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生きろ

 両側から迫る木々によって視界が切り取られた狩猟道の空気は、ガラスのようにひどく澄み切っていた。風はほとんどなく、時折カサリと鳴る葉擦れの音だけが、細い糸のように耳の奥に残る。道は狭く、木々は近い。三人の間に横たわる十数歩の距離が、まるで世界から完全に切り離されたかのように、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。

  剣聖ジークは、動かない。獣道の中央に立ち、ただ無言でこちらを見据えている。その真っ直ぐな立ち姿は、あからさまな威圧でも、血の気の多い殺気でもない。ただ"自らがここを塞いでいる"という圧倒的な事実と質量だけで、この場の主導権を完全に掌握していた。

  ユスティナが無言で半歩前に出る。腰の剣に手はかけていない。だが、彼女の指先は、いかなる奇襲があろうとも即座に柄を握れる完璧な位置にあった。その頼もしい赤毛の背中越しに、ソラスはジークの姿を見つめた。

  森の最奥で感じていた、あの魔力が渦巻くような圧迫感とは違う。今ここにあるのは、極限まで研ぎ澄まされた一個の"人"の気配だけだ。だが、その"人"が、あまりにも完成された最強の騎士であることが、この空間の空気を鋼線のように張り詰めさせていた。

  やがて、ジークがゆっくりと口を開いた。

「アルベルトから報告は受けた」

  低く、よく通る声だった。

「"森の異常な魔力干渉により、追跡不能。対象は所在不明"とな」

  作られた事実をそのまま淡々と述べる調子だったが、彼の冷徹な琥珀色の視線は、決してソラスから外れようとはしない。

「……なるほどな」

  目の前の光景と報告書との答え合わせを終えたような、わずかな納得が声に滲む。ユスティナが乾いた唇を開き、短く問う。

「フラスニイルは?」

  ほんの一拍の、無慈悲な間。視線を逸らすことなく、ジークは冷たく答えた。

「奴は死んだ」

  感情の一切を削ぎ落とした、あまりにも乾いた宣告だった。ぴくり、とユスティナの指先が微かに痙攣するように動き、無意識に獲物の柄に触れる。そのたった三文字の無機質な言葉が、ソラスの鼓膜をすり抜け、胸の最奥に冷たい楔となって深々と打ち込まれた。

「……っ」

  ソラスの薄い唇の隙間から、引きつるような短い呼気が漏れる。澄んだ空色の瞳が微かに見開かれ、行き場のない喪失感にひどく細かく揺れた。視界が涙で滲みそうになるのを、彼女は泥だらけの指で、己の破れた外套の端を白くなるほど強く握りしめることで、必死に堪えようとする。ここで自分が声を上げて泣き崩れる資格などないのだと、己の魂を縛り付けるように。だが奥歯を強く噛み締めても、どうしようもなく静かで深い悲しみが、冷たい波紋となって全身の血液を巡っていくのを止めることはできなかった。

「俺に深手を負わせる機会が、奴には一度だけあった」

  吹き抜けた風が、頭上の枯れ枝を揺らす。

「しかし、奴はそれを自ら逃した。俺に致命の剣筋を浴びせることを敢えて避け、自らの命と引き換えに俺を無力化することを選んだのだ」

  ジークの声音には、敵への怒りも、かつての友に対する嘆きも存在しない。ただ、すでに起こってしまった事実を、粛々として受け入れている響きがあった。

「最期まで……本当に、癪に障る男だった」

  ユスティナの呼吸がわずかに重く、荒くなる。

「……そうか」

  ややあって、ただ一言、それだけを放った。男を責める響きも恩人への悲嘆も表には出さない。ただ、誇り高き騎士の凄絶な最期を、同じ武を志す者として静かに飲み込む声だった。ジークの視線がゆっくりとソラスの悲痛な顔へと移る。長い沈黙の後、彼は腰の剣に手をかけた。

