな頬を確かめるようになぞる。
「でもね……止まった、というより。あの子、夜に一度も目を覚まさなくなったの」
ソラスの指が、ほんの一瞬だけ止まった。編み地を撫でる指先が、白銀の糸と一体化したかのように白く透き通って見える。
「ぐっすり、ってこと?」
「ええ。まるで、起きる必要がないみたいに」
母親はそう言ってから、はっとしたように口を噤んだ。広場を通り抜ける風が、湿った土の匂いを運んでくる。
「変な言い方ね。ごめんなさい」
「ああ、いえ、構いません」
ソラスは柔らかく首を振った。その動作に伴って、彼女の銀髪がさらさらと絹のような音を立てて揺れる。
「その子、今は元気ですか?」
「ええ。昼間は、よく笑うわ」
「なら、大丈夫」
母親はまだ何か言いたげだったが、結局銅貨を置き、礼を言って去っていった。その足取りは、来た時よりもずっと軽く、同時にどこか地面から浮いているような危うさを孕んでいた。
昼近くになるにつれ、妙な話が重なった。
腰痛が消えた老人。悪夢を見なくなった青年。冬の間ずっと塞ぎ込んでいた娘が、理由もなく外に出るようになったという話。報告に来る村人たちの瞳からは、かつて宿っていた「生活の重み」という名の輝きが、薄氷が溶けるように消え去っていた。 どれもこれも、ソラスの品を使った後のことだという。
「魔女の編み物だな」
誰かが冗談めかして言い、周囲がひくりと笑った。その乾いた笑い声は、春の空に吸い込まれて二度と戻ってこない。 ソラスは、その言葉を聞いても、少しも顔色を変えなかった。
「そうだったら、いいね」
彼女はそう答えた。その声は、春の訪れを祝う聖歌のように、あまりにも清らかで響きがない。
その時だった。
広場の端で遊んでいた子どもが、突然、ぴたりと動きを止めた。まるで、見えない糸で全身を縫い留められたかのように。
転んだのかと思うほど急に、その子は立ち尽くし、じっと空を見上げている。その瞳には、空の青ささえも映っていないかのように、ただ深い虚無が湛えられていた。
「どうしたの?」
駆け寄る母親の声も、その虚空には届かない。 子どもは、ゆっくりと瞬きを一つ。そして、この世のものとは思えないほど無垢で、空っぽな声を漏らした。
「……ねえ」
「なあに?」
「ぼく、なにをしたかったんだっけ」
広場が、しん、と静まり返った。風さえもが息を潜め、世界がその瞬間、色を失ったかのような錯覚に陥る。子どもは混乱した様子もなく、ただ純粋に、不思議そうな顔をしていた。欲望も、好奇心も、すべてが真っ白に塗りつぶされた、あまりにも正しい顔。ややあって、母親は笑って取り繕った。
「もう、お昼寝の時間よ。ほら」
「うん」
子どもは素直に頷き、母親の腕に抱かれていった。 ざわめきが、遅れて戻ってくる。
「今の……」
「春だから、ぼうっとしたんだろ」
「子どもにはよくあることだ」
誰も深く追及しなかった。追及するための違和感さえも、静かに削ぎ落とされていく。
ソラスは、台車の上に置いた最後のショールを畳みながら、その様子を静かに見ていた。胸の奥が、ひどく落ち着いている。不思議なほど穏やかだった。かつて彼女を苛んでいた不安や孤独は、もう、どこにも見当たらない。
良かった。彼女は理由もなくそう思った。誰かの痛みが消えること。夜が静かになること。余計な苦しみを、思い出さなくなること。それは、きっと――良いことだ。
夕方、塔へ戻る道すがら、黒猫がいつの間にか隣を歩いていた。猫の影は夕日に溶け込み、奇妙なほど長く、複雑な模様を描きながら伸びている。
「今日はたくさん売れたよ」
みゃあ、と猫が鳴く。森の木々が、春風に揺れた。そのざわめきは、どこか満足げで、祝福めいていた。木々の枝葉が擦れ合う音が、まるで何百人もの囁き声のように重なり、ソラスの背中を優しく押し上げる。
尖塔の影が、夕日に長く伸びていた。その黒い爪先は、すでに村の入り口を侵食し、逃れられぬ夜へと世界を誘い始めていた。




