事情聴取
ざくり、ざくり、と雪を踏みしめる音がふたつ、静かな森に響く。雪に覆われた木々の合間から、黒煉瓦の輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。近づくにつれ、ソラスの尖塔は古い建造物というよりも、まるでこの森そのものの一部であるかのように見えた。人のために造られたはずのものが、人から忘れ去られた結果、自然に回収されてしまった。そんな印象だ。
「こんな場所に、本当に住んでいるんですか」
低く、ややハスキーな女の声だった。ヴァーミリオンの髪を短く束ね、グリーンの布服の上から上等な革鎧を身につけたその女は、肩越しに背後を振り返る。腰には王国式の剣。動きに無駄はなく、歩き方一つとっても素人ではない。
「記録上は、な」
応えたのは、少し後ろを歩く初老の男だった。灰色が混じった茶髪に丸眼鏡。外套の下には騎士団の制服を着込んでいるが、その身なりは戦場の人間というより、役所の人間に近い。彼は手にした書類の束を、雪除けの革袋から一瞬だけ取り出し、塔を見上げた。
「尖塔管理記録、第七十二項。居住者あり。詳細不明。更新、三十年以上前で止まっている」
「止まっている、というより……放置、ですね」
赤毛の女――ユスティナは鼻で笑った。
「それで今回は、魔女の嫌疑、でしたか」
「正確には、村での事件の再発だ。住民の証言は曖昧だが……共通点がある」
「銀髪」
「そうだ」
馴れたやり取りに、初老の男ーーフラスニイルは短く頷いた。
「尖塔に住む行商の娘。名はソラス」
「姓なし、でしたね」
「記録上はな」
塔の足元に辿り着くと、風が一段と強くなった。吹雪の前触れだ。ユスティナは思わず外套を掴み、視線を鷹のように細める。
「……随分、静かですね」
「静かすぎる、とも言える」
言いながらフラスニイルは扉を見つめた。分厚い木製の扉に鍵はなく、代わりに、意味の分からない古い紋様が刻まれている。王国のいかなる家紋とも一致しない。
「失礼するぞ」
声をかけ、彼は返事を待たずに扉を押した。軋む音を立ててあっさりと扉が開く。
中は、思いのほか暖かかった。石造りの床、簡素な家具、織機の痕跡。生活の匂いは確かにあるが、贅沢さは微塵もない。人が生き延びていくための最低限だけが、整然と置かれている。
「……女一人と、もう一人」
辺りを観察しながら、ユスティナが低く呟く。
「少年、ですね。足跡が小さい」
男は頷き、部屋の奥へと視線をやった。
「記録にあった。もう一人、少年がいる可能性がある。名はユイス」
「また、姓なし」
二人は顔を見合わせる。
「偶然にしては、出来すぎです」
「偶然を疑うのが、我々の仕事だ」
フラスニイルはそう言い、暖炉の上に置かれた小さな木彫りの黒猫に目を留めた。煤に汚れていないそれは、今にも動き出しそうなほど精緻で、妙に新しく感じる。
「……猫、か」
「魔女の象徴、ですね」
彼女の声には、わずかな警戒が滲んでいた。
「象徴は、しばしば誤解を生む」
歩を止めることなく、彼は静かに言った。
「そして、誤解は、時として人を殺す」
その時だった。塔の上階から、微かに――唄声が、降りてきた。二人の騎士は同時に片足を半歩下げつつ、探るように顔を上げる。子供の声だ。冬の唄。春を待つ唄。
「……居ますね」
「ああ。しかも、逃げる気配がない」
男は顎で行く先を示すと、グローブに包まれた二本指を下に向け、さっと円を描いてみせた。ユスティナも声を発することなく、ゆっくりと瞬きで返した。そうして階段へ向かう二人の背に、唄声が静かに重なる。
これが、この尖塔に住む者たちと、王国騎士が初めて交わる夜の始まりであった。
⬛︎
尖塔の中では、風の音が鈍く反響していた。外で吹き荒れる吹雪なら、厚い石壁に阻まれて直接は届かない。それでも、塔そのものが低く唸るかのように、どこか不穏な気配が漂っている。
暖炉には火が入れられていた。それは騎士たちが用意したものでなく、ソラスが何も言われぬまま普段の手順で薪を組み、火打石を打っただけだ。ユスティナはその様子を見て、一瞬だけ眉を動かしたが、ついに何も言わなかった。火は、よく燃えた。まるでこの場所が、それを待ち侘びていたかのように。
「……座りなさい」
初老の男――フラスニイルが、低く唸った。簡素な木の椅子が三つ。中央に彼、その斜め向かいにソラス、少し離れてユスティナ。塔の居間は決して広くないが、不思議と息苦しさはない。ソラスは椅子に腰掛け、膝の上で手を組んだ。指先がほんのりと温かい。