  微塵の迷いもない動きだった。白銀の柄を握り、引き抜く。金属が擦れ合う冷たく乾いた音が、静寂の狩猟道に鋭く響き渡る。

  ユスティナが即座に前へ踏み出る。長剣を抜き放ち、ソラスを完全に庇うように刃を構えた。

「退け、ユスティナ」

「退かない」

  短い言葉の交錯の間に、空間の空気が極限まで圧縮され、張り詰める。

  次の瞬間、ジークの足が地を蹴った。一切の躊躇が存在しない、神域の踏み込みだった。十数歩あったはずの距離が、瞬きする間にゼロへと消滅する。剣筋は機械のように正確で、一切の無駄がなく、恐ろしい速度でソラスの首筋へ届く絶対的な死の軌道を描いた。ユスティナは反射的に、己の剣を横へと薙ぎ払う。

  だが――。

  ジークの白刃が対象に届く、そのほんの直前。彼が踏み込んだ足元の固い土が、不自然に"沈んだ"。指先ほどの、取るに足らないズレ。だが、そのたった数ミリのズレが、完成された剣聖の踏み込みの角度を狂わせた。絶対の死を約束していたはずの剣は、ソラスの銀髪を数本散らすだけの紙一重で、その軌道を外れた。

  ジークは即座に乱れた体勢を立て直し、流れるように二撃目へと入る。今度は、確実にその首を捉えたはずだった。しかし、彼が強く踏み出した先の木の根が、彼を拒絶するように"盛り上がった"。完璧な重心が再び狂い、白耀の刃は空しい風切り音を立てて空を切る。

  ユスティナの剣も、ジークの剣も、どちらも相手の肉体には届かない。

  傍らのソラスは、一歩も動いてはいなかった。ただ、悲しみを湛えた青い瞳で、静かにそこに立っているだけだった。

  三度目の踏み込みへと移行する直前。ジークの流麗な動きが、ぴたりと止まる。彼は荒れた呼吸を静かに整え、視線を自身の足元へと落とし、そして、ゆっくりと構えていた剣の切っ先を下げた。

  完全に、理解したのだ。自分の剣技が鈍ったのではない。相手が神がかった速度で避けたのでもない。ただ、世界と自分が全く噛み合わないのだ。この森という世界そのものが、"ソラスが望まない結果"を、物理法則をねじ曲げてでも明確に排除している。

  ジークは、低く、重い息を静かに吐き出した。

「……そういうことか」

  アンバーの瞳が、真っ直ぐにソラスを見据える。そこには、長年剣の道のみを極め続けてきた男が、初めて剣では決して測ることのできない何かを目の当たりにした者の、静かな畏敬の色があった。

「奴は――甘かったわけではないのだな」

  フラスニイルへ向けて小さく呟く。白刃を鞘へと戻す硬質な音が、やけに大きく澄み切って響いた。狩猟道に、再び元の静けさが戻ってくる。ジークは背筋を伸ばして真っ直ぐに立ち、ソラスの悲しげな瞳を見据えたまま、短く言った。

「行け」

  ぽつりと落とされたその短い響きには、部下を従えるような重圧も、弱者を逃がしてやるような傲慢さも宿っていなかった。ただ、秋の冷たい風が枯れ葉を連れ去っていくように。あるいは、そこにある石や木々の存在をただ認めるように、ひどく自然で凪いだ声だった。

「これ以上、俺がここで剣を振るう意味はない」



  剣聖が塞いでいた道を後にし、二人は再び無言のまま並んで歩き始めた。細い獣道には落ち葉が厚く降り積もり、二人の重い足音を静かに吸い込んでいく。吹き抜ける風は、血と魔力にまみれた深い森の匂いを少しずつ薄め、代わりに、よく乾いた土と遥かな草原が放つ、穏やかな日差しの気配を運び始めていた。

  視界を覆っていた木々の密度が、少しずつ、ゆるやかに解けていく。切り取られていた空の面積が広がり、光の束が太くなる。森の終わりがすぐそこまで迫っていた。

  ソラスは、歩きながら何度か背後を振り返りそうになり――そのたびに、小さく息を呑んで前を向き直した。あの森の奥へ、自らが残してきたもの。その重さを引きずりながらも、もう振り返ることは許されないのだと、己の靴音に言い聞かせるように。

  やがて、不意に視界が大きく開けた。狩猟道が途切れた先に広がる、陽だまりのような小さな草地。背の低い灌木の陰に身を潜めるようにして、一台の古びた荷駄がひっそりと停められている。馬の姿はなく、轍の音を消すためだろう、車輪には幾重にも分厚い布が巻き付けられていた。遠目には、ただ農具を無造作に積んで放置された荷車にしか見えない。アルベルトが己の立場と命を懸けて用意してくれたものだ。その無骨な配慮の形が、痛いほどに伝わってくる。

