魔女と呼ばれた日
吹雪は三日三晩続いた。尖塔の外は白幕に閉ざされ、森へ通じる道は完全に見えなくなった。その間、ソラスたちは外へ出なかった。出られなかった、と言う方が正しい。窓から見える雪の壁は、まるで外界を拒むように塔を囲み、扉に手を掛ける気さえ起こさせなかった。
ユイスは所蔵されている本を読み、時折、意味のない独り言を零した。黒猫は暖炉の前から動かず、ソラスの視線を感じると、わずかに尾の先を揺らすだけだった。
三日目の夜、吹雪は唐突に止んだ。朝、窓を開けると、世界は嘘のように静まり返っていた。雪は積もりきり、空はほのかな青を取り戻している。
「……行かなきゃ」
ソラスは呟いた。焦燥感の理由は分からない。ただ、行かなければならない気がした。衣類品は、まだ幾つも残っている。それに、金庫の金貨に手を付けずに済むなら、その方がいい。
「今日も行くの?」
ユイスが訊いた。
「ええ。道も、もう大丈夫そうだし」
彼は何か言いかけて、やめた。代わりに、いつものように軽く肩をすくめる。
「気をつけて」
その言葉だけが、妙に重かった。
⬛︎
彼女は、食糧だけ買ってから帰るつもりでいた。欲しいのはいつものライ麦パンに、いつもの丸チーズ、牛のミルク。ジャガイモやニンジンなどと言った、シチューの材料。それに、アルコール。寒い地域では、身体を温めるために、子供もアルコールを飲むことがたまにあるのである。
森を抜けて村に近づくにつれ、ソラスは違和感を覚え始めた。人が少ない。少なすぎる。普段なら、朝の時間帯には、洗濯物を干す者や、家畜を連れ出す者がいるはずだった。だが、この日は窓も扉も閉ざされ、気配のみが薄く残っている。
村の十字路に着いた時、ソラスは小さな足をぴたりと止めた。 地面が、荒らされている。 雪の下から覗く土。踏み固められた跡。そして、
「……?」
彼女はゆっくりと近づいた。十字路の中央に何かが置かれている。近づくにつれ、それが布切れであると分かった。
羊色のマフラー。
先日売ったはずのものだった。端にあしらわれた花柄に見覚えがある。
「どうして……」
マフラーはところどころ糸がほつれ、汚れていた。雪と泥にまみれ、無造作に捨てられている。と、悲しみに暮れる間もなく、横から無機質な声が飛んできた。
「――そこにいるのは誰だ」
低く硬い声。ぴん、と空気が張り詰める。ソラスが歪みかけた顔を上げると、十字路の先に、数人の男が立っているのを認めた。全員が薄墨色の鎧を身に着け、外套には王国の紋章が刺繍されている。記憶なし、尖塔育ち、世間知らずと三拍子揃ったソラスでさえ、その出立ちが意味する集団は知っていた。
騎士だ。
その中で一人、他よりも年若い男が一歩前に出る。兜の中から、厳しい目でソラスを見据えた。
「お前が、この村に出入りしている行商人か」
「……はい」
声が、思わず、わずかに震える。
「名を名乗れ」
「ソラス、と申します」
騎士はその瞬間、ふっ、と短く息を吐いた。
「報告は事実でしたか」
背後から別の騎士が言う。
「この村では、近頃、不穏な噂が立っております。子供が怯え、家畜が落ち着かず、吹雪の前夜には奇妙な歌声が聞こえたと」
ソラスの胸が、きゅっと縮んだ。
「それは……」
「銀髪の娘が唄を歌いながら村を歩く、という話だ」
言葉を継ぐごとに、若い騎士の視線が鋭くなる。
「魔女ではないか、と」
言葉が、視線が、容赦なくソラスに突き刺さる。
「ち、違います。私はただ、衣服を」
「証明できるか?」
即座に遮られた。
「証明……?」
「魔術を使っていないと、証明できるのか」
無垢な少女は言葉を失った。使っていないことを、どうやって示せばいいのか。その沈黙を村人達が見逃すはずもなかった。いつの間にか、建物の影から人々が顔を出している。誰も前に出てこようとはしない。ただ敵意、好奇、恐怖ーー様々な嫌らしい感情の混じった視線が集まる。
「ほらな」
誰かが、嘲るように小さく呟いた。
「やっぱりあの子だ」
「吹雪の前にはいつも来てたし」
「歌ってた、確かに」
囁きが、次第に、ざわめきへと変わる。誰も助けてくれない。
ソラスは足元のマフラーを見下ろした。
それは、冷たく、何も語らない。
「検断法第五条に基づき連行する」
若い騎士が有無を言わさぬ声で告げた。
「王都で正式に調べる決定だ。審議規則に則り、お前には後ほど申し開きの機会が与えられる。抵抗はお勧めしない」
その瞬間、ソラスの鼓膜に、低い音が届いた。
ごろごろ。
聞き慣れた、喉を鳴らす音。彼女が顔を上げるより早く、騎士の一人が兜でくぐもった叫びを発した。
「な、なんだ!」
白銀の地に、三角の耳をもつ影が現れていた。黒猫である。いつの間にか十字路の端に立ち、背を丸め、騎士達を射抜かんとばかり睨みつけている。その黄色い目は、これまでに見たことのないほど、鋭かった。
「猫だ、ただの――」
ほっとした声が漏れた次の瞬間、風が薙いだ。吹雪の名残が地面から舞い上がり、視界を白く覆う。一瞬だけ世界が途切れ、その隙に黒猫が素早く動いた。
「ソラス!」
騎士ではない誰かが叫んだ。だが次の瞬間、彼女の手首を掴んだのは、果たして人ではなかった。温かくも冷たくもない、不思議な感触。
「来るな」
確かにそう聞こえた。声ではない。音でもない。それでも、意味だけが胸に直接流れ込んでくる。次に視界が戻った時、ソラスは村の外れ――森の入り口に立っていた。十字路も、騎士達も、消えている。ただ、足元の雪に黒い足跡が続いていた。
「……今のは……」
彼女は自分の薄い胸に手を当てた。心臓が早鐘のように鳴っている。呼吸を落ち着けたいが、ややあって、遠くから角笛の響く音が聞こえた。
王国の合図だ。
不安ながら意を決した面持ちで、ソラスは足跡を辿って森へと踏み出す。唄はもう口をついて出なかった。代わりに頭の奥で、忘れていたはずの声が、かすかに鳴っていた。