「まず確認する」
書類を開かず、初老の男はソラスを見た。
「君は、この尖塔にいつから住んでいる」
「……分かりません」
答えた瞬間、ユスティナが咎める視線を向ける。
「分からないとは?」
「気づいたら、ここにいました。ずっと、ここが帰る場所だった気がします」
フラスニイルは、すぐには何も言わなかった。その沈黙の間も外の風が一際強く吹きつけ、窓がきしむ。
ソラスは、戦々恐々としていた。悪い想像ばかりが頭を駆け巡っていた。例えば、子供達がソラスに言っていたような、火あぶりといった拷問である。だがその予想に反して、フラスニイルは――冷たい口調ではあったものの――乱暴なことをする素振りは見せずに、
「同居人は今、どこで何をしている」
部屋の周囲に目を配せつつ尋ねる。少女の心臓がどきりと跳ねた。
「上の階にいる、と思います。……何してるのかな……。呼んできた方がいいですよね」
腰を浮かせたソラスの動きを、いや、とフラスニイルは大きな手で制した。ひとりひとり問い質したい、ということだろうか。
「では、今日のことだ」
言葉を切り替えた。
「村から戻る途中、森に入ったな」
ソラスは、僅かに瞬きをした。
「……はい」
「理由は」
矢継ぎ早の問いにソラスは言葉を探した。脳裏に浮かぶのは、雪の上に残る小さな足跡。規則正しく、けれど途中で消えていた、あの足跡。
「猫が、いました」
ユスティナの指が、無意識に剣の柄に触れた。
「猫?」
「黒い猫です。森の中へ、入っていくのを見て……」
「追ったのか」
「はい。でも」
そこで、ソラスはぴたと言葉を止めた。ユスティナの女の顔が苛立ちの色を帯び、慌てて机上に視線を落とす。
「でも、何だ」
「追っていた、という感じじゃ、なかったです」
男の鳶色の目が、僅かに細められた。
「導かれていた、とでも?」
「……そうかもしれません」
暖炉の火が、ぱちり、と音を立てる。その瞬間、ソラスの影が壁に揺れる。影は一瞬、猫の耳のような形を作り――すぐに、ただの人影に戻った。
赤毛の女は、それを見なかった。
初老の男だけが、確かに見た。
「森で、何かあったか」
フラスニイルの声は、先程より明らかに低い。
「……何も」
ソラスは力無げに首を振る。
「ただ、寒くて。でも、不思議と、怖くなかったです」
「魔力の自覚は」
「ありません」
迷わなかった。嘘ではない。ソラス自身、本当に分かっていないのだ。
「だが」
切りつつ、彼はソラスの指先を見やる。
「君は、震えていない」
その言葉に彼女はびくっとして、自分の手を咄嗟に丸めた。確かに、吹雪の夜だというのに、指先は白くも、かじかんでもいない。
「……火の、近くだからでしょうか」
「違うな」
フラスニイルは静かに断定した。
「魔女は、自覚した時点で魔女になるわけではない。世界の方が、先に気づくこともある」
ソラスはその意味を理解できず、困ったように首を傾げた。
「君は、黒猫を見失った後、どうやって塔へ戻った」
「……気づいたら、扉の前にいました」
まただ、とユスティナは思った。曖昧で、しかし一貫している。
「所長」
彼女は小声になりながら言う。
「やはり――」
「いや」
年季の入った太い首を横に振り、フラスニイルは短く遮った。
「この娘は、まだだ」
「まだ?」
「覚醒は迎えたかもしれん。だが選んでいない」
ソラスは、二人の会話を半分も理解できていない。ただ、胸の中の深い部分が、微かに熱を帯びていることだけは感じていた。
「こんな唄があるだろう?
『悪しき魔女は 黄金がお好き
けれども黄金は 血のよに赤く
そして黄金はくすんでいる
悪しき魔女は 黄金がお嫌い
その黄金は キラキラと
その黄金は 輝いている』」
「一時期流行った唄ですね。私も口ずさんだことがあります」
「矛盾した唄のようにも聞こえるが」
目を丸くさせ、きょとんとしているソラスを彼は一瞥すると、
「魔女は純粋なものが嫌い、ということさ」
手元の羊皮紙に羽根ペンを走らせていった。ソラスは、心なしか男の口調が柔らかくなっているような気がして、ぱちぱちと空色の瞳を輝かせる。しかし、フラスニイルの表情はやはり険しいままで、これ以上のお喋りをする気も無いようだ。
その時、階段の上から、軽い音がした。
にゃあお。
誰も猫の姿は見ていない。ただその瞬間だけ、吹雪の音が少し遠ざかった気がした。事情聴取が一段落すると、なんと被疑者ソラスが彼らに晩餐を用意したいと言い出したため、難しいものばかりだった騎士たちの表情に、苦笑が追加された。