  ソラスの足がふと止まる。ここまで無我夢中で駆け抜けてきた時間の終わりが、不意に、ひどく静かで透明な寂しさとなって胸の奥に広がっていく。半歩後ろを歩いていたユスティナもまた、落ち葉を踏む音を止めた。

「……ここまでだ」

  事務的な短く乾いた響き。それは血を流し、互いの痛みに触れながら共に歩んできたこれまでの濃密な時間を、あえて何でもないことのように軽く扱うための、彼女なりの不器用な鎧だった。ソラスは小さく頷いたが、すぐには言葉を紡げなかった。対するユスティナは、ソラスの顔を見ようとはせず、視線を草地の先へと向けたまま続ける。

「この先は、人の通る街道に近い。血濡れの鎧を着た私が傍にいる方が、かえって人目を惹いて不都合だ」

  その理屈は、判断としてあまりにも正しかった。正しすぎて、そこに引き止めるための我儘や感情が入り込む隙間が、一寸も存在しない。

  ふたりの間に、透明な沈黙が落ちる。草地を吹き抜ける風が、乾いた草の穂をさらさらと揺らす音だけが、別れの間を静かに埋めていく。ソラスは、ゆっくりとユスティナの方へ向き直った。

「ありがとうございました」

  ただその言葉だけを、空色の瞳で真っ直ぐに見つめて口にする。ユスティナは、居心地が悪そうに眉間を寄せた。

「……お前に礼を言われるような立派なことは、何もしていない」

「でも、あなたは私を助けてくれた」

「結果的に状況がそうなっただけだ」

  突き放すような、いつものぶっきらぼうな調子。だが、その声の端には、隠しきれない微かな硬さと震えが滲んでいた。泥に汚れた顔で、ソラスは花が綻ぶように少しだけ笑った。

「それでも、です」

  ユスティナの唇が微かに開く。思わず反論しようとして、やがて諦めたように固く結ばれる。代わりに、彼女の肺の奥から、深い息が吐き出された。

「……生きろ」

  それは、上官が兵に下すような、絶対の命令の響きを持っていた。

「今度こそ、ただの、普通の人間として」

  ソラスは僅かに目を見開く。三百年もの間、異端の魔女としてこの国を転々と彷徨い、祈りと呪いに縛られ続けた自分にとって、その言葉がどれほど重く、得難い祝福であるか。込み上げる熱を瞬きで堪え、ソラスはひどく緩慢に、深く頷いた。その無言の誓いを確認すると、ユスティナは一切の未練を断ち切るように、踵を返した。

  一度も、振り返ろうとはしない。迷いのない足取りで、彼女はひとり、来た道である深い森の暗がりへと戻っていく。赤毛の揺れるその背中は、幾重にも重なる木々の影へと溶け込み、ついに見えなくなった。完全に気配が消え去った後も、ソラスはしばらくの間、彼女が消えた森の境界を見つめ続けていた。

  やがて、新しい大気を小さく肺に吸い込み、ソラスは静かに荷駄へと歩み寄る。覆われていた布をそっとめくると、そこには簡素な毛布と、たっぷりと水の入った革袋、数日分の食料、そして小柄な彼女の身をすっぽりと隠せるだけの、偽装用の荷が整えられていた。追手からすれば、本当にただのつまらない農具の荷物にしか見えないように。

  ソラスは冷たい車輪の縁に手をかけ、軋む音を立てないよう、そっと荷台の奥へ乗り込んだ。身を縮めて横たわると、視界の枠いっぱいに見渡す限りの空が広がった。幾星霜の記憶を閉じ込めた森の梢。そのさらに向こう側に、どこまでも淡く、高く広がる秋の空。

  固く結ばれていた胸の奥の結び目が、一つ、また一つと、温かいお湯に浸したようにゆっくりとほどけていく。ここから先は、もう理不尽な戦いはない。誰の恐れに縛られることも、誰の思惑に利用されることもない。ただ、自分の明日へ向かって、静かに進んでいくだけの時間だ。

  ソラスは、まぶたに当たる陽の光を感じながら、静かに目を閉じた。遠くで風が草の海を渡っていく、さざ波のような優しい音だけがしていた。

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