白い背中
吹雪が来る前から、嫌な予感はしていた。それは理屈でも勘でもなく、もっと厄介な、説明のつかない感覚だった。尖塔の古びた石壁から這い出した冷気が、少年の細い指先を白く染めていく。ユイスは尖塔の高い窓辺に立ち、外を眺めていた。白一色の森。次第に強さを増す風に煽られ、雪は横殴りに流れている。視界全てが白銀の渦に呑み込まれ、空と地の境界は疾うに消え去っていた。
「……遅い」
ぽつりと呟く。ソラスが村に出たのは昼前。吹雪を予感していたのなら、もっと早く戻るはずだ。すると階下から微かな音がした。反射でソラスの名を呼ぼうとするも、猫の仕業とすぐ分かる。
「おい」
声をかけると、黒猫は振り返りもせず、階段の途中に座り込んだ。黄色い目がじっとユイスを見ている。磨り減った階段の段差に落ちる影は、闇そのものを吸い込んだかのように濃く、深い。
「ソラスは?」
答えはない。だが、猫の尾が、ゆっくりと一度だけ床を打った。その仕草を見た瞬間にユイスは確信した。
――森だ。
銀髪の少年は外套を掴みかけ、すぐさま動きを止めた。吹雪の森は危険すぎる。それに。
「ああ、くそ」
悪態が虚空に消える。胸の奥が妙にざわつく。まるで、自分が行けない場所があるとでも言うようだ。風の咆哮は一段と激しさを増し、塔全体が巨大な楽器のように震え、低い唸り声を上げ始める。
その時。塔の下方で、複数の足音がした。規則正しく、硬くて、重い。村人のものではない。
「騎士?……まさか」
階段を駆け降りる少年の耳に、凍てつく大気を切り裂くような、厳かな金属音が響き渡る。急ぎ階段を降りると、既にソラスはそこにいた。濡れた外套に雪の名残。だが――無傷。そして彼女の側には、見知らぬ赤毛の女と隙のない老人。空気がこれまでになく張り詰めている。ユイスは何も言わなかった。というより、言えなかった。
ソラスの影が、どこか違って見えたからだ。
暖炉の火が爆ぜる音さえも、どこか遠い異界の出来事のように頼りなく響く。火の傍に立っているのに、影が揺れない。いや、揺れているのは――影の方ではなく、周囲の壁のような気がした。現実の輪郭が薄氷のように脆く、世界の端から静かに溶け出すような、奇妙な感覚が肌を撫でる。
その夜、ユイスは事情聴取の間、ずっと階段の途中に座っていた。会話は断片的にしか聞こえない。石造りの冷たさが衣類を通して伝わり、思考を芯から凍らせていく。
森。猫。ーー覚醒。
聞きたくない言葉が混じるたび、胸の底に石が詰められたかのように重くなる。やがて、吹雪は最高潮に達し、騎士たちは塔に留まることになった。ソラスが居間に戻ってきた時、彼女は少し疲れた顔をしていたが、いつも通りの透明な笑みを浮かべた。窓を叩く雪礫の音が止み、耳が痛くなるほどの静寂が、支配者として塔を包み込んでいた。それが、何より怖かった。
⬛︎
「ユイス」
まだ火の弾ける暖炉の前。爆ぜた火の粉が朱色の軌跡を描き、石造りの床に長い影を落とす。厨房から出てきたソラスが、陶器のマグカップを差し出しながら言った。立ち上る湯気が彼女の銀髪を柔らかく湿らせ、その輪郭を淡くぼかしている。
「どこにいたの?」
ユイスは目を逸らすと、一瞬だけ言葉に詰まる。指先にはまだ、先ほどまで座っていた階段の、骨の髄まで冷えるような感覚がこびりついていた。
「……階段」
「もう。私、一人で大変だったよ」
責める調子ではない。ただの、日常の愚痴。彼女は小さく肩を竦め、暖炉の熱に上気した頬を緩める。その無防備な仕草は、先ほど森で見せたと言われる不可解な片鱗を、ただの幻覚だと思い込ませるには十分なほどに愛らしかった。
「騎士の人たち、怖いし。質問もいっぱいだし」
「それは、そうだろうね。ごめん」
言い終えるより前に、ユイスはソラスの手元を見る。マグの縁に、湯気が柔らかく立ち上っている。温かな乳白色の香りが、凍てついた塔の空気をわずかに溶かしていく。けれど、その熱さえも、今のユイスにはどこか現実味を欠いたものに感じられた。
「ねえ」
ソラスは、何気ない声で続けた。
「私、何か変なこと、言ってた?」
「いや」
即答だった。
「いつも通りだ」
嘘ではない。だが、真実でもなかった。彼の言葉は、凍った湖面に投げられた小石のように、波紋ひとつ立てることなく静寂の中に沈んでいく。ユイスの返事を聞いて、ソラスはほっとしたように笑う。
「よかった。変な人だと思われたら、嫌だもの」
ユイスはその言葉に答えなかった。代わりに、窓の外へと視線を移す。吹雪は、少しだけ弱まっている。硝子窓の向こうでは、暴力的なまでに舞っていた白銀の粒子が、重力に従ってしんしんと降り積もる死の帳へと姿を変えつつあった。
「……なあ、ソラス」
「なあに?」
「森で、寒くなかったかい」
ソラスは、少し考える仕草をした。炎に照らされた彼女の瞳の奥に、一瞬だけ、深い森の底に眠る冬の青さが宿ったような気がして、ユイスは無意識に喉を鳴らした。
「寒かった、はずなんだけど……」
首を傾げる。
「でも、不思議と、平気だったの」
その声は、透明な氷が触れ合うような響きを帯びて、静まり返った居間に染み込んでいった。ユイスは、それ以上何も聞かなかった。聞いてはいけない、と本能が告げていた。触れれば指先から凍りついてしまいそうな、美しい沈黙が二人の間に横たわる。
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
その音に紛れて、階段の上から、猫の足音が聞こえた気がした。闇の中から見つめる黄色い瞳が、自分たちの行く末を全て見透かしているような、不吉な予感が背筋を撫でる。
ユイスは振り返らなかった。
この夜を境に、 ソラスは少しずつ、遠くなっていく。降りしきる雪が音もなく世界を塗り替えていくように、彼女という存在が、戻れない速度で別の何かへと変質してしまう。
それを認めるのが、怖かっただけだ。暖炉の火が照らし出す彼女の背中が、かつてないほどに白く、そして透き通って見えた。




